「今日まで、本当にありがとう。きっとまた、会いに来るから。おれのこと、忘れないで」

 そう言うと吉田くんは、背中を向けて歩き出した。とっさに伸ばした手は、空を切る。届くはずもないそれを、無様に空中へ残したまま、わたしはただ、遠くなる背中を見つめていることしかできなかった。

 やがて、だらりと垂れ下がる腕。結局、わたしは思いを告げられなかった。残された手紙だけが、手の中で無機質に存在を主張している。

 わたしは、最後の贈り物をそっと胸に抱き締めた。

 いつかのわたしは、今日という日を後悔するのだろうか。それとも、笑い話という思い出にするのだろうか。それは、わからない。けれど、今この瞬間、切ない思いに駆られているのは、確かだった。

「あれ、苺樺? まだいたんだね」

「かおりちゃん……」

 そろそろ行こうかと顔を上げると、目の前にはかおりちゃんがいた。

 いつもの笑顔で、こちらへ近付いてくる。

「苺樺も、うさぴーたちに挨拶?」

「え、あ、うん……」

 視線を逸らして、瞳を伏せる。

 小屋の中では、うさぎたちが自由に動き回っていた。

「あたしね、飼育園芸委員には興味なかったんだ」

「え?」

 驚いて隣を見ると、かおりちゃんはそっと微笑んでいた。

「びっくりした? 木村や苺樺が、立候補してたから。そんな理由。ちょっとでも一緒にいたかったっていう、そんな動機で。もちろん、決まったからには全力で頑張ろうって思ってた」

 てっきり、かおりちゃんも動物たちと触れ合いたくて、手を挙げたのだとばかり思っていた。

 意外な理由に、目が丸くなる。

「うさぴー、あたしはあんたたちと関われて楽しかったよ。今日まで、ありがとう」

 小屋へ向かって声を掛ける友人に倣い、わたしもしゃがんで前を向く。

「触らせてくれて、ありがとう。いい思い出になったよ」

 じっと、うさぎたちを見つめる。こうして会えるのも、今日が最後だ。

「寂しいね」

「苺樺……」

 俯くわたしに、かおりちゃんは何も言わず、そばにいてくれた。

 何も聞かずに、ただ隣にいてくれた。

 わたしは、それが嬉しかった。

 そのまま、どれだけの時間が過ぎただろうか。わたしはかおりちゃんに促され、談笑していたお母さんたちの元へ向かった。

「皆と挨拶できた?」

 かおりちゃんと別れて、お母さんと弟と一緒に家へ帰る。

 弟に合わせて歩いていると、お母さんが尋ねてきた。

 瞬時過る、届かなかった手。

 わたしは意識から振り払い、努めて明るく振る舞った。

「うん……まあね」

「……そう。明日からは、少しの間ゆっくりできるわね。かおりちゃんたちとは、遊ぶ約束をしているの?」

「うん。今度、自転車に乗って、片山さんの家に行こうって話してるよ」

「そう。楽しそうね」

「おねえちゃん、ぼくもあそぶ!」

「そうだね。遊ぼうか」

「やったー!」

 急に走り出す弟を、お母さんが慌てて追いかける。

 捕まった弟が抱っこされている様子を眺めながら、わたしは歩くスピードをそのままに進んだ。

 分かれ道が見えてくる。向こうへ行けば、吉田くんの家だ。

 まだいるのかな。いつまでいるのかな。

 何も知らない。何も聞けなかった。

 知っていたところで、未来は変わらない。

 それでも、考えてしまう。

 わたしは、いつまで考えるだろう。

 彼が以前住んでいた場所も、電話番号も知らない。

 このまま、一生会わないまま……その可能性だってあるわけだ。

 それなのに、ふと思い出すのだろう。

 元気かな。今頃、どこで何をしているのかなと。

 それとも、あっさり忘れてしまうかな。

 進学して、新しい友達ができて。新しい出会いがあって。

 そうしたら、彼はアルバムの中のひとになる。

 それこそ、寂しい。

 だけど、いつかはそうなるんだ。

 保育園で仲の良かった子だってそうだ。小学校が違う子とは会わないし、顔も忘れてしまっている。

 きっと、同じように思い出になる。

 そうやって、わたしは大人になっていくのだろう。

 浸れるほどの思い出ができた頃、ひとは大人になるのだろうか。

 わからない。

 だけどその時には、笑って語れる思い出ばかりであることを願いたい。

「ただいま」

「ただいまー」

「苺樺、着替えていらっしゃい」

「はーい」

 家に着いて、アルバムやら何やらと荷物を置く。動きやすい服に着替えたところで、お母さんがにっこりと微笑みながら近付いてきた。

「さ、お腹空いたでしょう。今日は、お父さんに内緒でランチに行きましょうか。何が食べたい? 苺樺」

「良いの? じゃあね、パスタがいい。あの、バケットの美味しいお店のところ」

「わかったわ」

 わくわくしながら、弟とともに車へ乗る。そうしてわたしは、楽しいランチタイムを過ごした。

 切ない感情を、そっと心の端に置いて。


◆◆◆


 夕方。わたしは、自室で荷物の片付けをしていた。

 卒業アルバムをめくりながら、自分やかおりちゃん、吉田くんたちの姿を探す。

 たくさんのひとが写っているのに、すぐに見つけられてしまうのだから、不思議というものだ。

 春、夏と、遠かったわたしと吉田くんの距離。それが、秋、冬とどんどん近付いていく。

 もし、飼育園芸委員にならなかったら。立候補しなかったら。

 そうしたら、わたしはいつまでも、吉田くんを遠くからただ見ているだけの日々を送っていたのだろう。

 あんなふうに話したり、放課後も一緒に過ごしたりなんて、なかったに違いない。

 こうして、同じ写真に写ることも……。

 そう考えると、本当に不思議なものだ。

 勇気を出して行動して、一緒に過ごす時間が増えて、たくさんの思い出ができた。

「メッセージは、貰えなかったんだよね……」

 寄せ書きのページ。かおりちゃんや片山さん、木村くんたちの文字が個性豊かに踊っている。

 先生たちからの言葉を読みながら、彼にはお願いできなかったなと、少し寂しい気持ちが生まれた。

 そっと、アルバムを閉じる。

 そうして、隣に置いてある手紙へ視線を向けた。

 自分で置いた手紙。決して忘れていたわけじゃない。

 読むのを後回しにしたのは、落ち着いて、覚悟してからにしたかったから。

 内容は、とても気になる。いったい、何が書いてあるのか知りたい。けれど、どこか知りたくないような、そんなどきどきした不安が、今この手の中にはあった。

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