第140話 薬草採取と異変(2)

――戦闘か撤退か。一瞬の判断を間違えれば、命はないだろう。レイは、チラリと木の上のリリスを見やった。

 正直に言って、リリスに太刀打ちできる相手ではない。戦闘か撤退、選択を求められるならば、今選択すべきは撤退である。だが不運にも、敵は間違いなくレイ達に照準を合わせている。今敵に背を向けることは、得策ではない。背を向けた瞬間にリリスは、敵の吐き出す糸に絡めとられるだろう。


 紫蜘蛛の吐き出す糸は粘着力も高く、例え切り裂いたとしてもリリスの動きを阻害する。その上、そうなった場合にリリスを助けようと動いた際に生まれる隙を、敵が逃すはずもない。

 つまりこの場合、レイが囮となってリリスを逃がすことを優先するべきである。レイ一人であれば、どうにかなるうる敵なのだから。


「私が囮となるから、リリスは退避。いいな?」


 震えを完全に抑えきれないリリスに、レイはそちらを見ないで小さく指示を出した。返事は聞こえないが、リリスが小さく頷く気配を感じて、レイは足に力を込めて一気に紫魔獣に接近する。


 レイが足を踏み出すとほぼ同時に、リリスは逃げ出した。


(……なんで私は弱いの。レイの足を引っ張ってばかり!)


 自分を責めながら、リリスは木の上を飛び跳ね、駆けていく。だが、そう易々と逃してくれる敵でもない。レイが振りかぶって放った斬撃をいとも容易く跳んで避けた巨体は、木から木へ飛び移るリリス目掛けて火を放つ。リリスはそれを間一髪で避けるが、火は次から次へと追ってきた。


「チッ。蜘蛛魔獣のくせに、火魔法を使うとは厄介な」


 蜘蛛魔獣は基本的に火に弱い。だというのに、火魔法を使う紫蜘蛛とは厄介以外の何物でもない。更に厄介なことに、ここは森だ。リリス目掛けて放たれた火は木に燃え移り、森へ広がっていく。森への延焼が広がらないように、レイはリリスと紫蜘蛛の間に入って水魔法を操りながら、合間合間で敵へ切り込んでいく。しかしながら、魔法を使えるとは言っても、大規模な魔法を得意とする訳ではないレイは、攻撃よりも火消しに翻弄されていた。


「ちょこまかと、鬱陶しい!」


 レイは苛立ち任せに剣を横薙ぎに払うと、一気に二本の脚を落とすことに成功した。流石は神器である。普通の剣であったら、堅牢な殻に覆われた脚をここまでスッパリと切り落とせなかっただろう。

 左側の足を二本切り落とされた紫蜘蛛は、一瞬体勢を崩したものの、直ぐに立て直し、ギチギチギチ……と牙を鳴らしている。ギョロギョロとした八つの目が、苛立たし気にレイを捉えた。


 紫蜘蛛はリリスからレイへ標的を変え、残った六本の脚で素早くレイとの間合いを詰めるとその大きく鋭い脚先を振り下ろす。


――ザンッ

鋭い脚先が地面をえぐる。そんな攻撃をくらうレイではないが、当たればひとたまりもないだろう。横に飛んでその攻撃を避けたレイに向かって、その凶悪な口から白いネタネタとした糸が吐き出される。それを剣で切り落としながら、レイは次から次へと繰り出される攻撃を防いでいた。


(ゼド様様だな。この剣でなければ危なかった)


 普通の剣で戦っていたなら、今頃紫蜘蛛の繰り出す糸に絡めとられていたことだろう。それを思ってレイは、ゾクリとした。


(――だが、悪くない)


 このような血の沸き立つような戦闘は久しぶりだ。思えばリリスに出会ってからのレイは、割とぬるい敵しか相手にしていなかった。それで十分生活はできていたし、特に不満も感じていなかったはずだ。

 しかしレイは、今この時、普段自分の奥底に眠っている闘争心が掻き立てられるのを感じていた。隠し切れない高揚感に、知らずレイの紫色の目はギラギラとした輝きを放つ。


 飛んでくる火を躱し、ねばつく糸を切り捨て、脚から放たれる斬撃を受け止めながら、レイはジワジワとその脚を切り落としていった。その脚も残り三本である。敵は残った三本脚で立つのがやっとで、先ほどから火と糸を吐き出すことに精一杯のようであった。レイはそれらを躱しながら、敵に接近するチャンスを伺っていた。次の隙で、一気に頭を落とし、勝負をつけるつもりである。忌々しい紫蜘蛛が糸を吐き出し、それを切り捨てた瞬間……


――シュッ、

レイの後方から、紫蜘蛛のギョロリとした目を目掛けて何かが放たれた。



「リリス! 何故退避しなかった!」


 木の上から飛び降りざまにリリスから放たれた投げナイフは、紫蜘蛛の八つの目のうちの一つに突き刺さる。が、リリスに気を取られて、レイに一瞬出来た隙を逃す紫蜘蛛ではなかった。紫蜘蛛はレイに糸を放つと、どこにその力を残していたのか、残った二本の脚で一気に跳躍し、顔を青くして立ち尽くしているリリスに向かって残りの一本の脚を振り下ろした。


「……ッ。リリスッ!」


 放たれた攻撃を切り捨てたレイは、慌てて駆け出した。リリスは恐怖でだろうか、咄嗟のことで動くことができない。


(――間に合わないッ)

レイは自らの脚に更に力を籠めた。血も魔力も、極限まで自らの脚に注ぐ。





――ザシュッ


 レイは間一髪の所で、リリスを突き飛ばすことに成功した。突き飛ばされたリリスは、尻餅を付きながら青かった顔を真っ白にして、茫然とレイを見上げた。その視線は、一点に固定されていた。


 リリスの無事を横目で確認したレイは、血の滴る自分の腕をチラリとも見ることもなく、その巨体の懐から冷静に紫蜘蛛の首を跳ね飛ばす。


 首を跳ね飛ばされた紫蜘蛛は、ギチッ……と悔しそうに人鳴きした後、ドォンと崩れ落ちて動かなくなった。




「…………レイッ!」

強敵の最後を茫然と見ていたリリスは、ハッとすると力の入らない足で何とか体を起こし、ヨロヨロとしながらもレイに駆け寄った。レイは珍しくも肩で息をしており、どこか息苦しそうだ。


「レイ、血!」

レイの腕からは、とめどなく血が流れていた。リリスを庇った時に運悪く紫蜘蛛の脚がかすめたのだ。かすめただけとはいえ、巨大で鋭い脚だ。傷は大きく、かなりの血が流れている。リリスは尋常ではなく震える手で、片手でレイの傷口を抑え、もう片方の手で自分のマジックバッグを漁った。レイの傷口を抑えている方の手が、ヌルつく血で汚れていく。


「き、傷薬……。ち、違う、止血止め、あ、ちょっと待って、先に聖水……聖水、どこ!」

「リリス、落ち着け。大丈夫だ」


 焦って、かえって目的のものを取り出せないリリスに代わって、レイは自分のマジックバッグから聖水を取り出そうと鞄に手をかけた。



(……ん? なんだか手に力が……)


 鞄を開けようとしていた自分の手を見やって、レイは首を傾げた。見れば、見慣れた自分の手が、小さく震えている。どうしたことか、手に力が入らないのだ。



(紫蜘蛛は毒持ちだったのか? いや、でも私に毒は効きにくいはず……だ…? ……あ、れ?)



 レイの思考は急激に闇に飲まれ、その体はゆっくりと後ろに倒れていく。


「……ッ! レイッ!」

 なんとか倒れていくレイの体を支えようとしたリリスだが、華奢なリリスではレイを支えきれずに一緒に倒れ込んでしまった。



「レイッ!!! しっかりして! レイッ」


――顔を青くして震えるリリスの、ひときわ大きな悲壮な叫び声が、森に響き渡った。

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