感情逃避(終)
きっとそれは、当たり前の、それこそ人間の枠を超えて神様にさえ適用される。
そんなありふれたものなのだろう。
僕はいま、ほこらの作った扉を通り、神様の世界にいる。
一度目のように、五感が覚醒すると同時に情報に潰されることもない。
見るべきものがわかっていれば、そこは驚くほどなにもない。
どこまでも澄んだ世界だった。
そしてその中央には、黒い、ほこらが悪霊と呼んだ、たまたま漂っていた低級の神様と結びついて、暴走してしまった一つの感情がポツンと、忘れ物のように置かれていた。
ああ、それは、当たり前にも程がある感情だ。ほこらだって、そうだったんだ。
当然、神奈ちゃんのそれはもっともっと大きいはずだ。
「ごめん」
そう語りかける。
その感情に、その感情を生み出した子に。きっと、本人には伝わらないだろう。本人から切り離されたからこそ、コレはここにある。
月垨神奈。十四歳の中学二年生。僕を好いてくれている、僕に恋をしている女の子。
僕が神奈ちゃんという女の子を、視界に入れようともしていなかったその時からずっと、僕に恋をしていた女の子。
僕は、神奈ちゃんの好きな男だ。それを、理解していた。していたはずだ。彼女に対して、自分が最低の男にしかなれないことはよくわかっている。
それでも、限度があった。
僕の知っている世界と、彼女の知っている世界は、別だ。それが、本来存在しないはずの姉――月垨ほこらの仕業であることは、この際置いておこう。
少なくとも今、月垨ほこらは月垨神奈の姉であるということは、僕以下の全てにとって揺れようのない真実だ。
僕と神奈ちゃんから見えるものの違い。
僕にとっては、まとわりついてくる迷惑な神様を振り払っているだけでも、神奈ちゃんにとっては好きな男が自分の姉と仲睦まじく、連日行動を共にしているように映るだろう。
「僕とほこら付き合っているという誤解が、きみにとっては凄く重いものだったと、僕は想像出来ていなかった。だから、ごめん」
ほこらが言うように、僕は神奈ちゃんには優しいのだろう。けれど、僕はただ、神奈ちゃんに優しいだけだった。神奈ちゃんが抱えているものを、軽んじていた。
ほこらがそう思ったように、神奈ちゃんも何度も思ったのだろう。
仲睦まじくく、いつも一緒にいて色んな言葉を交わしている僕達に。羨ましいと、妬ましいと、痛みを与えてやりたいと。
「でも、神奈ちゃんは凄く優しい子だから、だから、ただ溜め込んでしまった」
溜め込んで溜め込んで、そしていよいよ溢れてしまった時にその偶然は重なった。
たまたま近くにそういった悪霊──存在しないに等しい弱い神様がいたから、神奈ちゃんがたまたま強い巫女としての力をその奥底に宿していたから。
切り離したのか、切り離されたのか、本来あるべきところから逃げ出した嫉妬という感情は、この世から漫画を消すという形で、その負をこの世界に拡げた。
なにが原因だと聞かれたら、僕としか言いようがない。
『出雲さん漫画読むんですね! わたしはたまにしか読みませんけど……でも、前一度読まないって言ってたんで意外です』
『ああ、ほこらの奴がうるさく勧めてきて。どうにも頭に残って仕方がないから暇だし試しに読んでみようかなって』
きっと、今回の現象が起こった瞬間はこの時だろう。
なにが僕とほこらを繋げているのか、神奈ちゃんはいまいち理解していなかったはずだ。だがこの瞬間、明確に繋がるものが出来てしまった。
だからこそ、その嫉妬は溢れ出した。はちきれそうになって、それでも抑えようとしたから。だから──。
そっと、それに触れる。本来は僕がちゃんと受け止めるべきだったその嫉妬に。
脳が焼ききれたりはしないが、それでも、気分が重たくなるようなものが、頭に流れ込んでくる。
どうして姉さんにだけそんな顔をするの。自分に優しくしてくれるのは姉さんの妹だから。どうして二人はそんな気軽にふれあえているんだろう。わたしには優しいだけ? 出雲さんが楽しそうだからそれでいい。好きだから。好きなのに。お姉ちゃんだって出雲さんが好き。もう一度話せただけでよかったはずなのに……苦しい……苦しいよ……。
――額を抑える。
これが神奈ちゃんがずっと内に秘めているものなのか、それとも悪霊によって肥大化してしまったものなのか、それはわからない。
「それにわかったところで、僕はきっと、同じ思いを神奈ちゃんにさせ続けるんだろうな……」
せめて巻き込まない――そんな決意も、安っぽく崩れ去ってしまった。
「わかんねえよ……」
膝を抱えて、そんな弱音を吐き出す。自分の最低さを心から理解して、それでもなお、正解がなにかなんてさっぱり出てこない。
ただ、この怪奇現象を終わらせる方法はわかっている。ただいつものように、こうして気がついたものに、向けられたものに、ただ"どうでもいい"と、心を固めればいいだけだ。
どれだけ溜まった感情であっても、受け取る側に当たりもせずすり抜けていくだけなら、消えてなくなっていく。
別にそれでなにかが変わるわけじゃない。ただこの現象が終わって、神奈ちゃんは、そんな感情が溢れた自覚もないまま、僕への想いがなくなるまでまた溜めていくんだろう。溢れたところで、今回のようなことが起こるとも思わない。
ほこらですら戸惑うレアケースだ。いくら僕でも、そうそうお目にかかれない。
ただ僕は――
「どうでもいいなんて……思いたくないな……」
僕がこれからどう行動すればいいかだなんて、考えても考えてもわからない。第一、僕だって巻き込まれた側のはずだ……僕だけがなんとかしなくちゃいけないなんてこと、あるわけがない。
でも、こうして僕に向けられた想いを、なかったことにしたくない。ただ、その感情だけがあった。
「――あれ?」
いつの間にか、黒に置いていたはずの手が宙に浮いている。もうこの澄んだ空間にはなにもない。
ただ、情けない僕がポツンといるだけだ。
確かに僕は、見るべきものを見た。けれどそれだけで、たったそれだけで良いとでもいうのだろうか――。
「はは、優しすぎだろきみ。いいのか、僕は何も決めないまま、その優しさに甘え続けるんだぞ……」
答えはない。けれど見るべきものを失った世界にもはやいる意味はなく、僕の意識はゆっくりと現実に溶けていく。
ああ、でも、そうだな。
僕がもしなにかを決意して、恋なんてものを始めるとするのなら、多分――……
「とっ、とと、キャッチ」
「…………また吐いたらどうするつもりだよ」
「構いませんってば。なんならこのままトイレまで連れていきます?」
「いや、大丈夫。段々スッキリしてきた」
飲み込まれるような感覚で戻ってきたのに、実際は二本足で歩いているんだから、その辺りの感覚のズレでふらついただけだ。
目も耳もしっかりしている。
とりあえず、ほこらから離れないと……。
「……よっと」
「多分、なんとかなったんだと、思う」
「そうですか……では、わたしは漫画が戻ってきたかどうかゆっっっっくり確認してきますので、先輩はしばらく、ここで休んでてくださいねー」
「あ、おい」
呼び止めるまもなく、ほこらは部屋から出ていってしまった。
それと同時に、後ろでモゾモゾと音がしている。
ああ、なるほど、気を利かせてくれたのか。珍しい。
「今回だけですからねぇー!!」という雄叫びが聞こえてきた。そういうところだと思う。
「んんぅ……お姉ちゃ………出雲さ……」
振り返ると、目が覚めた神奈ちゃんが寝ぼけた顔から一転、目と口を開けて放心している。
ぐるりと辺りを見ると、なるほど、片付け中という感じの部屋だった。
「ど、どうし……」
「ああ、えっと、物音がしなくなったから心配になって……」
「そうだわたし寝て……あんな夢見て……出雲さんに見られ……きゅぅ……」
萎んでしまった。もうここから出た方がいいのだろうか。
「夢のメカニズムって未だに解明されてないらしいです……」
「そ、そう……」
気まずいらしい。気を使ってくれたらしいほこらには少しだけ悪いが、大人しく出ていくとしよう。
ああでも一つだけ、言って起きたいことがある。
「あの神奈ちゃん、とりあえず言っておきたいことがあるんだけど」
「な、なんですか……」
自分の醜態を詰められるとでも思っているのだろうか、頭を抱えて縮まってしまっている。
「俺は確かに、ほこらとしょっちゅう一緒にいるし、これからもいることになると思う」
神奈ちゃんが顔をあげて僕を見る。そしてなにかを恐れるように、目だけを伏せた。
「でも、付き合たりはしていないし、するつもりもないから」
その後は、長い沈黙だった。さすがに言い逃げすることも出来ず、ただ立ち尽くす。
そして、ゆっくりと、神奈ちゃんは言った。
「でも……お姉ちゃんは……出雲さんのこと、大好きですよ……」
「ああ、知ってる」
「え?」
「でも、それは恋とはちょっと違うと思う」
「そ、そんなこと!」
「ああ、うん。そんなことはないかもしれない」
「え、えぇ……」
我ながら、誠実さの欠片もない。だが結局、わからないものはわからない。
なにが正解で間違ってるかを考えるには、あまりにも色々なことが歪みすぎている。
「でも、きっとなんとかするから、だから、待ってて欲しい。……いや別に待たなくていいな……神奈ちゃんが辛くない方法をとってくれたら……」
「出雲さんが、なにを言いたいのか、よくわかりません」
いつの間にか、しっかりと僕を凝視する神奈ちゃんの顔は、先月見たばかりの、とても強い顔をしていた。
「だから、なにを言うべきかわかるようになったら、もう一度話を聞かせてください。その時には、わたしも聞いて欲しい話がありますから」
「――うん、そらなら、まだしばらくは甘えさせてもらう」
「はい! 姉さんのこと、よろしくお願いしますね!」
「ああ、僕からもきみにもっと優しくするようにほこらに言っとく」
じゃあまた、と言って部屋を出る。
本当に解決すべきことは、恐ろしいほどなにも解決しなかった。
けれど、神奈ちゃんは今はそれでいいのだと言ってくれた。なら、どうでもいいとは言わないが、ひとまずこれでおさまってくれるとありがたい。我ながら、本当に最低だけど。
ずいぶんと長い時間が経ったような気もするが、実際この家にいた時間は一時間ちょっとらしい。
玄関先には、ほこらが見送りに来ている。神奈ちゃんはいない。
「――ってなんだそれ。それが人を見送る時の顔か?」
さっき一瞬見せた気遣いはなんだったのだろうかというぐらい、不機嫌を体現したような顔。
そしてそのまま、その不機嫌を一切隠そうともしない声色で言った。
「いやだってねえ……よく考えたらなんですか今回。怪奇現象を飛び越えてつまんないラブコメ読まされた感じがありますよ」
酷い言い草だ……。
そう言われるにたる原因は今回に限ってはいくつも思い浮かぶが、というかそうか、向こうの世界での出来事は、こいつも見てたのか、そうか……。
「先輩、私からも誤解のないように言っておきますけど、別に構いませんよ? 先輩が彼女作ろうが結婚して幸せな家庭を築こうが別に」
「……」
なにも言えない。
この後続く言葉は分かりきっている。だが、いつもとは違う不思議な圧があった。
「ただわたしは最後の最後、綺麗なままの先輩の魂を、永遠に私のものにするだけですから」
「ではまた明日」とにこやかにほこらの家の扉は閉められた。
ようやく帰路につけるわけだが、なんだろう、この一人取り残されたような複雑な感情は。
「……いや、明日って今夏休みだろうが」
きっと、逃げることはかなわない。あいつが明日と言った以上明日には僕はあいつと一緒にいることになる。それだけならまだマシだが――うぅ、と身震いをする。
とりあえず、漫画を読んで現実逃避でもしようか。
神憑き怪奇とめぐり逢いて 林きつね @kitanaimtona
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