冬熊(2)
「なあなあ、知ってるか?」
「……人に知ってるかどうかを聞くときは、まずなにを知っているかから話すべきだろう」
「ああ、確かにそうだな。悪い。で、知ってる?」
体の力が抜けて倒れそうになるのを、手に持った箒を支えになんとか耐えた。
僕達のクラスでは、教室の端に座っているものから順番に二名ずつが選ばれ、放課後に教室の掃除をすることになっている。
今日の当番は僕と戸橋。ホウキでゴミを一箇所に集めながら、僕はいつものように戸橋の下らない話に耳を傾けている。
今さらすぎて文句を言うのも面倒だが、真面目に掃除をしてるのは僕だけだ。戸橋は箒を手に持った瞬間から一歩も動いていない。ただ、口だけは常に動いていた。
「加藤とかは毎回窓まで拭いてるらしいぜ。よくやるよなあ」
「……」
他人事だ。
こいつまさか、今日の掃除当番は僕だけで自分は話し相手になってやっているのだとか、そういうことを思っちゃいないだろうか。
そう考えた矢先、ちりとりが床を滑りながら僕の方までやって来た。
そして、ちりとりだけを寄越すだけ寄越した戸橋は、そのまま窓を指で擦っている。掃除ではなく、落書きだ。
「……傘さしたネズミってどうやって書くっけ?」
「ネズミの上に傘を書けばいいんじゃないか?」
「ほーん、なるほどな」
僕が掃除用具を片付ける音と、戸橋がキュッキュキュッキュと窓を一生懸命に擦る音が教室にこだましている
『しかしあれですね。よく仲良いですよね。戸橋さんって先輩が一番嫌いそうなタイプなのに。あははは』
そう何度か言われた言葉が思い出される。心の中で「全くその通りだ」と答えながら、自分の学生鞄を肩にかけ、戸橋の学生鞄を思いっきり放り投げた。
「おお、よっと」
「……はぁ」
戸橋は自分のカバンを投げられたことになんの不満も感じず、当たり前のようにキャッチして「よーし掃除終了!」などと高らかに宣言していた。
お前がやったのは窓への落書きだけだろうに。
窓に目をやると、UFOに連れ去られる棒人間が描かれていた。
言いたいことは山ほどあるが、この後の憂鬱な放課後を思えば、ここで無駄な体力を使うべきじゃない。
代わりに、全てを憂いたため息を吐いておく。
「はぁ〜〜〜……」
「お前はよくあの子と二人きりの部活でそこまで憂鬱になれるな」
「あいつと二人きりだからだ」
魂を込めて吐き捨てるが、ほこらと二人きりという状況、それ自体にもう思うところは正直なくなってきている。全く慣れとは恐ろしい。
だがあいつと出会ってもう九ヶ月ほど。春夏秋冬全てにおいて僕は多種多様な怪奇現象に巻き込まれ、危ない目にあってきた。
にも関わらずだ。
「はぁ……」
「なんだよ……。今日はやけに幸せを逃がすな」
「逃げるような幸せがあるのなら、それはとても幸せなことだ」
「贅沢もんだなあ〜! 俺も欲しいぜランデヴー」
戸橋は不機嫌そうに、教室の鍵を指で回している。この前同じことをやって鍵が窓から飛んでいったことは忘れたらしい。
まあ、戸橋の不機嫌も理解はできる。
傍からすれば、僕らは喧嘩するほど仲のいい先輩後輩のにしか見えないだろうから。
黒板に書かれた日付は12月17日。一週間後に控えたクリスマスイブ。浮き足立っている連中も多い中、その件の後輩と泥を投げ合うような醜い闘争を繰り広げていた。
ほこらはなんとか僕のスケジュールを抑えようと躍起になり、僕はなんとかスケジュールを抑えられまいと躍起になっている。
その詳細は語る必要も無いというか語りたくもない。
そんな有様がここ数日の日常だった。
そんな有様だから、この学校で一番僕らに近しいと言える戸橋からの視線は当然温かいものではないし、そのあまりの醜い争いっぷりに、あの神奈ちゃんですらその有り余る優しさを保ったまま僕を見捨てた。僕たちを――と言うべきかもしれない。
「落ち着いたら教えてください……」
落ち着くとはどういう意味か。僕が勝つのかほこらが勝つのか。それともあまりにもな不毛っぷりに僕もほこらも疲れ果ててなにがしたかったのか、なにをするべきだったのかもわからないまま倒れふすのか……なんにせよ、散々な毎日だ。
「少なくとも、僕の高校生活はあいつのためにあるんじゃない……」
「なんだかんだ楽しそうだけどな、お前」
「どこがだ」
これは諦め、というのだよ。戸橋君。
ちなみに、ほこらと戸橋はまあまあ仲がいい。二人でどこか遊びに行ったりという程の仲ではないが、二人で喋っているのをよく見かける。
一度気になってなにを話しているのかほこらに聞いてみたら、だいたい僕のことだそうだ。聞いたことを後悔した。
メンバーが三人以上いないと認められない同好会において、籍を置いている戸橋はほこらにとって逃さないに越したことはない相手だ。
それゆえに、ほこらは戸橋のことを一人の先輩として尊重しているような態度を取っているし、基本的に人あたりのいい戸橋もそんなほこらのことを気に入っている。そして、ほこらは傍からみれば顔もよければスタイルもいい美少女だ。
で、それのなにが問題かというと、なにか僕とほこらの間でいざこざがあった時、戸橋はほこらの味方をするということだ。
この最悪の板挟みで、僕にできることなどありはしない。ただ渋々と折れるのみ、だ。その時のほこらの嬉しそうな顔といったら……。
もう一度、ため息。そろそろ覚悟を決めて、今日も部室に行こうか。そう思って教室を出た時、背中から声がかかった。
「……そんなにほこらちゃんに会いたくねえんならさ、今日は俺に付き合わね?」
カバンを振りながら、僕を抜かして廊下に出て、親指で外をさす戸橋。
「……珍しいな。僕を遊びに誘うなんて」
「遊びっていうか、ほら、さっき掃除中に言ったろ」
「ああ、あれか。――いや、なにも言われない」
「はぁ?! 言ったろ。頼むぜー」
「言われてないって」
「あーそっかそっか。お前知らねえんだったな」
「戸橋、頼むから適当に喋るのをやめてくれ」
「んー? ああ、そうだったそうだった。なんも言ってなかったな。わり。いやな、ほこらちゃんに漫画貸しに一年の教室に行った時に聞いたんだけどさ――」
「待て待て待て待て待て」
なんだ、その、全然聞いたことない状況は。
お前ら僕の知らないところで漫画の貸し借りしてたのか。
「あー、勘違いすんなってそんなんじゃねえよ。ただ漫画の貸し借りしてるだけだって」
「そんなんもなにも漫画の貸し借りをしてる部分に驚いてるんだよ僕は」
そういえば、二ヶ月ぐらい前からほこらが僕にあまり漫画を勧めてこなくなったのを思い出した。
なるほどな、他に漫画仲間ができたからか……。どんどん俗っぽくなっていくな、あいつ。
「というか僕は、お前が人に貸すほど漫画を読んでることにもびっくりしてる」
「お前が読まなさすぎなんだよ。逆に珍しいぜ?」
「一度読もうとしたことはあるんだけどな」
結局すぐに怪奇現象に巻き込まれてそれどころじゃなくなって、そのままだ。
「で、まあその時聞いたんだけど」
唐突に、話が戻る。
「山あんじゃん?」
「……どっちのだよ」
「あ? この辺にそんないっぱい山あったっけ?」
「あるだろ。西と東に」
「知らねえよ。俺は地理の学者じゃねえんだぞ」
地理の学者じゃなくても知ってるだろ。今年引っ越してきたばかりの僕ですら知ってる。
だが、西にも東にも僕にとっていい思い出はない。
「……まあ、東の方の山なんて近づくこともないか……西か?」
「うんまあわかんねえけど、中村さんが山菜取りに行ったりする方の山」
「知らん」
「ほら、あの山、熊出るじゃん?」
「――ああ、らしいな」
中村さんは知らないが、熊が出ることは知っている。あの西の――僕にちょっかいを出してきた問題児を、ほこらが閉じ込めて、あわや神様が生まれかけたあの山だ。
「――で、それがどうかしたのか?」
嫌な予感がする。
生まれたてのまま消えたとはいえ、あの山は神様が生まれかけた場所。その残滓が、いつまた別の怪奇現象を生み出すかわからないと、ほこらが言っていた。
幸い、夏から特になにもないはずだが……。
「熊がな、出るらしいんだよ」
「……は?」
「運動がてら登った年寄りだかおばちゃんだかおっさんだかがな、見たんだって、熊」
「……ああ」
そりゃあ、出るだろう。
熊がいる山なんだから。熊は出るだろう。
戸橋にそんなつもりはないとはいえ、無駄にひやひやさせるのはやめて欲しい。いや、そんなつもりがないからこそ、タチが悪いのかもしれない。
――というか熊が出るような山に山菜取りに行ったり、散歩に行ったり、その神経の方がよっぽど怖い。
呆れ顔の僕に、違うんだよと戸橋は大袈裟に手を振る。
違う? そう聞く僕に対して、戸橋は言った。
「いやほら、今って冬じゃん」
「もうすぐクリスマスだなって……ん?」
なんとなく、戸橋の言わんとしてることを理解する。
確かに、妙だ。その違和感を、戸橋は口に出す。
「熊って、冬眠してんじゃん?」
言っておくけど、冬眠してる熊を見たって話じゃないぜ――と、先んじて釘を刺す戸橋。
僕は決して熊の生態に詳しいわけじゃなく、いつから熊の冬眠が始まるのかなんてさっぱり知らないが、たまに雪がチラつくような寒さの中で冬眠していないわけがない。
冬眠って言われるぐらいだしな。
「なんかさ、遠くの方でそれっぽいのが動いてるの見たんだってよ――な、これってさ、オカルトじゃね?」
「なんでそんな嬉しそうなんだ……」
今から僕と一緒に山に確かめにいかないか――どうやらそういう話らしい。
オカ研に籍だけ置いて、部室にはほとんど顔を出したことのないこいつがそんなことを言うのはとても珍しかった。まあ、戸橋のことだからただの気まぐれが理由の全てなんだろうけど……。
「却下」
「えー?! なんだよだって変だろ!!」
「変……ではあるかもしれないけど」
「オカルトだぜ?! オカルト!」
「うるさいな……」
電気の球が切れただけで大騒ぎしそうだなこいつ。
冬に出没した熊。そんなはやっていない噂話、ただの嘘か、よくて見間違いだろう。
「なーいいだろう! たまにはオカルト研究っぽいことしようぜー!」
いつになくうるさい。こいつ、もしかして寂しかったのか?
なんにせよ、行く理由がなさすぎる。それがもし本当に戸橋の言うようにオカルト――怪奇現象だとして、わざわざ僕が巻き込まれにいく必要はないし、そもそも怖いのが――
「オカルトじゃない場合どうするんだ?」
「……じゃない場合?」
「ようするに、そういう種類の熊」
いるかどうかは知らんが。
オカルトなら、まだこれまでのノウハウで対応できるかもしれない。でも熊は無理だ。
目の前で無関心になろうものなら、僕はそのまま美味しいご飯だ。逃げ切る自信もない。
「……なんか破ァー!ってやったら熊倒せない?」
「試して見ろ。僕は嫌だ」
「はあ……面白いと思ったのになあ……」
がっくりと肩を落とす戸橋。深く説明するまでもなく、その危険性を理解して諦めたようだ。軽い言動のわりに聞き分けがいい。
「退屈なら進路でも真面目に考えとけ。進路希望調査配られてただろ」
「それが嫌だからこうして色々と遊ぼうとしてんだろ? というかお前はどうなんだよ」
「僕の頭でいけそうな近場の大学適当に書いといた」
「うわっ……。――まあ、いいか俺も一旦それんしょー」
じゃーなーと手を振って、戸橋は帰っていく。別に変な場所じゃなければ、誘われれば行くんだぞ? 僕も。
まあ、今日のところは帰るか。
そう思った時、後ろからパタパタと足音が聞こえてくる。
後ろを振り向くまでもなく、その音の主の名前を呼び、いつも通り軽口を叩き合いながら引きずられていく。
さて、部活の時間だ。
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