第10話 後宮からの呼び出し
「
銘軒が呼びかける声が聞こえる。料亭に入ってきた兵士は、知り合いのようだ。
変装した姿を銘軒の知り合いに見られるのもどうかと思い、雹華はしばらく階段の上で待つことにした。
大為と呼ばれた男の声は続く。
「意外な場所でお会いしますね」
「ああ、所用でな。大為は今日、蛍林宮の警備ではなかったのか」
「そうなんですが、伝令で出てきました」
男は少し声の調子を変える。
「主人。ここで誰か、月琴を弾いていたな」
雹華は思わず、息を止めた。
「はい」
肯定する、料亭の主人の声。
兵士は続ける。
「
(えっ? ……房妃様って)
声を漏らしそうになって、雹華は自分で口を塞いだ。
やはり星座から名前をとった『房妃』は、
(春燕!)
侍女から妃に取り立てられた春燕も、皇帝とともに宮へと向かっていた。
そして、
「大為、楽人は俺が雇ったんだが、もう帰っ」
銘軒が言いかけた時、雹華はとっさに足を踏み出し、階段を下りていた。
声をかける。
「私に、何かご用でございましょうか」
銘軒がギョッとして振り向く。
玄関に立っていた、大為と呼ばれている兵士は、以前青明門で会った大柄な衛士だった。
銘軒の妻だとは気づいていないようで、ごく普通に尋ねてくる。
「楽人か、名乗れ」
(こんな機会は、きっと二度とない)
彼女は、はっきりと名乗った。
「
銘軒はじろりと彼女を見たが、やがて大為に向き直った。
「……彼女は、俺の知り合いの楽人だ」
雹華は何気なく、大為に向かって礼を取る。
大為はうなずいた。
「そうでしたか、銘軒殿が身元を保証して下さるなら助かります。では、この花琳という楽人をお借りしたく。花琳、宮城の門が閉まる前に、瑞雲宮に来るように。
瑞雲宮というのは、後宮の住人とそれ以外の者が面会するときに使う宮だ。
日暮れ前に宮城に入れば、一泊することになるだろう。
「かしこまりました」
「うむ。それでは銘軒殿、また」
大為は挨拶し、仕事に戻っていった。
玄関に、沈黙が落ちる。
雹華はおそるおそる、銘軒の背中に話しかけた。
「旦那様……」
振り向いた銘軒が、ぎろり、と雹華を見る。
「あの、その、ご説明を」
言いかけた雹華の腕を、銘軒はいきなりつかんだ。
「主人。すまんがもう少し、部屋を借りる」
「はいどうぞ、ごゆっくり」
銘軒は雹華を引っ張るようにして階段を上がり、先ほどの部屋に逆戻りした。
「房妃様ってのはつまり、あんたの侍女だった春燕だよな」
部屋の戸を閉めるなり、銘軒は声を抑えつつも眉を逆立てた。衛尉寺少卿である彼はもちろん、房妃について知っている。
「まさか房妃様が、雹華の演奏を気に入っちまうとは……いや、それはともかくだ。あんた、なぜ再び房妃様に近づこうとする」
「それは」
「まさか」
銘軒は、どこか愕然とした表情になった。
「後宮に未練があるのは、侍女を殺しきれなかったからか? 今度こそ殺そうというんじゃないだろうな? 正体をばらして引き渡すぞ!」
あわてた雹華は、必死で遮る。
「逆ですっ、旦那様!」
「は? 逆?」
雹華は月琴を抱きしめたまま、彼の目を必死に見つめた。
「春燕の方が、私だと気づいて呼んでいるのです!」
一瞬、絶句した銘軒だが、やがて低く聞いた。
「……どういうことだ。説明しろ」
「はい」
うなずいた雹華は、打ち明けた。
「実は、さっき演奏していた『鵬程万里』──あの曲は、私と春燕、二人で作った曲です」
その言葉に、銘軒は驚く。
「二人で、作った?」
「私と春燕は元々、仲のいい幼なじみです」
懐かしそうに、雹華は微笑んだ。
「私が後宮入りした後も、故郷の春燕とは文のやりとりを続けていました。そして、今の主上が即位され、私が再び妃になった後、万保にやってきて侍女になってくれたのです。というのも、あの子は男の方がとても苦手で、家にいたらいずれは嫁に行かされるのを嫌がっていて……私の侍女として、後宮でずっと働く方がいいと望んだからです」
「まあ……後宮は女だらけだからな……」
「私も、春燕が来てくれて、とても嬉しかった」
雹華は、膝の上の月琴を撫でた。
「後宮では弾けないからと、この月琴は春燕にあげていたのですが、彼女は持ってきてくれました」
『雹華様、本当は弾きたいのでしょ』
後宮にやってきた春燕は、こんな提案をしたのだ。
『私が弾いていることにして、こっそり弾いてしまえばいいのでは? もし、月琴の音色が聞こえたけれど誰が弾いているの、と聞かれたら、春燕だと言えばいいのです』
「私は、まるで春燕が私に演奏を聞かせているかのような体で、実は逆に私が演奏をするという形で月琴を弾きました。春燕と二人きりの時にだけ、こっそり。その時に作ったのが『鵬程万里』です。私たち、ずいぶん遠くまで来たものね、という気持ちを込めて」
雹華はそこまで語ったところで、表情を曇らせた。
「ある日、後宮にいらっしゃった主上がふと、春燕に声をおかけになって。私は心配しました。春燕は、男性が苦手だからこそ後宮に来たのに、と……」
つぼみを付けた恋が、花開くかどうかはわからない。
雹華はひとまず、なるべく皇帝と春燕が会わないように気をつけながら、様子を見ることにした。
しかし、皇帝が一人の侍女に声をかけたことは後宮内で噂になり、これはもしかして……という雰囲気になっていく。
「そんな時でした。私の食事に毒が入れられ、試毒した春燕が倒れたのは」
「……!」
視線を鋭くした銘軒を、雹華はまっすぐに見つめた。
「天に誓って申し上げます。毒を入れたのは、本当に、私ではないのです。誰かが、私に罪を着せる形で春燕を殺そうとしたのでしょう」
「しかし、あんたじゃなければ誰がやったんだ」
「今もわかりません」
雹華は首を横に振る。
「……運良く、使われた毒に春燕は耐性があったようで、彼女は助かりました。けれど、その時から私は軟禁状態になり、春燕とは話ができないままです。犯人は私ではない、と証明することはできませんでしたが、私に間違いないという証拠も出なかったので、処刑は免れましたけれど」
「あんたの話を信じるなら、春燕はあんたの味方だろう? 主上に見初められてる春燕が主上に訴えれば、後宮追放なんて憂き目に遭わずに済んだんじゃないのか?」
「はい、あの、それなんですが……」
雹華は視線を揺らせ、口ごもった。
やがてもう一度、銘軒を見つめる。
「春燕は、主上に訴えてくれたと思います。でも私が、その、あまり春燕との絆を強調しないようにして……少々曖昧な態度をとることで、容疑を完全に晴らさないようにした……と申しますか」
「……はぁ!?」
銘軒が声を上げ、雹華はビクッと肩をすくませた。
「も、申し訳ありません」
「謝るこたぁないが、でも何で」
言いかけて、銘軒は目を見開いた。
「待てよ。そうか。春燕が殺されずに済んだからか」
「はい! その通りです」
雹華は、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「春燕はしばらく寝込みはしたものの、助かりました。正式に妃にもなりましたので、身の回りは主上が気をつけて下さるはずです。そして、『犯人』である私が後宮を追放されてしまえば」
「真犯人は、春燕に手を出せなくなる。自分が雹華に罪を着せたんだからな」
銘軒はまじまじと、雹華を見つめた。
「あんたは、春燕を守ったのか……!」
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