第141話 リリス駆ける
「レイッ!!! しっかりして! レイッ」
リリスの悲壮な声が、森にこだまする。手を突っ込んだ鞄からどうにか必死に聖水を取り出すと、その栓を抜こうと血濡れの手に力を籠める。しかし、震えてヌルつく手では上手く力が入らない。リリスはとめどなく溢れてくる涙を拭うこともなく、役に立たない自分の手に力を籠めた。だが、焦れば焦るほど手元は定まらず、震える手は瓶の上を滑っていく。
「……かッ。誰かァ!」
涙でかすれる声を精一杯張り上げる。誰でもいい、誰でもいいからレイを助けて欲しい。自分が抱き留めているレイの体が、急速に冷たくなってきていることを、リリスは感じていた。
(な、なんで、どうして? さっきまで普通に立って、あんなに元気だったのに!)
震える手でどうにか聖水の栓を抜いた時、倒れこんだ二人の後ろに音もなく現れるものがいた。
「急にレイラの存在が希薄に……。おい、レイラ、どうした!」
「ッ! ゼドさんッ! レイが、レイがッ……」
レイを支えながらも取りすがろうとするリリスを一瞥し、ゼドは二人の正面に屈みこむと、冷静にレイの頬に手を当てて体の状態を確認し始めた。
まず顔色が良くない。そこから腕の傷にも目を向ける。滴り落ちる血が傷口の大きさを物語っているが、それだけで意識を失うほどレイラは弱くない。これはもっと他の原因があるはずだ――。
ゼドはリリスの手に収まる聖水を認めると、それをリリスの手から抜き取ってレイの傷口に遠慮なく振りかけた。リリスは慌てて、魔法薬である傷薬と解毒薬を取り出す。
ゼドは傷魔薬をレイの腕に塗り込めながら、チラリと視界の隅に倒れ伏している紫蜘蛛の亡骸を見やり、リリスからレイの体を受け取って自分の腕の中に抱き留めた。
「娘、何があった」
リリスは紫蜘蛛の出現からその討伐、レイが倒れた経緯まで、支離滅裂になりながらもなんとかゼドに説明していく。ゼドは聞き取りにくいそれに口を挟むこともなく、厳しい顔をしていた。
「最近、レイラに何か異変はあったか?」
「いえ、さっきまでいつも通りで……。あ! 関係ないかもしれないんですけど……」
「なんだ。気になることがあれば言え」
「そう言えば最近、腕がなまったかも、って」
「……そうか」
ゼドは再度紫蜘蛛の亡骸を睨みつけ、「……そんなにも世界の力は強いのか」と口の中で呟いた。
「……え?」
「いや、こちらの話だ。娘、本意ではないだろうか、レイラは我が連れていく。このまま
現に、こうしている間にもレイの体からは、体温が失われていっていた。
「……ッ! レイは、大丈夫なんですか!?」
「大丈夫と言いたいところだが、我にもわからぬ」
「ゼドさん、お願いします! レイを、レイを助けてください!」
「……手は尽くす。……どのような結果となったとしても。娘は町まで戻れ。送ってやりたいところだが、生憎時間がない。一人で戻れるか?」
「はい! 私のことはいいので、レイを! レイをお願いします!」
リリスは地面に頭を擦り付けて、レイの助命を頼み込んだ。ゼドにどのような力があるか知らないが、禪が畏れ、レイが無意識に頼るほどの存在なのだ。自分の無力さに歯噛みしたくなるが、今はゼドに任せるしかない。そう、リリスの本能が告げていた。
「娘が傷つくとレイラが悲しむ。必ず無事に町に戻って欲しい。……事情は言えぬが、これは娘のせいではない。あまり気に病むな」
「……はい」
リリスの返答に頷いたゼドは、レイを抱えなおして立ち上がると、そのままどこかへ消えてしまった。残されたのは、滲んだ視界の向こう側で消える二人の姿をジッと見送ったリリスだけだ。
「…………レイ」
自分以外誰もいなくなった森の中で、ポツリと小さく呟くと、リリスはとめどなく流れ落ちる涙を腕で雑に拭って立ち上がった。まずは、冒険者ギルドに向かわねばならない。冒険者として、町の近くの森で紫魔獣に遭遇したことを報告する義務があるからだ。その証拠のため、紫蜘蛛の亡骸も必要だ。リリスは、憎い敵を涙の滲む新緑の目で睨みつけながら回収した。
サッとそれを回収を終えると、自分の汚れに構うこともなくリリスは駆けだした。先ほどは気が動転していて、森の中だというのに声を張り上げてしまった。その上、レイと紫蜘蛛の血の匂いが辺りに漂っていることだろう。こちらへ向かってくる魔獣の気配を感じながら、鬱蒼とした森を駆け抜ける。
(森の中の逃げ足だけなら、自信があるんだから!)
気を抜けば滲み出てくる来る涙を飛ばしながら、リリスは懸命に森を駆ける。森に潜む魔獣の気配に気を付けながらもその胸に浮かんでくるのは、レイのことだ。ゼドは自分のせいではないと言ってくれてはいたが、リリスは自分の軽率な行動を思い返し、後悔で唇を噛み締めた。
(……私が余計なことをしなければ、レイは怪我をしなかったかもしれないのに)
あの時は気が動転していたが、よくよく考えれば、レイは以前錬金術師のニコルの前で地竜の角を取り出したことがあった。それはつまり、地竜をも狩る技量があるということだ。レイはリリス以外とパーティを組んだことがないようだったから、無傷だったかどうかは知らないが、恐らく単独で狩ったのだろう。
(レイが退避って言ったのだから、素直に逃げていればよかったんだ! 弱いくせに変にレイを心配して戻って、足を引っ張るなんて……。挙句の果てに、レ、レイに怪我を負わせるなんてッ……)
リリスは森を駆けながら、今もレイの血の跡の残る手のひらを握りしめた。止まらない涙で視界は滲むが、ここは森、そしてリリスは腐ってもエルフである。自然と気配が森に溶け込むエルフの力を最大限に発揮しながら、リリスは森を抜け、もう限界だと訴える脚を叱責しながらピッオスの冒険者ギルドまで走り続けた。
――バン!
いつもと変わらずざわめく冒険者ギルドの扉を勢いよく開いて、駆けこんできたリリスの様子にギルド内は静まり返った。
全身泥だらけで血に濡れ、涙でぐちゃぐちゃになった顔でギルドに駆け込んできた冒険者姿の美少女。その姿を見ただけで、そこにいた冒険者たちは何があったのかを瞬時に悟った。
「リリスッ! 何があった!」
「……ゼンさんッ! ……ッ」
偶然依頼の報告のためにギルドにいた禪は、突然の乱入者がリリスであることを認めるや否や、慌てて人混みをかき分けてリリスの前までやって来た。
禪の顔を見たリリスは、その顔をより一層くしゃりと歪ませる。森の奥地から休憩も無しに疾走してきたリリスは、もはや足に力が入らず、今にも崩れ落ちそうだ。
「何かあったんだな」
今にも崩れ落ちそうなリリスを支えて問いかけた禪に、リリスはコクリと頷いた。禪は辺りに目線を走らせ、リリスの傍にレイの姿がないことに気付く。次にリリスの全身を確認し、べったりとこびりついた血がリリスのものでは無いことを悟った。
実力を認めているレイに何かがあったことを瞬時に察した禪は、ギルドの受付に声をかけると、しゃくりあげて喋ることのままならないリリスを伴って、ギルドの奥の部屋へと消えていく。
――その後、リリスからの聞き取りと、証拠として紫蜘蛛の亡骸を確認したギルドでは、北側の森での調査が行われることとなった。
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