第5話 妻は夫に食事を届ける
母屋の入り口両脇には、
木を見下ろす二階で、雹華は欄干の手すりを拭いている。
(自室の掃除や片づけには、慣れてきた気がするわ)
手を止め、花を眺めて一息つく。
山法師は秋になると赤い実をつけ、紅葉も美しい。
雹華は、落葉した葉を箒で掃き集めているところを想像してみる。
(……その頃には、後宮の春燕はどうしているだろう。そして私は、旦那様の妻になれているかしら。気持ちまでも、ちゃんと……)
視線を上げれば、屋根屋根の向こうにちらりと見える、宮城の壁。
雹華は小さくため息をついた。
(ダメね、二階にいるとつい、あちらを見てしまう。下で何かできることはないか、おじいさんに聞いてみよう)
厨房の窓からは湯気が漏れており、包子を蒸かす甘い香りがしている。通いの老人が夕食の準備をし、鈴玉も手伝っているはずだ。
(料理は二人がしてくれる。私は手を出さない方がいい。何をしたらいいかしら)
考えながら、雹華は階段を下りていったのだが……
「おじいさん、大丈夫? 後は私がやるから」
鈴玉の、心配そうな声が聞こえる。
何かあったのかと、雹華は厨房の入り口から中を覗いた。
「どうしたの?」
「あ、雹華様」
鈴玉は、老人に手を貸して椅子に座らせているところだった。
「息苦しいのですって」
老人は顔をゆがめ、辛そうにしている。
何かの発作かと、雹華も思わず駆け寄った。
「おじいさん」
「大丈夫です、奥様、申し訳……ありません。少しすれば、落ち着きますんで」
老人は途切れ途切れに言いながら、胸を押さえている。
「いつもは、薬があるんですが。今日、帰りに、取りに行こうと」
「つまり、今はお薬を切らしてしまっているのね。どこのお医者様にかかっているの?」
雹華が尋ねると、鈴玉が顔を上げた。
「あ、私、知ってます! 一度、おじいさんと買い物に行った時に教えてもらったんです」
「よかった、行ってきてくれる?」
「そ、それより」
老人は、震える手を上げて指さした。
作業台の上に、持ち手のついた二段の
「旦那様に、お届けする食事が」
「あ」
雹華は、銘軒が今日、青明門の警衛についていることを思い出した。青明門はこの家から最も近い外門で、東外壁の中央にある。
万保の人々には、冷たい食事を食べる習慣があまりない。老人は銘軒のために、青明門での仕事の時くらいはせめて……と、温かい食事を届けていた。
すでに陽の傾き始めた空にちらりと目をやり、雹華はつぶやいた。
「そろそろ出ないと、坊里の門が閉まるまでに帰ってこれないわね。……わかりました、そちらは私が行きます」
「雹華様、お一人で!?」
驚く鈴玉に、雹華は笑いかけてみせた。
「大丈夫よ、青明門でしょう? 青明
東市場に面した青明街は、人通りも多く安全だ。
「あぁ、でも私がお食事を運んだりしたら、旦那様はお嫌かもしれないわね……鈴玉のふりをして、どなたかに渡してもらうようにするわ、なるべく」
「でも……そうですか……そうですね」
鈴玉は老人と雹華を見比べて迷っているようだったが、彼女としても薬は急ぎたいし、銘軒の機嫌も損ねたくない。
「わかりました。雹華様、くれぐれも青明街を外れないよう、お気をつけ下さいね」
「ええ、必ずそうするわ。おじいさん、私たちに任せて待っていて下さいね。鈴玉、行きましょう」
二人はうなずき合うと、立ち上がった。
この家に来て以来、雹華はいつも地味な
喰籠を持った雹華は、青明街に出たところで鈴玉と別れると、慎重に歩き出した。
二階、三階建ての店が建ち並ぶ大街には、大勢の人や荷車が行き交っている。その向こうに見える楼閣・青明門の威容は、すぐ近くにあると錯覚するほど大きい。
(迷いようがないわ。後は人にぶつからないように……)
雹華は密かに緊張しながら、喰籠を守りつつ歩いていく。
後宮入りする前に、実家の使用人と故郷の町を歩いたことはあったが、皇帝のお膝元である万保は規模が違った。馬車だけでも、小さな荷車から要人を運ぶ極彩色の馬車まで、様々な乗り物が行き交う。
歩く人々も、令国の民だけではない。東方や西方からも多くの旅人が入ってきていて、変わった意匠の衣服を身にまとった者、金の髪や青い瞳の者もいた。
(万保で働くというのは、本当に大変なことね。私は後宮で、実家の商売と宮城を繋ぐことくらいしかしていなかったから、なんだか目が覚めるような気持ちだわ)
思いながらも、雹華は慎重に進んでいった。人混みを歩き慣れていないため、避けるのがやっとなのである。
少しめまいを感じるのは、人に酔ってしまったせいかもしれない。
(旦那様はいつも、こんな中で働いてらっしゃるのね)
やがて彼女は、門扉が見えるところまでやってきた。
楼閣の一階には三つの門があり、両開きの扉は全て開け放たれている。今の時間、万保を出て行く者はほとんどおらず、外からどんどん人が入ってきていた。
(衛士の宿舎は外壁の外側のはず……この流れに逆らわないと、行くことができないのね。ええと……)
ゆっくりと歩きながら観察していると、雹華から見て左、北の通りから、外壁の内側に沿って数人の衛士がやってくるのが見えた。見回りか交代か、そんなところだろう。
(よ、よし。私は鈴玉)
大きく深呼吸してから、雹華は少し早足になった。必死で人の流れの隙間を蛇行しつつ、衛士たちのいる方へと近づく。
「あの、お役人様!」
「どうした」
若い小柄な衛士が一人、雹華を見て立ち止まった。
彼女はホッとして、礼をとる。
「林銘軒様の家の使用人で、鈴玉と申します。食事を届けに参りましたが、不慣れなもので、どうしたらいいかわからず」
「ああ、少卿の……いつものご老人は?」
「身体の具合が悪く、代わりに参りました」
「そうか、わかった。鈴玉さんだね、届けよう」
「ありがとうございます、お願いいたします」
衛士に喰籠を渡し、雹華はホッとする。
(よかった、お使いを果たすことができたわ。さぁ、後はまっすぐ帰るだけ)
そう思ったとたん、別の声がかかった。
「どうしたんだ?」
別の、がっしりした体型の衛士が近寄ってくる。
「銘軒殿の家からの使いだ」
「もしかして、後宮からお妃についてきた……? さすがに美人だな!」
顔を覗きこまれ、雹華は驚いて身を引いた。
後宮には女性と宦官しかいなかったので、筋骨隆々とした男性が少し恐ろしい。銘軒すら、こんなに距離を詰めてきたことはない。
「あ、あの、私はこれで」
声が少し震えてしまった。
小柄な方の衛士が口を挟む。
「ほら、怖がってるぞ」
「別にとって食おうっていうんじゃない、話をするだけだ」
大柄な方が一歩横に動き、それだけで雹華は青明街側に出にくくなってしまった。
彼は満面の笑みで聞いてくる。
「どこの生まれ? 万保に詳しくないなら、行きたい店とか案内するよ」
「もう戻りませんと」
「あれ、奥方は厳しいのかな? せっかく後宮を出てきたのに、遊べないのか?」
雹華は思い切って顔を上げる。
「鈴……私、今は、ご夫婦になったばかりのお二人の生活が、早く落ち着くようにとしか考えていませんので!」
(実際、鈴玉は不満も飲み込んで、家事を覚えたり私を支えてくれたりしているもの)
その時、今度は聞き覚えのある声がした。
「うちの者がどうかしたか」
雹華はハッと振り向き、二人の衛士もそちらを見る。
鎧姿の銘軒が立っていた。
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