【番外編・春燕と皇帝】一牛鳴地の距離に、その人はいた 前編
後宮の四つの宮は、どれも同じ作りになっている。
母屋とそれに付属した建物が、
朱壁妃・雹華の小宮は、北瀟宮の北西の片隅にある。
「鈴玉、若渓。今日から、こちらの春燕にも侍女の仕事をしてもらいます。仲良くしてね」
雹華が、彼女の椅子のそばに立った娘を紹介した。
侍女のお仕着せを着た娘が、頭を下げる。
「春燕です。よろしくお願いします」
顔を上げた春燕は、細面にきりっとした眉の、背の高い娘だ。
「二人とも、春燕に色々と教えてあげて」
雹華に促され、鈴玉も若渓もにこりと微笑んで挨拶の仕草をする。
「じゃあ春燕、まず厨房に行きましょう。お食事は大宮の厨房から運ぶんだけど、お茶や軽食はそれぞれの宮で用意するのよ」
三人で厨房に入ると、早速おしゃべりが始まった。
「春燕さん、背が高いのねぇ!」
小柄な若渓が、春燕を見上げながら目を丸くする。春燕は苦笑いしながら肩をすくめた。
「男みたいでしょう。この、侍女の素敵なお仕着せも、私にはぜんぜん似合わなくて恥ずかしい」
「あら、そんなことないわ。なんていうか、戯曲の女役みたいなかっこよさ」
「ほんとだ、そんな感じ! もし男装したら、逆に妖艶になってモテちゃいそう」
鈴玉と若渓が褒めると、春燕は「ありがとう」とはにかんだ。
彼女は、この容姿にずっと劣等感を持っていた。
子どもの頃から、近所の悪ガキたちに「オトコオンナ」といじめられて育ってきたのだ。女らしい格好をするとさらに笑われるので、ずっと地味な服ばかり着てきた。
十五歳になり、親が娘の嫁ぎ先を探し始めたことに気づいた彼女は、ゾッとした。
「今さら女らしくして、男と結婚するなんて、絶対いやだ!」
必死で親に反抗し、家出も考えていることを、春燕はある人物への手紙にとうとう書いてしまった。
すると、その人物は心配して、こんなふうに返事を寄越した。
『ご両親と話し合って、どうしてもうまくいかなくて家出することになっても、危ないから絶対に行方をくらましたりしないでね! せめて私のところに来て!』
この手紙の相手が、雹華である。
雹華の父は一介の商人に過ぎなかったが、国境を挟んだ隣国との間に独自の交易路を開拓し、春燕たちの故郷に大きな富をもたらした。
成金、などと口さがないことを言う者もいるが、商才のある実力者であることに変わりはない。
一人娘の雹華には、名のある学者が家庭教師としてつけられた。春燕はその学者の孫で、それなりの格がある家で学びながら育った。
雹華の方が少し年上だが、二人は仲の良い幼なじみである。
ある日、雹華は言った。
「春燕。私、お嫁に行くことになったの」
「えっ……あっ、ええと、おめでとう!」
いつかはそんな日が来ると覚悟していた春燕だったけれど、優しい雹華がいなくなるのは衝撃だった。無理矢理な微笑みを浮かべて祝福する。
「雹華が嫁ぐなら、きっとすごいお家だろうなぁ! あの、どこへ行くの……?」
「ええ、あの」
雹華は俯く。
「お父様が私を、皇帝陛下にと推薦なさって……。私、後宮に入ることになったの」
ギョッとして、春燕は混乱した。
「後、宮……?」
(後宮なんて! たくさんの女の人が、皇帝陛下の寵愛を得ようと必死になったり、争ったりって話が……そんな場所で、雹華は幸せになれるの? そ、それに、万保の都は遠いのに。私、もう、雹華に会えない……?)
「春燕」
雹華はすでに、受け入れているようだ。にっこりと微笑む。
「たくさん手紙を書くわ。春燕も、返事をちょうだいね。あ、そうだ、よかったら私の月琴をもらってくれないかしら」
「えっ?」
「お父様が、陛下の前では弾くなとおっしゃるから……それなら、いっそ置いていこうと思って。売るにはしのびないし、誰かにあげるなら春燕がいいわ。ね、もらって」
自室に入ると、春燕は立てかけてある月琴にそっと触れる。
この二年、雹華のよすがとして大事に保管し、時には練習してきた。雹華ほどではないが、彼女も弾けるようになっている。
(……これを持って、行こう)
彼女は決意する。
(雹華、ううん、雹華様──朱壁妃様のところへ行ってみよう。先帝陛下が亡くなって、今上陛下の後宮でどうなさっているのか、ずっと気になっていたんだもの。そして、後宮で働かせてもらえないかお願いしてみよう。あそこなら私、結婚しないで済むし)
そうして、春燕は万保の都にやってきたのだ。背が高く、凹凸の控えめな彼女は、男装してしまえば女の一人旅とバレることもなかった。
下働きでもなんでもやろう、と思っていた春燕だったが、雹華は侍女として迎え入れた。
(それにしても、まさか雹華様が、陛下に雹姐(雹ねーちゃん)なんて呼ばれてるなんて)
春燕は北瀟宮の廊下を歩きながら、思わず笑ってしまった。
男性が苦手な彼女は、皇帝が雹華に会いに来ると厨房に逃げ込み、お茶の支度などして表に出ないようにしている(お茶は鈴玉か若渓が運ぶ)。それでも会話は耳に入ることがあって、最初はその呼び方に目を丸くしてしまった。
鈴玉と若渓が、吹き出しながら教えてくれたものだ。
「びっくりするよね。雹華様が十五歳で後宮入りなさった時──ええと、先帝陛下がご存命で、今上陛下は東宮でいらした頃ね。陛下はまだ十三歳で、後宮に頻繁にいらしていたの」
「幼い頃に母皇后様を亡くされて以来、後宮で、他のお妃様方に可愛がられてお育ちになったんですって。三年前に雹華様がいらして、初めてご挨拶した時に、さっそくなついてしまわれたのよ」
「だから、とても雹華様を大事にして下さるのよね」
「姉として、だけどね……」
うーむ、と悩んでしまう侍女三人である。
春燕は、小さくため息をついた。
(陛下は私と同い歳でいらっしゃるのね……)
同じ年頃の男子が特に苦手な、春燕である。
そんなふうに始まった後宮暮らしも、丸一年になる。
十七歳になった春燕はある日、後宮内の牛舎にやってきていた。
後宮では、牛の乳を飲むのが流行している。元々、令国は騎馬民族から始まった国なので乳製品にはなじみがあり、
管理棟に生乳を受け取りに行く前に、春燕はこっそり回り込んで、牛舎側に出た。干し草や糞尿の匂いはするが、ンモー、というのんびりした鳴き声に、頬がほころぶ。
牛舎の入り口から中を覗くと、牛たちがそれぞれの房から頭を出し、もっしゃもっしゃと餌を食べていた。
(牛、可愛いなあ)
生乳を取りに来るたび、牛を眺めるのが春燕の楽しみになっていた。
彼女は、生き物が大好きだ。実家にいた頃も鶏の世話をし、近所の猫たちを見て回り、池でこっそり亀を飼っていた。
悪ガキたちにいじめられるので、雹華と遊べない時は動物に癒しを求めていた部分もあるのだが。
(はぁ、いつまでも見てられる)
奥を見ようと頭を動かしたとたん、牛舎の
(おっと! もう、こんな時も背が高いと不便)
手探りで髪を外す。
(よし。さ、もう行こう)
管理棟に顔を出すと、ここで働く宦官たちが「いらっしゃいませ」と迎えてくれる。
「朱壁妃様の分ですね、どうぞ」
「ありがとう」
生乳の入った蓋つきの鍋が差し出され、春燕は取っ手を握った。土鍋なので、それなりに重い。
彼女はそれを持って、北瀟宮に戻り始めた。
日が沈み、後宮は闇に包まれた。
一日の仕事を終えた春燕は、侍女の部屋に戻ってきた。着替える前に髪を解こうとして、頭に触れ、ハッとなる。
「あっ……
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