【番外編・春燕と皇帝】一牛鳴地の距離に、その人はいた 後編

 雹華の侍女たち三人は、水晶の玉のついた銀の簪を挿していた。変に女っぽくないので春燕は気に入っていたのだが、それがなくなっている。

(そうだ、今日牛舎に行った、あの時)

 髪をひっかけた拍子に、きっと落としてしまったのだろう。


 明日は朝から後宮内の園林にわで、高斗妃主催の茶会がある。

 茶会というのは口実で、北瀟宮の品位と秩序を保つため、高斗妃が妃たちやその侍女たちの様子を細かく見るのだそうだ。


(侍女が揃いの格好をしていなかったら、きっと雹華様が色々と言われてしまう。ただでさえ私、背が高くて悪目立ちしてしまうんだから、あの簪はちゃんとしてないと)

 鈴玉は今日は厨房の夜番、若渓は交代要員なので先に眠っている。

(相談したかったけど……これから一人でこっそり、探しに行こう。お仕着せを汚すわけにいかない、着替えないと)

 私物から適当に服を引っ張り出してみると、故郷から万保にやってきた時に着ていた、男物の服が出てきた。

(これを着ていれば、下働きの宦官に見えるかも!)

 後宮内とはいえ、宦官の中には罪を犯して宦官にさせられた者もおり、夜に女一人で出歩くには治安が少々心許ない。

(男装していれば、少しは安心ね)

 春燕は急いでそれを着込み、髪を適当にまとめると、部屋を出た。


 牛舎までやってくると、中から灯りが漏れていた。ブモー、ブモーと牛たちが騒いでいる。

(な、何かあったのかな)

 戸惑ったものの、とにかく簪を見つけなくてはならない。

 春燕はそっと、牛舎の入り口に近寄った。かろうじて灯りが届いているので、きょろきょろと足下を見回して探す。

(私の簪、どこだろう)

 いくらも探さないうちに、牛舎の中から小柄な宦官が一人出てきた。

「あっ、あんた、ちょっと手伝え!」

「へっ?」

「早く!」

 宦官は牛舎の中に戻っていってしまった。

(えぇー……?)

 春燕は困ったが、仕方なく後に続いた。

「ええと、あの、何があったんですか?」

「産気づいたはいいんだが、なかなか出てこなくて」

 一頭の前で、宦官は立ち止まった。ブモー、と何か訴えている牛の後ろに回ると、尻から何かがつきだしている。

 小さな蹄だった。子牛の足だ。

(お産!)

 おそらく、足先が出てからが進まないのだろう。蹄には縄が巻きつけられ、引っ張り出す準備ができている。

「こんな時に限って、今夜の当番がなかなか来なくて。一緒に引っ張ってくれ!」

「あっ、ハイ」

 ここまで来たからには仕方がない。春燕は宦官の後ろで、一緒に縄を握った。

「せーの!」

 おっかなびっくり、縄を引っ張る。

 しかし、なかなか子牛は出てこない。

「もう一回!」

 宦官のかけ声で、春燕も本気を出して引っ張った。母牛はブモーと鳴いている。

(可哀想に。苦しいよね)


 その時、牛舎の入り口で人影が動いた。


 てっきり当番の宦官とやらがきたのだと思った春燕は、人影に呼びかけた。

「ちょっと、早く来て! 手伝って!」

「ん? お、おう」

 人影が動く。

 宦官がもう一度「せーの!」と言ったので、春燕もギュッと目を閉じて渾身の力で引っ張った。すぐに背後に気配がして、さっき呼びかけたもう一人が縄を握ったのがわかる。

「うーむ!」

「よいせー!」

「どっこいしょー!」


 ずっ、ずずっ、と縄が動き──

 ──どちゃっ、という濡れた音とともに、子牛が藁の上に落ちた。


「よし、出た!」

「あぁ、よかった!」

「生まれたか」

 母子ともに無事なのを確認し、宦官はホッとした笑顔を見せた。

「やれやれ、手伝ってくれてありがとう。あれ? ええと、新人かな?」

「あ」

 春燕は、本来の用事を思い出した。

 とっさに、新人宦官のフリをする。

「あはは、うん、別部署なんだけど、通りかかっただけなんです。でもよかった。じゃあ」

 ササーッ、と牛舎の外に出る。

(あぁびっくりした。ええと、簪、かんざし)

 灯りはわずかだったが、ちょっと探しただけで、キラリと光るものを見つけることができた。

「あった! あぁ、よかったぁ」

 拾い上げて、胸に抱きしめる。

 その時、足音がした。

 管理棟の方から、二人ほどこちらへ走ってくる。立派な身なりをした、宦官の中でも位がやや高いと思われる宦官たちだ。牛舎に駆け込んでいく。

「陛下! こちらでしたか!」

「突然お姿が見えなくなったと思ったら、こんな所に!」

(……陛下?)

 春燕が呆然としていると、中から誰かが出てきた。

「牛舎の様子を見に来ただけだ。子どもの頃によく遊びに来ていたからな、このあたりは」

 こんなふうに言えるのは、後宮で生まれた者だけである。

(そういえばこの声、聞き覚えがあるような)

 記憶をたどった春燕は、愕然とした。

(『雹姐』っておっしゃってた、あの声! 皇帝陛下だ!)

 よりによって皇帝を、春燕は当番の宦官だと思いこみ、声をかけて手伝わせてしまったのだ。

 口をパクパクさせている春燕を、皇帝はちらりと見た。

「ん?」

 じっと彼女の顔を見つめ、そして彼女の手元に視線を落とし、もう一度「ん?」と眉を上げる。

「あのっ……申し訳」

 春燕が謝罪しかけた時、身分の高い宦官が焦った口調で割って入った。

「陛下、高斗妃様がお待ちですので!」

「わかった、わかった」

 皇帝はすぐに前を向き、すたすたと立ち去っていく。

 春燕は、かんざしを握りしめたまま、立ち尽くすことしかできなかった。



 茶会を無事に乗り切った、数日後。

 春燕は雹華に頼まれて、書庫で借りた書物を数冊、運んできていた。

 雹華の宮の門前まで来たとたん、突然、立ちふさがった者がいる。

「そこの侍女、待て」

 皇帝だった。

「ひっ」

 緊張に固まってしまった春燕を、皇帝は前から横からじろじろと見る。

「朕と変わらないこの身長、水晶と銀のかんざしは雹姐の印」

 そして、ニヤリ、とうなずいた。

「うむ。やはり、牛舎で会ったのはお前だな」

(バレてるー……!)

 貴重な書物を抱えている春燕は、それを地面に置いてひれ伏すことができない。立ち尽くしたまま、頭を下げて声を絞り出す。

「あの夜はっ、も、申し訳、ございませんでした……! どうかお許しを!」

「ともに子牛を引っ張り出した仲ではないか、かしこまるな。名乗れ」

「春燕、と、申します」

「いつも男装しているのか? 好きなのか?」

「す、好きといえば好きですが……いえ、その、あの時は特別で、必要に迫られまして……」

 皇帝は「ふーん」と唸った。

「貴族の娘の間では胡服が流行しているという。朕は女らしく着飾った者ばかり見て育ったせいか、すっきりした装束が好きだ。春燕も、あのような男装はとてもよく似合うのに、侍女は装束が決まってしまっているからな」

 同じ年頃の男性に、服装をからかわれなかったのは初めてのことだ。彼女はドキッとして、興味を持つ。

(雹華様の弟のように振る舞い、私を変だとおっしゃらない、皇帝陛下。一人で抜け出して後宮をぶらぶらなさってもいるみたいだし、いったい、どんな方なんだろう……)


 この時の様子を他の宮の侍女に目撃され、『春燕が皇帝の目にとまった』という話が一気に広まった。

 そうして、彼女と雹華は事件に巻き込まれ──

 ──男嫌いの侍女と、ちゃっかり者皇帝の関係は、どんどん深まっていくことになる。



~いちぎゅうめい‐ち〔イチギウメイ‐〕【一牛鳴地】1頭の牛の鳴き声が聞こえるほどの近い距離。一牛吼地(いちぎゅうこうち)。いちごみょうち。(デジタル大辞泉より)~

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