感情逃避(5)
「やあ、神奈ちゃん。おかえり、お邪魔してるよ」
にこやかに挨拶してみたものの、神奈ちゃんの目は笑っていなかった。挨拶も返ってこない。
それはそうだろう。用事があると早々に別れた男がよりにもよって、姉の部屋でその姉と喋っているのだから。
怪奇現象よりも重たい問題が目の前に出来てしまった気がする。
こういう時、なんて言えばいいんだろう。
違うんだ。違う? なにに対して。
一から十まで事情を説明するか……出来るわけない。神奈ちゃんを巻き込むことは出来ない。
しかたがない……一応事実ではあるが、話しても大丈夫そうな部分を切り取るか。
今僕は、きみのお姉さんにゲロをぶちまけて家にあがらせてもらって――言えるかよ。
「先輩……」
――ああ、手詰まりだ。悲しいが、これで嫌われて関わりを絶たれたとしても、また彼女が怪奇現象に巻き込まれる心配がなくなると思えば釣り合いはとれる。
ここは何事もなかったかのように
「し、失礼しました!」
大きな音を建てて、部屋の扉が閉められた。その後、ドタドタの神奈ちゃんらしくもない忙しない足音が聞こえて、そして消えていった。
「はあ〜……。ま、いいです。神奈ちゃんがちょうど帰ってきてくれたのはいいことですね」
と、ほこらがそんなことを口にし始めた。
そういえば、神奈ちゃんが帰ってくる直前なにか言いかけていたような気がする。確か――
「――まさかお前!」
「あー、だからあんまし言いたくなかったんですけどねえ。先輩絶対そういう反応するから。でも今のところそれが唯一の方法ですよ?」
悪い予感はすぐに当たった。
さっきほこらは、あの世界で僕が無事でいるためには道を作る必要があると言った。そして、便利な道があるとも。
つまりは、神奈ちゃんを巻き込もうというのだ。
「却下だそんなもん! 神奈ちゃんになにかあったらどうする!」
「大丈夫ですって。あの子が直接出向くわけじゃないんですよ。あの子の根底に眠ってる巫女としての力をちょちょいと借りるだけじゃないですか〜」
「さっきも大丈夫って言いながらあんなことになっただろうが! 僕ならともかく神奈ちゃんをそんな不確かなら安全で――いや、仮に安全だったとしても、こんなことに巻き込めるわけないだろう!」
自分でも、らしくないほど熱くなっているとは思う。
けれどそれが、巻き込ませないことが彼女に対してなにも返せず成せない僕が出来る精一杯だ。
月垨ほこらという現象を、無関係でありながら、もっとも身近に受けている彼女に対するせめてもの――
「はぁ〜……。なんでこの人、あの子のことになるとこうも変わるんだが……言っときますけどね、わたしなんならちょっとはあの子痛い目みちゃえー!って思ってるんですからね?」
「なんだと?」
「だってそうじゃないですか! 先輩あの子には凄く優しいし、なんか向ける顔が柔らかいし、怒るし……」
手をわなわなと振るわせて不満を露にするほこらに、僕も思わず静観するしかない。というか、こいつがこうも人間的感情で怒っているのが少し珍しい。
「ほんと……妬ましい……」
妬ましいと、はっきりいいやがった。
つまりは神奈ちゃんに対する扱いを自分にも求めるとかそういうことだろうか。ありえん。それにおこがましい。
「……おこがましい」
「口にも出した?!」
「心を読むな」
「顔に出てるんですよ!!」
わーぎゃーわーぎゃー。こんなにも貯まるものなのかというぐらい、不満を吐き出すほこら。
そんな大声だと神奈ちゃんに聞こえるぞという僕の忠告も無視だ。
「そもそも僕はお前のことは嫌いだぞ?」
「口に出していいことと悪いことってありません?!」
確かにあるが、これは別に言ってもいいことだし、なによりほこらもわかりきっていたことだろうに。
「そもそもあれだぞ? 僕がお前のことを邪険にしなくなったのは」
「え? なんて?」
「邪険にしなくなったのは」
「えぇ?! なんてぇ?!」
「うるさいなぁ!」
話が進まん。
邪険にはしていないだろう。会話もするし、呼び出されたら仕方なく行っているし、下らない小芝居にも付き合ったりもした。
それこそ、神奈ちゃんと出会うまでの時と比べたら天と地はあると言っても過言じゃない。
まあ、その神奈ちゃんと出会う以前が酷すぎたと言われれば反論は出来ない気もするが、そこに関してはほこらにも全てとは言わないが大いに原因がある。
「まあ、はい、話を戻しますよ、先輩」
「戻しても、僕の意見は変わらんぞ」
話が進まない──と、今度はほこらが項垂れる。
当然だ。どうあっても、僕はあの子を巻き込むつもりはない。
「先輩……わたしだって別に単なる嫉妬であの子を引き合いに出してるわけじゃないんですよ。あの子じゃないと、駄目な理由がちゃんとあるんです」
そう言うほこらの表現は真剣だ。
確かに、ほこらが神奈ちゃんに思うところはあるのだろう。だが、こと怪奇現象において、そんな私情だけで物事を進めな──いや、進めるな。クソ、なんなんだこいつ。
「先輩、ひとまずことの始まりを考えてみてください。わたしが原因なら、もうさっきので解決していました。けれどしなかったつまり、原因は別にあるわけです」
「いや、そりゃ確かにその神様の世界? はお前の手から離れている状況だけどだからってほかに──」
一つ、思い当たることがあった。
それは違う――と反射的に考える。だって本当にそうなら、あの子はもう関わらなければいけない位置に立っているわけで。
つまりは逆だったわけだ。ほこらは今回の怪奇現象の偶然の一つに過ぎなくて、主原因は僕と神奈ちゃんの方。
「それが、わたしや先輩のせいなのか、それとも神奈ちゃんの中にある力のせいなのかはわかりません。でも、今はそう考えるのが自然でしょう。で、先輩があの世界の中で見た影のようなもの、それも重要な鍵です」
「いや、確かにそんなのが見えたとは言ったけど、ただの見間違いかもしれないぞ?」
「いいえ。怪奇現象を捉えるのは五感じゃありませんからね。先輩がそれを見たのなら、必ず意味があります。そしてそうなると考えらることがあります──」
あくまでこれは憶測で、また間違えてるかもしれませんが、という前置きを置いて、ほこらは今回の現象について語り始める。
「ひとまず、先輩がみた黒いもの、それが核でしょう」
「核? つまり、アレが漫画を消し去った?」
「さあ、それはわかりません。その意味をここで考えても仕方がありません。今はそうですね……そいつがなんなのかを考えてみましょう」
あの黒いのがなんなのか。だが、それを考えるにはあまりにも情報が少ないんじゃないか? そう返す前に、ほこらはサラリと言い放った。
「多分、神様でしょうね」
「……またかよ」
思わず呟いた。それはこの前やっただろうに。
いや、前やったから次はないみたいなルールでやってはいないだろうが。
「またあんなのを相手するなんてごめんだぞ……」
なぎ倒される木とえぐられる地面の光景が、脳裏に思い出される。
神様なんて代物、何もなくてもお腹いっぱいなんだからもう、金輪際出てこないで欲しい。
だが、ほこらはそこまで心配はしている様子はない。
「まあまあ、神様と言っても色々いますから。強いやつから弱いやつまで」
「でも、神様には変わりないんだろう?」
「人に干渉する力のない神様なんていないのと同じですよ」
まあ、だからこそそんな力を持った神様の厄介さったらないですけどねと言って笑うほこらに、全く笑えない僕。
冗談か? 冗談のつもりか?
「……わっ、冷たい目」
「いいから早く続きを話せ」
「先輩がご機嫌斜めなのでじゃあまあ、サクッと言いますね。いないのと同じとは言いましたけど、だからこそ、それ以下のほんとの下の下の神様はそこらじゅうにいるんですよ。そういう……まあ近い存在として悪霊とでも呼びましょうか。そういうのが神奈ちゃんを通じてわたしの――神様の世界に潜りこんで、そのままなんかこうわちゃっとしちゃった感じですねえ」
「肝心なところ適当だな?!」
「いやだって細かいところまではわかりませんし、中途半端なところを断言してまた先輩が倒れそうになったら困りますし……」
「ああ、そうだな……」
ほこらのその発言は、恐らく心から僕の身を案じてのことだろう。
だから、一つわかることがある。
結局、ほこらの推理でわかったことは少ない。あまりにも宙ぶらりんだ。だが――
「断言している箇所は、信用するぞ」
「はい、もちろん 」
それで、残りは直接確かめるしかないと。
「……そのために、神奈ちゃんが必要なのか」
「ええ。その黒いのが、漫画を消すなんて言世界の改変が出来たのは、あくまで絶賛稼働中で力が満ち満ち溢れているわたしの世界に潜り込んだからです。きっとそこには、その黒いのと、その私の世界を――あるいは神奈ちゃんかもしれませんが、なんにせよそれらを繋ぎ止めるだけのなにかがあるはずです」
「でも、今のまま確かめにいくとまた僕はお前にゲロをかけるわけか」
「わたしにかける必要はないですけどね?! というかゲロですまないかも知れませんからさせませんよもう!!」
と、本気で怒るほこら。まあ、これは僕がわるい。
「それで、さっきも言ってたな……道か」
「はい。神奈ちゃんの力を借りて、目標までの道を作ります。余計な情報が先輩の脳に入ってこないように、ただその悪霊だけを見れるように」
「……仮にそれをして、それからどうすればいい」
「すみません……それはなんとも。ひとまず接触しないことにはなにも。先輩に見えたということは、きっとその悪霊と先輩はなにかしらの繋がりがあるはずですので、現象は進展すると思います……」
「なるほどなあ……」
さて、どうするべきか。
――いや、選択肢なんてもうない。ただ僕がそれを選びたくないだけで。
このまま現象が悪い方向に転がれば、神奈ちゃんにだって危害が及びかねない。それなら、事態を収束する方向に動いた方が――。
ほこらはなにも言わない。最終的に僕の答えを尊重するのか、それとも僕の答えが一つしかないことを見抜いているからただ構えているのか……。
ほこらは僕の身はどんなことをしてでも守るだろう。
だが、神奈ちゃんは……。いや、僕がここまで言っているのだから、危険な目に合わせたりはしないだろうが、それはあくまで結果のみの可能性がある。
ならいっそ――
「ほこら、一つだけ約束してくれ」
「嫌だって言いたいんですけどねえ……」
けれど、さすがにそこは譲らなければ僕が動かないと判断したのだろう。そのまま渋々と「いいですよ」と頷いた。
つまりは、いざという時は僕よりも神奈ちゃんの安全を優先してくれ――ということだ。
「まあ、よっぽど先輩が下手をうたない限り、神奈ちゃんに危険はないと思いますけど……」
「ああ、わかった、信じるぞ。じゃあ具体的にどうするか教えてくれ」
「えっとまずは、先輩、神奈ちゃんと寝てください」
「はァ?!」
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