第143話 これまでとこれからと(2)

『……こんな時まで、レイラはあの娘のことばかりだな』


 沈みゆく暗闇の中、体の自由は未だに利かず、目すら開くことが出来ない。しかし、呆れを含んだような拗ねたようなその声は、暗闇に射す一筋の光のように、確固たる強さを持ってレイの耳に届いた。



『……聞く必要はないかもしれぬが。レイラ、なんじの選択を問う』


「……あぁ」


 姿は見えないがゼドの威厳のある落ち着いた声が、暗闇に響き渡る。実際には口を動かした訳ではないのに、レイの声はすんなりと音となってその暗闇に落ちた。夢かと思われたが、ゼドの声が聞こえるということは、どうやら夢ではないようだ。つくづく、不思議な体験をしているように思う。



『レイラは、どうしたい』


 簡潔な問いであった。だが、レイは正確にその意図を読み取った。この問いの答えが、自分の生死の分かれ道となるのだ。



「私は、生きたい」


 レイは迷うこともなく、すんなりと答えた。ゼドの伴侶として担う役割に尻込みする気持ちも未だにあることはあるが、そんなことよりも生への執着の方が強かった。



『……だが、これまでのようにはいかぬ。これまでの婚約契約やりかたでは、もはや我はそなたを助けられぬ。待ってやりたかったが、今すぐ婚姻契約を結ぶしか、もはや手段は残されておらぬのだ。レイラ、それでもいいのか?』


「あぁ。ここへ来た時に、薄っすらとそうではないかと思っていた」


 ゼドのやや気落ちした声に比べ、レイはあっけらかんとした口調で言い放った。レイには何となく予感があった。多くの死を見つめてきた自分は、何となく死の匂いに敏感である。

 まさかこれほど唐突に、自分の死に直面するとは思ってもいなかったが、最近どことなく体のキレが悪く、わずかにだが剣を握る腕にも力が入りにくいように感じていた。それらはゼドから与えられた神器の剣によって補われていたため、周りの者から見れば普段と変わりない様子に映っただろうが、自分自身を誤魔化すことはできない。



『……そうか。一度結んだこの契約は覆すことができぬ。後悔せぬか?』


「ゼド。ここで死んでしまえば、私はこの先後悔することすら出来ない。私は、生きたい。リリスとの約束もある。それに私は禪や貴方との旅も悪くないと思っているんだ。私はまだまだ、世界を見たいし、知りたい」


『そうか。レイラが生きたいということはわかったが、その手段が婚姻契約ということは納得しているのか? あの娘の言うように、人にとって婚姻というのは、重要な意味を持つものなのだろう?』


 それしか方法がないと言ったのは、自分であろうに。婚姻契約それしか方法がないことを申し訳なく思っているゼドに、レイは薄っすらと口元に笑みを浮かべた。

 人と神では婚姻の意味が異なるとゼドは思っているようであるが、神にとっても婚姻は容易なものではないはずだ。現にこれまでの長い時を生きてきたゼドに、伴侶はいない。自分の何がゼドの琴線に触れたのかさっぱりわからないが、これからの長い時を共に生きていく相棒パートナーとしてゼドが自分を選んだのなら、それは光栄なことだし、嬉しいとも思う。


 そう、レイの中には確かに嬉しいと思う気持ちもあるのだ。恋愛ごとは未だによくわからないが、いつしかリリスがゼドと一緒にいる時の自分は無意識にゼドに甘えているようだと言っていた。きっと、この小さな思いの欠片たちがこの先の未来を紡いでくれるだろう。


「ゼド、私はあなたに救い上げられた命で、様々な人に会い、多種多様な考え方に触れた。それで思ったんだ。私には私の生き方がある。婚姻に関しては、リリスや貴方が望んだ形にはならないかもしれない。だが、無理に決まった形に収める必要はないんじゃないか? そうでなくとも、契約を結べば私たちは長い時を生きるのだろう。その中で、私たちなりの何かを見つけていけばいいのではないだろうか」


『……そうか。そうなのかも、しれぬな。だが、我はそなたに後悔して欲しくないのだ』

「後悔してもいいじゃないか。長い時を生きるのだろう? きっと、そんなこともあったな、と思える日がくるさ」


『……随分楽天的になったものだ。それも、あの小娘の影響か?』

「さぁ、どうだろうな。だが、リリスが泣いているかもしれないだろう。私は覚悟を決めたのだから、さっさとしてくれ」


 ゼドの脳裏に、最後に見たリリスの姿が浮かぶ。倒れたレイを抱きしめてへたり込んでいたリリスは、確かに滂沱ぼうだの涙を流していた。


『……全く、そなたは。我をそんな風に扱うのも女神あのものとそなたくらいのものだ。本当にいいのだな?』

「あぁ。ゼド、迷惑をかけるな」

『……いや、気にするな。しばし、ゆっくりと眠れ』



 ゼドのその声を聞いた瞬間、急激な眠気に襲われたレイの意識は、そっと暗闇に溶けていく。


 真っ暗であった闇にはいく筋もの光が射し、やがて夜明けが訪れたかのようにやわやわと光溢れる場所へと変わっていった。



 瞼の裏からでも感じる眩しい光に包まれながら、今度こそレイの意識は完全に落ちていった――。

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