第6話 夫は妻に、毒気を抜かれる

 左右の胸に丸い鉄板のある鎧、手には槍。肩当て(袖)の色が少卿の位を示す銘軒の姿は、普段よりもさらに凄みが増している。


 小柄な方の衛士が、手を軽く上げて雹華の方を示しつつ言った。

「ああ、銘軒殿。食事を届けに来てくれましたよ、鈴玉さんが」

(あっ)

 反射的に顔を伏せた雹華は、礼をとったまま固まった。

 衛士はそのまま続ける。

「いつものご老人が体調不良だそうで」

「…………」

 銘軒が軽く眉を上げた。


(鈴玉の名前を騙ったの、バレてしまった……!)

 雹華は思わず目を瞑る。

(おじいさんがせっかく作った食事なのに。私のせいで食べて頂けなかったら、どうしよう)

 冷や汗が滲む。

 足下がふらつく。

(…… あら?)


 任務(?)失敗の衝撃と、初めて一人で街を歩いた緊張と、人混みに酔ったのと。

 三つの非日常によって、雹華は軽い貧血を起こしていた。


(ここで倒れて旦那様にご迷惑をかけたら、私、本当に、何をしに来たのかわからない)

 踏ん張った雹華は気力を振り絞り、もう一度頭を下げる。

「お仕事中、失礼いたしました」

 銘軒たちに背を向け、何とかまっすぐ歩き出す。そして、最初に目についた角を曲がり、路地に入った。


 青明街から一本曲がっただけなので、ここも人通りは多いが、西日が遮られてやや薄暗い。門からは見えないだろう。

 商店の壁に手をついた雹華は、そのまま肩を預け、深呼吸した。

(壁、お借りします……)

 軽く頭を下げ、彼女はめまいが落ち着くのを待った。 



 銘軒は、雹華が道を曲がっていくのを見ると、二人の衛士に言った。

「少し見回ってくる。その喰籠じきろう、宿舎に置いておいてくれ」

「え、冷めますよー」

「いいから」

「銘軒殿、今度さっきの鈴玉さんを紹介して下さい」

 大柄な衛士は、彼女が気に入ったらしい。

「奥方が美人だと評判なのは知っていましたが、お付きの子もやっぱり美人なんですねぇ」

 隠しておく必要もないので、銘軒はバッサリと言った。

「さっきのは妻だ。外を出歩くために使用人のフリでもしてきたんだろう」

「へ?」

 ぽかんとしている衛士たちを後目に、彼は歩き出した。


(自分が食事を届けたら俺の機嫌を損ねると思って、鈴玉の名前を使ったんだろうな)

 雹華の疑惑が晴れたわけではないが、もし彼女が銘軒の食事に毒を盛ろうとするなら、家でやった方が楽だ。わざわざこんな場所まで来て、銘軒の同僚に顔を晒してまでやることではない。

(それくらいの分別、俺にはある。普通に食べるというのに。厨房のじいさまが具合が悪いなら、鈴玉はそちらの世話か。で、雹華が一人でこっちに来たと)

 先ほどの、血の気の引いた顔が脳裏に浮かぶ。

(初めて会った時のように、緊張のあまり今にも倒れそうな白い顔をしていた。さっき何やら鈴玉のことを言っていたが、二人して家でもまだずっと緊張しているのかもしれない)

 あれからずっと彼を恐れているとしたら、彼女が少し可哀想だと思わなくもなかった。


 雹華が曲がった道へと入ってみると、案の定、すぐそこで雹華が壁によりかかっている。

 銘軒は大股に近づき、雑に彼女の腕をとった。

「あっ……旦那様」

 びくっ、と顔を上げた雹華に、銘軒は言う。

「具合が悪いなら、そこに座れ」

「え、あ」

 商店の裏口に石段があり、銘軒は雹華を腰かけさせた。店の者に何か言われても、彼がいるので大丈夫だろう。


 石段のすぐ横に、銘軒は壁に背を預けて立ちながら言った。

「返事はしなくていいから聞け。あんたが独身の鈴玉のフリなどするから、衛士たちがちょっかいを出す。もうやるな」

 雹華はうつむいたまま、うなずいた。

 銘軒はため息をつく。


 さっきつかんだ、腕の柔らかさ。飾っておくだけの宝ではない、人間がそこにいる。

 今日のように緊張しながら、あれこれ考えて動いてくれもする。

 変に情がうつりそうなのが、銘軒は嫌だった。


 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。ざわざわとした喧噪だけが、あたりを包む。


「……あの、もう大丈夫だと思います」

 そろそろと立ち上がった雹華が、姿勢を正した。

「付き添って下さって、ありがとうございました」


「こんなところにあんたみたいなのが一人でいたら、もめ事になるから仕方なくだ。俺はもう行くぞ」

 さっさと立ち去りかけて、銘軒はもう一言言いたくなり、また振り向いた。

 雹華に指をつきつける。

「いいか。今はたまたま時間が空いていたからここにいたが、俺は門を守る仕事を仰せつかっている」

 雹華は瞬いた。

「は、はい」

「俺は太上皇をお守りした褒美にあんたをもらったが、あん時は民が何人か巻き込まれて死んでる。今同じような事件が起こってあんたが危険にさらされても、俺は仕事を優先するからな! 妻よりもだ!」


 すると、目を丸くした雹華は、大きくうなずいた。

「もちろんです! 私でもそうします」

「あ?」

「え? だって、私も主上のために生きていた女ですから」

 当たり前のように言われて、銘軒は思わずひるんでしまった。

(そういや、そうだった)


 顔色の戻ってきた雹華は、続ける。

「後宮を出された今でも、主上の、皇家の皆様のお役に立ちたい気持ちは変わりません。だから今は、皇家をお守りする旦那様の、その手助けをするのがお役目と思っています。旦那様にとって、私など二の次三の次で良いに決まっています」


 そして彼女は、嬉しそうに微笑んだ。

「よかった。旦那様と私、同じ気持ちを持っているんですね!」


「は?」

 勝手に距離を詰められた気がして、一瞬イラッと来た銘軒だが、雹華はこう続けた。

「私も男性だったら、衛士を目指しますのに」

(夫婦ヅラするつもりかと思ったら、同僚ヅラだった……)

 毒を盛ったかもしれない相手に、一気に毒気を抜かれてしまった銘軒である。


「いいから早く帰れっ。青明街を行けよ!」

 返事も待たずに、銘軒は今度こそ彼女に背を向け、ずかずかと歩き出した。


(……んとに。下さるなら飾っておくだけの宝物ほうもつの方がうんと良かったですよ主上!)

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