感情逃避(4)
まず最初に感覚が戻ったのは耳だった。キーンという音が鳴り響き続けている。それはどんどん大きく、どんどん重くなっていく。
次に、足だ。しっかりと地面についている。自分は今立っているのだと認識出来る。耳の音がさらに大きくなった。
次に、手が動く。なんの変哲もない、僕の体からぶら下がっている二本の腕だ。吐き気がしてきた。
そして、目。そういえば、視覚から得られる情報は全体の約八割だと、誰かから教わった気がする。確か先月のまんがもどうしていずもさんもよみましょうよどうしてわたしのおすすめいやだなりたくないしにたくないほこらいずもさんまとわりつくなもっとみてほしいなんならもってきていやだいやだいやだいやだ
「先ッ………輩――!!」
そこにあったのは青空だった。固い地面だった。なんだか毎日聞いているような、変哲もない音だった。見えるのは――ほこらの顔だった。
そして僕はようやく、そこが現実の、元の場所なのだと気がついた。
「先輩大丈夫ですか?! 大丈夫ですよね?! 急いで引き戻しましたから!!」
「……っあ……?」
思うように声が出なかった。正直、今僕は座っているのか立っているのかもわからなかった。
確か、今回の怪奇現象を解決するために、僕はほこらが出した扉の向こうに行ったはずだ。でもこの感じは、ああ、説明されなくてもわかる。
僕がドジを踏んだのか、そもそも根本からほこらの見解が間違っていたのか、失敗した。まだ、なにも終わっていない。
「先輩?! 返事してください先輩! あと座るか横になるか……ああ、もうとりあえずわたしの部屋に運びますね!」
うまく返答は返せないが、とりあえずほこらの発言から僕は今立っているのだと理解する。
妙に頭はスッキリしているのに、ほかの感覚がうまく働いていない感じがする。
「ほみゃぁ?!」
とりあえず、僕が僕であるという実感を得るために、近くにあった柔らかいものを、思いっきり掴む。
「みゃふぉへへふぉひぃーー!!」
どうやら、ほこらの頬を思いっきり握り潰しているらしい。まあ、ほこらだからいいだろう。
握っているものを揉みくちゃにしていると、なんだが落ち着いて感覚が戻ってきた。聞いたこともない動物の鳴き声が聞こえるが、ほこらの声だということはわかっているので、無視する。
そして、五感全てがはっきりしてきたところで、ほこらの柔らかい頬を解放してやった。
「んまっ――なんちゅうことしてくれてんですか?! 顔のパーツバラバラになるかと思いましたよ?!」
「すまん……。まだちょっとふらつくから肩借りる」
「え、あ、はい。弱ってる先輩いいですねこれ……って言ってる場合じゃないや。とりあえず一旦わたしの部屋までいきますよ。話の前に体を休めないと――」
「……うっ」
「先輩?」
「ヴォェェェエ!」
「マァァああああああああぁぁぁ?!」
まさか僕が自分からこんなおぞましい空間に踏み入ることになるとは思わなかった――と、今回ばかりは口に出すまい。
ここは月垨家の一室、ほこらの部屋であり、この部屋に入ってから僕が口に出した言葉は「すまん」と「悪かった」だけだ。
僕自身になにが起きたのか、状況はいまいちよく理解出来ていないが、自分のやってしまったことだけはしっかりと把握している。
僕という人間は、やっと歩けるようになったものの、それでも足がふらつくからとほこらに寄りかかり、そしてそのまま思いっきり嘔吐してしまったのだ。
いやほんとに、マジで、すまん。
「マジで、すまん」
ここまでの詳しいやり取りは省くが、服を着替えたほこらの前で、僕は正座をしている。
ちなみに僕は着替えていない。思ったより前かがみにほこらに寄りかかっていたらしく、僕の服は全体的に無事だった。その分――……。
どうやら、ほこらがさっきまで着ていた服は、部屋着だったらしく、今はゆったりとした薄い服装になっている。
特にほこらの服装には興味がわかないから、意識して見たことはなかったが、そういえばさっきまでのほこらの服装は、見たことないような、言うなれば少し野暮ったい感じだったような気がする。
「先輩、なにか失礼なこととか考えてらっしゃりやがりません?」
「いや、なにも」
ほこらはいつものように笑顔だ。怒ってるのか怒ってないのか正直わからないから困る。
「……別に怒ってはないですよ。そもそもわたしのミスですし……。それよりも先輩が無事でよかったですし、先輩の吐瀉物もそれはそれで――」
「そうか、よかった」
ひとまず安堵する。
「……ああ、結構本気で気にしてたんですね」
以外――というような口調だった。さすがに、相手が誰であれ口から出たものを全て注いだのだから、申し訳ないという気持ちは湧くし、罪悪感に押しつぶされそうにはなる。
「先輩のことだから、『お前にはお似合いだろ』って言われるんじゃないかと思いましたよ」
「………ははは」
冗談を言ってくれてる……んだよ……な。
あまりにも自然に言われるものだから、判別できない。聞くのも怖い。
なんだ、その、今度なんか飯でも奢ってやろう……。
「まあ、その辺は置いておいてですね。今は今回のことについて話しましょうか」
「そうだね、ほこらちゃん」
「は?」
「すまん、なんでもない」
手を叩いて、話題を変えるほこら。本人は本当に気にしてないようだし、むしろちょっと嬉しそうに見える。伊達に僕のすべてを自分のものにするとか言ってないわけだ。
話題を早々と変えたのは、僕に気を使っているのだろう。
僕も出来ることなら次の話がしたいので、それに乗る。
「とりあえず先輩、あの扉の向こうでなにがあったか覚えていますか?」
「覚えてな――いや、覚えてる。覚えてるが、正直なにが起こったのかが変わらない。それこそ、お前に助けられたってことぐらいだ」
ほこらが空中に出現させたあの扉。あれをくぐった瞬間、意識がとんだ。その後意識が覚醒した。眠りから覚めるようなものじゃなく、なんというかこう、ゆっくりと、身体の一部一部が順に機能していくような――。
それで、目を開けた。目を開けた瞬間だ。なにかが頭の中に流れこんできて、頭が爆発した。物理的に。少なくとも、僕はそう感じた。
自分の頭を触る。当然、いつものように少しかたい髪の毛がある。体調も悪くない。けれどあのままほこらに連れ戻されなかったら本当に――
「……なんというか、バグってますね」
ほこらは扉の前に言っていたのと同じセリフをはいた。そして、その時とは違うことを言った。
「神様の世界が、バグってます」
「どういう?」
「まず、先輩の身に起こったことを説明しますね。単純に情報量にやられたんです」
わからん。
「人間の脳の許容量を遥かに超える情報が、目を通じて先輩に流れこんできたんですよ。それで、脳がオーバーヒート? して、バンッ!ってなる寸前でした。まあもちろん、そうならないように予め調整したつもりだったんですが――」
ごめんなさい。とほこらは深く頭を下げた。
まあそこはいい。ほこらの読みが当たらず危ないことになるのは、なんだかいつもの事のような気がするし、それを悪いというのならその後の一連の流れで十分に相殺されていることだろう。
「お前の世界なのに、お前の手元を離れてるって認識でいいのか?」
んーと首を傾げるほこら。
これもいつものことながら、どう説明したものかと頭を巡らせている。そしてまた、「バグってるとしか言いようがないですねえ」と呟いた。
「そもそもあんな世界、ないに等しいものなんですよ。それがいとも簡単に繋げられたこともおかしいですし……。ちょっと行ってさっと原因を取り除けばいいと思ってたんですが、根本から間違えてたかもしれませんね。神様の世界がバグっていたから、この世界から漫画が持っていかれた。とか」
よくわかりません。と肩をすくめて、そのまま後ろに倒れる。それでもブツブツと呟いて、色々考えているようだ。
考えても答えが出ないのなら――
「もう一度あの世界に行くことは出来ないのか?」
僕の発言に、ほこらは起き上がって目を見開く。それは僕が積極的に解決に動こうとしていることへの驚きか、それともあんな目にあってまだ行こうとしていることへの驚きか。多分、両方だろう。
「うんやー……行こうと思えばすぐにでも行けますけどー……」
「同じことになるのはわかってる。だから、そうならない方法はないのか?」
「うーーーーん……。それこそ、あの世界に起きていることをしっかり把握して、見るべきものを理解しているのなら、情報量に押しつぶされることはないでしょうが……」
どの道解明は必須か……。
僕だって、毎度のことだから面倒だしもう関わりたくもないが、そういう訳にもいかないから困る。
ほこらの推測が間違っていた以上、放っておいてもこれ以上の影響はないということすら間違っているかもしれない。その場合割をくうのは誰か――ああ、めんどくさい。
あの中で、見たもの、聞いたものは確かにあった。すぐになにも認識できなくなったが、それでもほんの一部分だけは聞いた。
あれは人の声。誰が誰かわからないが、きっとどこかで聞いたことのある声たち。
それがいっせいに脳を揺らして、ハッキリとしたほこらの声と同時になにかに引っ張られてそして――
「思い出した」
「はい?」
「なにか、いた」
ほこらに助けられて、この世界に戻ってくる寸前、あのハッキリとしない世界で、一瞬だけ見えたものがあった。
それは真っ黒で……真っ黒い……真っ黒の……なにか。
「なにか」
「すまん。黒い以外なにもわからない」
これではなんの参考にもならない。そう思ったが、ほこらは視線を落としてなにかを深く考えているようだ。もしかして、思い当たる節でもあるのだろうか。
そしてしばらく経ったあと、先輩と声をかけてきた。
「……やっぱり、確かめにいきましょうか」
あの世界のバグとやらの全容を把握出来たのか? と聞くとそれはわかりませんと首を振る。
けれど、あの世界で行動できる方法を思いついたらしい。
「先輩があの状況で認識できたのなら、まあまずその黒いのが鍵で間違いないでしょう。全容はわからずとも、その目標を見失わないように道さえ作ることが出来れば――」
「道?」
「ええ。よく考えたら便利な道があるじゃないですか。まあ先輩は嫌がるかもしれませんが――」
ほこらがなにやら不吉なことを言い始めた時、部屋の扉がか細い声とともにゆっくりと開けられた。
「お姉ちゃん…………」
「お」
「いっ?!」
各々が各々の声を上げる。首の後ろに冷たい汗が流れるのを感じた。
「……なに、やってるんですか? 出雲さん……」
そこには、本屋の前で別れたきりの神奈ちゃんが立っていた。
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