第4話 妻と夫、それぞれの事情

 雹華は楽器を奏でるのが好きだ。

 銘軒が仕事でいない時間、彼女は家の仕事を覚えようと奮闘しているが、休憩時間には『月琴』という楽器をつま弾いている。


 ばちを弦の上で遊ばせていると、次第に没入して外の世界は消え、心は音楽だけで満ちていく。



 令国では、人前で楽器を演奏するのは楽人など、あまり身分の高くない者たちだ。雹華のような裕福な家の女性は、歌や踊りをたしなむ。

 しかし、彼女は幼い頃に実家に招かれた楽人の演奏を聞いて感動し、頼み込んで教わって以来、楽器に親しんできていた。

 両親はあまりいい顔はしなかったが、歌舞もきちんとこなす雹華に強くは言わなかった。



 最後の音を弾いた雹華が、その余韻に耳を澄ませていた時、カタンと音がした。

 我に返って顔を上げると、銘軒が立っている。


「あっ、旦那様」

 雹華はとっさに椅子から立ち上がろうとしたが、楽器を落としそうでまごついた。

「ええと、お仕事では」

「警衛する予定だった行事が取りやめになった」

 ざっくり説明した銘軒は、彼女をじろりと見る。

「月琴か」


 月琴は、まん丸い胴が満月のようなので、そう呼ばれている。四本の弦が張られた短い竿の頭、糸倉には、赤い飾り紐が下がっていた。


「巧みだな。よく弾くのか?」

 銘軒は尋ねた。

(叱られるかも)

 月琴を抱えたままの雹華は、緊張しながらうなずく。

「はい……」

「ふーん」

 彼はふと、皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「主上にも演奏を披露したのだろう。喜ばれただろうなぁ」


 さすがに後宮入りが決まった時、雹華は父親から「主上の前では絶対に弾くな」と申し渡されている。


 一瞬言葉に迷った雹華は、部屋の隅に控えている鈴玉がムッとしているのに気づいた。

 雹華を追放した皇帝(ありていに言えば妻を捨てた元旦那)について、現旦那が話題に乗せてくることに、「やっぱり無神経!」と怒っているのだろう。


 雹華は彼女を牽制するためにも、何でもないように素直に答えた。

「いえ、宮城には梨園がありますし。私などが演奏しなくとも」


 梨園というのは、音楽や舞踊の専門家を育成する施設のことを指す。

 音楽好きだった先帝が、梨の木の立ち並ぶ果樹園にその施設を作ったため、そう呼ばれていた。


「演奏しなかったのか? お喜びになっただろうに。披露する機会はあるはずだ」

 銘軒はさらにつっついてくる。

「は、はい。そうなんですが……」

 雹華は口ごもった。


 後宮では芸事を披露する会が催されるので、銘軒はそのことを言っているのだろう。

 しかしその会でも、妃たちは歌や踊りを披露するのが普通で、楽器を弾くとしたら女官たちだった。


 銘軒は返事を待たず、あっさりと言う。

「ま、もう終わったことか」

「はい……そう、もう終わったことです」

 雹華もうなずいた。

 そしてふと、正直なところを口にする。


「私は、主上のおめがねに適うような妃ではなかったので、梨園で楽人として学ばせていただいた方がよかったかもしれないと思うこともあります」


 銘軒は一瞬、黙り込んだ。

 しかしすぐに、いつものざっくりした口調で言う。

「婚礼の吉日を、占ってもらってきた」

 日どりを彼女に伝えると、彼は「じゃあな」とすぐに部屋を出て行く。用事がある時くらいしか、彼は雹華の部屋には来ない。


 雹華はため息をついた。

 今の会話で、彼女の脳裏には、後宮での出来事が鮮やかに蘇っている。


 後宮には、最大で二十八人、妃が迎えられる。

 彼女らは、東西南北の四つの宮に分かれて暮らすことになっていた。しかし今上皇帝は、妃を大勢抱えるのは争いの元であると考えた。

 そこで、東林とうりん宮と西鈿さいでん宮は閉め、南煌なんこう宮と北瀟ほくしょう宮、二つの宮にのみ妃嬪を置き、通っていた。


 雹華がいたのは北瀟宮で、そこで最も位が高かったのが、高斗妃とひと呼ばれる妃である。

 由緒ある貴族の出で、もちろん「新しい」妃だ。


(高斗妃様は、南煌宮の最高位である許井妃せいひ様に、激しい競争心を燃やしておいでだった)

 それが高じて嫉妬深くなり、高斗妃は皇帝と他の妃たちが顔を合わせることすら嫌がった。

 北瀟宮では冬に、南煌宮では夏に芸事の披露の会があるのだが、妃嬪たちが披露している間、高斗妃の鋭い視線が痛かったのを覚えている。


(春燕)

 雹華は、かつて侍女だった彼女に思いを馳せた。

(主上の目に留まって、妃に……きっと、高斗妃様には激しく嫌われているでしょうね)



 一方、銘軒は自室に戻ってきた。

(……あれは取り澄ましているというより、天然なのかもしれないな)

 彼は嫌々ながら、書き物机の前に陣取る。

 上司や同僚から祝いの品や手紙が届き始めていたので、片っ端から返事を書き始めた。手紙を書くのは苦手なのだが仕方ない。

(結婚なんか、一生しないで済ませたかったのに)



 銘軒は、天涯孤独の身の上だった。

 彼はこの万保の生まれだが、幼い頃に父親が怪しげな事業に手を出して失敗、一家で夜逃げした。

 父親は結局首をくくり、母親は自分のことで精一杯になったか、銘軒を置いて行方をくらました。


 銘軒は地方の町で、生きていくために小さな仕事を何でも引き受け──その中には犯罪まがいのものもあった──、苦労しながらその日暮らしを送った。


 その頃、令国は異民族の侵攻に手を焼いていた。

 先帝は国力を上げることに力を入れており、その施策の一つとして、子どものための施設を作った。いずれ国の指定する場所で働いてもらう、それまで寝食も教育も無償で提供する、という施設だ。

 孤児の銘軒にとっては、天界のような場所だった。


 施設で学んだ銘軒は、やがて地方の砦に兵士として配属された。

(ありがてえ。いざという時に頼りになるのは家族なんかじゃない。国だ。国が盤石であることだ)

 彼は全力で働いた。


 やがて異民族との衝突は外交にその場を移し、銘軒は優秀な働きをしたとして異動。

 衛尉寺所属になり、万保に戻ってきたのだ。


 

 少し陰のある独身男、宮城勤めの銘軒は、割とモテた。

 しかし、家族というものに夢も希望も持っていない彼は、結婚する気などさらさらない。

 世話焼きの上司に「家を持て」と勧められて買ったが、「次は結婚だ、結婚はいいぞ」と言われ、正直閉口していた。


(それでもどうにか躱していたのに、まさかから妃が降ってくるとか思わないじゃないか)

 彼は窓の外にしかめっ面を向ける。

(俺の方こそ、宮城を眺めて泣きてぇわ)

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