スーパー店員ナツキ 序章
勇者、ヒーローと呼ばれる者達がいた。彼、彼女らは世界を救うことが使命であり、彼らの側には、常に多くの仲間がいた。
仲間は時に、勇者の1番近しい人であり、よき親友であり、又は師であり、かつての敵であった。
これは、この世界を守る6人の勇者の中、1番弱い勇者を守る仲間達のお話。
ナツキは困っていた。
何がと言われると恥ずかしい話だが、つい10分前からチラリチラリと浮かんでは消える尿意によってである。
残念なことに、まだ次のシフトが来るには50分あり、気持ち的には大丈夫そうだが、気の持ちようによっては、いよいよまずいこともありうる。そんな状況だ。
ナツキは自分の持ち場である、13番レジの狭いスタッフスペースの中で所在なさげに太股を擦り合わせた。
困った、こんなことならシフト前に水を飲むのではなかった、いや、トイレに行っておくべきだった。いやいや、そもそも冷房が効いていることを見越してスカートではなくパンツを履いてくるべきだった。
考えれば考える程に尿意に意識が飛んで、負のスパイラルに巻き込まれそうな気がしてくる。
レジの後方、白い壁にところ狭しと安売りやら特売の広告が並ぶ中、隅っこに見える壁かけ時計を見ると、時刻は深夜の1時10分を指そうとしていた。
ナツキは、次に視線を戻すとレジに向かって右側、1番レジの方向を見た。
時刻も時刻、常勤で稼働しているレジは7番だけである。そこには、頭髪の半分に白髪が混ざった、やや小太り。冷房の寒さに、なんでそんなに汗をかくのかと思うほど、時おり黒渕めがねをせわしげに右手で上げては、左手で額の汗を拭く長田さんの姿が見えた。
50代、かつては中堅企業で要職についていたが、3年前に会社の業績不振でリストラに合い、流れ流れてこの職場にたどり着いたと、仕事仲間からなんとなく聞いたことがあった。
深夜1時といえど、24時間営業、この周囲では1番大きな総合スーパーであることもあり、このスーパー「セインズ」地下鉄駅前店は、まばらではあるが客足が途絶えることはない。
万が一、客を5組以上待たせることになれば、長田さんはマニュアル通りに応援放送をフロアにかけるだろう。ナツキはそう推測した。
よし、こうやって他のことを考えるとなんとかなりそうだ。しかし、自分のレジは何故こうも人が来ないのか。
ふと油断をして意識を自分に向けると、またあの忘れかけていた尿意がひたりひたりと迫ってくる。
ナツキは改めて思う。人が来ない理由は分かっている。
この13番レジ、本当は表向きには存在しないのだ。
普通の人間、この世界で生まれ、この世界の枠組みだけで生きている者にとって、この13番レジは存在することさえ知覚できない。
このレジは、この世界ではない世界から来た人々。または、この世界にやってきて定住した者達の子孫、身体に『
そこを任されているナツキ自身、元々この地球と呼ばれる星、いや、この世界そのものの出身ではない。
遠く、この地球における中世ヨーロッパと同じような文化を有する、バークライツ共和国と呼ばれる国の出身である。ナツキは自分がバークライツ共和国と呼ばれる国の出身であり、周辺諸国のこともある程度理解はしていたが、この地球と呼ばれる世界程、文明は進んでおらず、きっとどの大陸の国王でさえ、自分達の住んでいる星に名前をつけようとは考えてもいないだろうと、思っていた。
そんなナツキの外見は、この地球における人間とほぼ変わりはない。
身長は155cm、やや痩せ形の45キロ。髪は黒に近いがよく見ると濃い銀色のような光沢が光の加減で見ることができる。肩甲骨辺りまで伸びた髪は、今は仕事中のため一本に黒いゴムで縛られてある。クリッとした両目には髪と同様に、深い銀色を瞳の奥深くに宿している。顔立ちは東洋的ではあるが、ほっそりとした輪郭と目鼻立ちのはっきりとした形は、どこか東欧諸国のうら若き少女のような雰囲気を醸し出していた。
本来は新雪に煌めく雪のような銀色の髪と瞳をしているのだが、この世界に迷い混んだ時、彼女の容姿は、この世界における『
そのことを、初めはナツキ自身とても落ち込んでいたが、しばらく住むことによって、今では他人に好奇の目を向けられないために、むしろ良かったと安堵していた。
今のナツキの服装は、膝上が隠れる程の紺色のスカートに上衣は白い襟月のYシャツ、上からオレンジ色の、左胸元のポケットには控えめに「セインズ」と刺繍されたエプロンを身に付けていた。
あと、45分。
こんなに色々なことに考えをめぐらしても、時間が過ぎるのは遅いものね。ナツキは軽い苛つきを覚えながら時計を睨んだ。
しかし最終手段はある。レジのカウンターに「休止中」、この札を置いておくことだけで、ほんの数分、トイレに駆け込むことができるのだ。
だがしかし、ここは特殊なレジ。使う人は大抵変わっている人達だ。そこを空けてしまうことは、何かまずい事態を引き起こしてしまうのではないか、その思いがナツキをトイレに向かうことを躊躇わせる理由になっていた。
もちろん、長田さんにもレジを頼めない。
長田さんは、ナツキを知っているし話をしたこともある。しかし、この世界の住人である長田さんには13番レジを知覚できないし、今13番レジに立っているナツキのことは、きっと見えてはいるが認識からは外れている。そんな状態だ。
ナツキが長田さんに「ちょっとトイレ行ってくるので12番レジの奥を見ていて下さい」と言ったところで、13番レジは分からない、そこに来る客も分からない。そもそも、ナツキちゃんはシフトに入っていたの?
そのようないくつもの混乱を長田さんに与えるだけで、何一つ良いことはないのだ。
「あ~、次のシフトの子早めに来てくれないかしら」
意味のないことだと思いながらも、ナツキはそう小さく呟いた。
次のシフトは『
ふーっとため息をついた時、レジ正面やや左にある上りエスカレーターの陰から、ヒョッコリと足を引き摺りながら現れる人影をナツキは見つけた。
10メートル程離れているが、上半身は地面を転がったのかと見間違えるばかりの所々に穴があいたくすんだ灰色のTシャツ、破れて膝はダメージジーンズを軽く超えた、常人は履きたくないだろうと思えるライトブルーのジーンズ。明らかに普通ではない。
極めつけはその容貌だ。頭はウィッグを無理矢理登頂部に被せたのかと思えるような灰色の髪、左耳は耳介が欠損しており、頬は痩せこけ、深く窪んだ眼窩はやけに爛々と輝く目玉が2つ、共に別の虚空を睨んでいた。
浮浪者とは言えない、いやこの世の者とは思えない。そんな彼のことをナツキはよく知っていた。
「あぅ、ナツキぢゃんじゃないが」
レジに立つナツキの姿を見た男は、舌足らずなダミ声を上げると嬉しそうに右手を振りかざした。
「あ、お客さん。また来てくれたのですね」
ナツキも男の姿が知り合いであり、常連であることを知り安堵した。
「あぁ、まだナツキぢゃんは、ごのシフトなんだね」
男は左足を引き摺りながら歩いてくる。よく見ると膝下から先はやけに内側へと、明らかに解剖学的に曲がらない方向に足先は向いていた。
『死体拾い』と呼ばれる彼らの種族は、この世界でいうアンデッドと大きな差異はない。むしろ、この世界に昔迷い混んだ彼らの種族が、ふとしたことで認識されたことによって、ゾンビやアンデッドといった怪物に仕立てあげられていたのだ。
やっぱり、臭うなぁ。
その風貌から想像するに容易い、酸味と腐敗の臭いが、ナツキの鼻腔を強烈に刺激する。
「くざぐて悪いなぁ」
男は、ナツキの表情から察したのか、苦笑いをすると左手に持っていた商品である缶詰めを2つカウンターに置いた。
「不快な思いをさせたのなら、誠に申し訳ありません」
顔に出ていたなんて‼️ナツキは自分の失態を大いに反省した。お客様は神様と呼ばれる言葉がこの日本という国にはある。決して売り手がお客の見た目や臭いで区別をしてはいけないし、顔に出すことはもっての他だ。3年この世界に住んでいるナツキにも、接客業の笑顔の大切さは嫌というほど身に染みていた。
おしっこのせいだ!尿意のためか、心に余裕がなかったのだとナツキは失敗を恥じて、少しうつ向いた。
「えぇよ、自分がぐさいことは、いじばん良くしっでるわ」
ガハハと男は笑い飛ばした。
ごめん、おじさん。気を使ってくれて有り難いけど、その大きな口を空けられると、臭いが、臭いが!
溜め込まれた臭気が口から溢れ、臭いは刺激となって涙腺を刺激する。気がつけば尿意は遥か彼方に戻っていき、込み上げそうな嘔気をこらえることに集中しなくてはならなかった。
「すみません、気を使って頂いて」
小さく口で呼吸をしながら、缶詰にバーコードを当てる。
『人肉風味混合肉』と金色の本体に白い包装が巻かれた缶詰はいつ見ても気味が悪い。ナツキは手早く会計カゴに商品を入れた。
「二点で合計838円になります」
結構高価だ。そう思い、値段を男に告げる。男は右手で今にも破れそうな右ズボンのポケットからクシャクシャになった千円札を取り出すとカウンターに置いた。
「あんがとよ」
男は嬉しそうにカゴを受けとる。
ナツキ自身、よく知らないが、死体をあさることがほとんど不可能になった現代において、彼らのように人肉を食事をする種族にとって日本という国は、本当に食事に困る所だと聞いたことがあった。
缶詰めの『風味』と銘打たれている所は限りなくグレーだが、あの人肉風味の缶詰めは彼らのような種族にとっては生命線であり、生きるために必要なほぼ唯一の栄養であった。
このように、『
「お客さん」
思わず声が出た。
「なんよ」
自然と声が出たため、しまったと思ったがもう遅い。
「このあとお急ぎですか?」
「いんや、寝床に帰っで、これぐって寝るだけだ」
突然声をかけられたためか、怪訝な顔を男は見せたが、元々顔が歪んでいるため、その表情を読み取ることは難しい。
「大変恥ずかしい話なんですが、3分ほどこのレジを閉めたいのですが、他にお客さんが来ないか見ていただいても宜しいですか?何分特殊なレジですから」
ナツキの顔、表情を見て察したのか、男はガハハっと笑った。
「ええよ、いっでこい。10分くらいなんてこどはないよ。俺なんが、飯喰っても、うんごも出ない身体になっでるからな」
恥ずかしい。そんなこと分かってても胸に秘めててくればいいのに。顔を赤くさせながらナツキはうつむき答える。
「あ、あの。違います、トイレのペーパーの補充です。⋯⋯ありがとうございます。ここのレジは閉鎖しておきますから、お客さんが来たら少し待っててくれるように言って頂ければ助かります」
苦しい言い訳が出て、顔から火がでるほどに熱くなった頬を隠すようにナツキは急いでレジの鍵をかけた。
「まぁ、長年ここに通ってるやつなら、誰もわるざしようとは思わんよ。あんだの様な店員さんが店を守ってるがらな」
男は袋をブラブラさせると、払い終わったレジ前を戻り、ナツキによって、『休止中』と札がカウンターに置かれると、一番近くにある支柱に身体を預けた。
「ありがとうございます。私の力だけじゃないことが多いですが⋯⋯すみません、では少しよろしくお願いします!」
ナツキはペコリと頭を下げると、小走りでトイレへと向った。
「ふぅ」
ナツキは手を洗うと、鏡に映る自分の姿を覗きこむ。
特に乱れがないことを確認すると、そのままトイレを出る。
我慢していたことを解き放つということは、解放感に満ち溢れている。先ほどまでの我慢が嘘のようであり、顔には余裕が満ちていた。
「お客さんに悪い気分させちゃったな」
ナツキはポツリと呟くと、パンッと両頬を軽く叩いた。眠気がはじけ、しっかりしなくてはというやる気が出てくる。
気合いを入れて、トイレのドアをあける。
通路を戻り売場へ出ると、男が周囲をきょろきょろと、用心深く見渡していた。
何かあったのかしら。ナツキも男の様子に、ピリッとした雰囲気を感じつつゆっくりと歩を進めた。
ゆっくり来い。
男はナツキが帰ってくるのを見つけると、ハンドサインでゆっくりと近づくように促した。
ナツキもたった15メートルくらいの距離を注意深く辺りを見渡しながら、歩いていく。『因子ファクター』を持たない一般客がまばらに見える他に特に変わった様子はない。
男の側まで近づくと、ナツキは小さく声をかけた。
「ありがとうございました。何かありましたか」
小声のナツキに男も小声で答える。
「あぁ、なんが知らないやつがいる。俺よりはるがに嫌な感じがするやつだ」
「姿は?」
「いや、見ではない。俺の力で嫌な感じのやつがはいっできてるのがわがった」
男は小声で言うと苦笑した。
「俺たちは弱いがらな。自分より強そうなやつの感じがわがるんだ」
なるほど、『死体拾い』という種族由来の通り、彼らは生者に挑むことは少ない。それは、個々の個体の力が大きくないことが関係する。死体を安全に探すために、彼らの危険察知能力は、他の種族よりも遥かに長けていた。ナツキは、そう思い至ると、改めてこのスーパーに驚異となる厄介ごとが舞い込んできたと理解した。
「分かりました。お客さんに危険なお願いをして申し訳ありませんでした。後は私が。お客さんは気をつけて帰ってください」
真剣な目で男を見ると、ナツキは深々と頭を下げた。
「わがった。そうさせてもらうよ。ナツキちゃんも気をつけで」
男は軽く会釈をすると、ゆっくりと正面玄関へ歩いて行った。
ガサガサという缶詰めを入れた袋と、男の跛行している不規則な足音が遠ざかっていく。
さて
正社員足るもの、職場の平和を守らなくてはいけない。
何故、ナツキがまだアルバイトである長田よりも短い期間で正社員になり、このような深夜のバイトが活躍している時間に勤務しているか。それには、今このような不規則事態のことを対処するためであった。そして、そのほとんどには荒事が含まれており、会社側はナツキのような特殊な人材を、企業を守るために破格の厚遇を与えていた。
ナツキは、緊張を削ぐように流れるセインズのテーマソングに軽い苛立ちを覚えながらも、全感覚を研ぎ澄ませるように息をはいた。
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