第16話 喪失と再生
大学の研究室で結花発見の報を受けた幸介はすぐに身支度を整えると、一旦はそのまま沢渡邸へ向かおうとした。だが、ふと思いとどまって手塚教授が詰めているという会議室を目指した。手塚付きの事務員を通じて会議が終わり次第連絡をもらえるようにと言づてを頼んではいたが、その後音沙汰はなかったのだ。
件の会議室へ到着するとその扉は開け放たれており、今まさに中から参加者が退室しているところだった。室内を覗くと手塚だけが一人残って手元の荷物を整えているのが目に入った。手塚も幸介の姿に気づき、声を掛けてきた。
「結花さんの件だろう。事務員から聞いているよ。実は今朝、沢渡孔子朗からも連絡をもらっていてね。もし彼女が大学病院に現れたら連絡をくれと。しかしまあ、小学生でもあるまいし。私は心配しすぎだと思うのだがね」
幸介は呑気な様子の手塚に向かって強めの口調で言葉を返した。
「結花さんは先ほど、横須賀の母親が眠る墓地で発見されました。意識不明の状態のようです」
「なんだって!?」
一瞬で手塚の顔色が変わった。
「結花さん……意識不明ですが命に別状は無さそうです。深い眠りに落ちているみたいな様子で、起こそうとしても起きないそうです。とりあえず、今自宅に連れ戻っている最中ということなので、私もこれから向かいます」
「深い眠り……」
手塚は何やら深く思案してる様子だったが、幸介が踵を返して会議室を出ようとすると慌てて追いすがるように声をかけた。
「君はマイカーで移動かい?」
「いいえ。電車で向かいます」
「では、私の車で一緒に行こう。沢渡は友人だ。彼の自宅には何度も行っている」
幸介は軽く頷いた。
* * *
剣司の運転する車は横須賀の墓地から1時間半ほどかけ、結花の自宅がある渋谷へと戻ってきた。蒼が到着する10分ほど前に孔子朗に電話をかけると、家の前に出迎えの者を立たせておくから指示に従って欲しいと伝えられた。
蒼は記憶を頼りに剣司に道案内をした。車で走るのは初めての道で、一方通行の道路などもあり少し戸惑ったが、それでもなんとか結花の家へと到着することができた。敷地の壁伝いに邸宅の正面へと回り込むと、ヘッドライトに照らし出された門の前に面識のある人物が立っているのが目に入った。蒼は車が停止するのを待って助手席のドアを開けて道路に降り立ち、その人物へと声を掛けた。
「加納さん」
沢渡家の住み込み看護師である加納瑞枝は深々とお辞儀をした。
「今、中庭のシャッターを開けますので車を中へお願いします」
蒼は剣司に目配せをし、手振りで誘導した。そして、車を導きながら加納瑞枝の後について中庭へと歩いて入った。
広い車寄せには、すでに黒塗りの高級外車が1台駐められていた。剣司はその横に自分の車を滑り込ませて運転席から降り立つと、ドアを開け放したまま屋敷の敷地をぐるりと見渡して感嘆の声を上げた。
「マジかよ。すげぇな……」
蒼自身、この家に初めて入った時には言葉を失ったので、剣司の反応も無理はないことだと思った。蒼は後部座席から結花を運び出すのを手伝い、剣司はしっかりと彼女を背負った。
「こちらにお願いします」
庭園灯の明かりが優しく足元を照らす中、二人は加納瑞枝に導かれるまま建物の方へと歩き始めた。蒼は剣司に背負われている結花を、背中側から見守った。
大きな玄関に到達して中に入ると、そこには幸介が待ち受けていた。その傍らには、孔子朗と手塚が立っていた。孔子朗は娘の変わり果てた姿に、呆然と立ち尽くしているかのようだった。幸介は剣司に背負われている結花にスッと近づき、彼女の頸動脈に触れた後、まぶたを開いて瞳孔の反応を確かめた。
「うん。大丈夫そうだ。ひとまず、ベッドに寝かせてあげよう」
加納瑞枝が先導する形で剣司が歩き、憔悴しきった表情の孔子朗が少しでも娘のそばにいたいとでも言うかのように間を空けずに続いた。蒼、幸介、手塚もその後から付いていった。
案内されたのは結花の部屋と思われる場所だった。そもそも、蒼の部屋の倍はありそうだったが、物もさほど多くなく整理整頓が行き届いていたため余計に広く感じられた。部屋の一番奥にあるベッドへと歩きながら、蒼は勉強机の上で光っているにデジタルフォトフレームに気付いた。そこには結花の写真が次々と映し出されており、友達同士で撮ったものに混じって、時折仲良さそうに笑う風花と一緒の写真も目に留まった。
蒼はベッド脇までやって来た剣司の元へと駆け寄り、結花をベッドに寝かせるのを手伝った。横たわった結花に今度は孔子朗が近づき、片膝を着いた姿勢で彼女の靴下を脱がせた。そして、娘の無事を確かめるように素足になった甲を何度か撫でたのだった。
孔子朗は立ち上がって一度背筋を伸ばし、皆に向かって深々とゆっくりお辞儀をした。
「皆さん、本当にありがとうございました。ご迷惑をお掛けしました……。少しですが軽食を用意させましたので、ひとまずお休み下さい」
一同はこの言葉に反応して、おのおの軽くお辞儀をした。
蒼には娘が意識不明の状態という割に、孔子朗が比較的落ち着いているように感じられた。双子の妹の風花は意識もなく植物状態だ。この上、結花までもと考えるのはとても恐ろしいことだろう。もっと動揺してもおかしくない状況に思えた。確かに、孔子朗が気落ちしているのは誰の目にも明らかだったが、蒼にはどこかこうなる予感でもあったかのような表情に見えたのだ。結花を見つけてから事の真相をすぐにでも問いただしたいという気持ちはあったが、今はまだそのような雰囲気では無かった。
一同は加納瑞枝と沢渡孔子朗に促されるままに歩き、邸宅のダイニングへとやって来た。二人の家政婦が入口付近でお辞儀しながら客人たちを迎え入れた。広々とした室内には14人掛けの大きな木製テーブルがあり、部屋の一番奥にはグランドピアノが置かれていた。高い天井には豪奢なシャンデリア、窓には刺繍の施されたベルベットのカーテンが吊されて端の方に束ねられていた。ガラスの向こうには手入れの行き届いた芝生庭園が外灯によって夜の闇に浮かび上がっている。ここから見えるすべての光景は、さながら高級レストランのような佇まいだと蒼は思った。
テーブルにはサンドイッチや焼き菓子、フルーツなどが用意されていた。剣司が入口に近いところの椅子に腰掛けたので、蒼はその隣に座った。幸介は蒼の席から一席空けた椅子にゆっくりと腰を下ろした。孔子朗はテーブルを挟んだ反対側に回り、その近くに手塚教授が座った。孔子朗の席は、本来は恐らく一番上座の椅子なのだろうなと蒼は思った。
客たちが全員座ると、二人の家政婦が順番に好みの飲み物を聞いて回った。剣司はアイスコーヒー、幸介はホットコーヒー、蒼は何故か無性に飲みたくなっていたオレンジジュースを頼んだ。剣司が「ビール」などと口走らずに良かったと、蒼は心底思った。
よほどおなかが空いていたのだろうか、剣司は飲み物が来るのを待たずにどんどん食べ物を口に運び始めた。結花を助けることが出来て安心したというのもあるのかも知れない。数日前まで他人だった男がこれほど熱心に手を貸してくれたことに、蒼は本当に感謝しかないと思った。それは、幸介に対しても同じ気持ちだった。蒼は剣司が食べる様子をボーッと眺めながらそんなことを考えていたが、届けられたオレンジジュースを一口飲み込むと急に空腹感を感じ、目の前に置かれていたサンドイッチに手を伸ばした。
幸介はブドウを1つ2つ口に運んでホットコーヒーをすすった後は、事の成り行きを見守るかのようにテーブルの上に両肘を着き、手を顔の前で組んでジッとしていた。孔子朗と手塚は並んで座っていたが、特に会話もなかった。つまりは、この部屋にいる5人の男たちは全員無言だったのだ。
しばらくは食器とカトラリーが当たる音などがしていたが、剣司が一通り食べ終えて満足するとともに静かな部屋がさらに静かになっていった。
蒼はだんだんと沈黙が辛くなるのを感じ、こういう時はどんな立場の人が会話の口火を切るべきなのかとか、剣司や幸介と内輪だけで世間話などしても良いものかとか、色々と考えを巡らせた。しかし、結論は出せずに、ただ残り少なくなったオレンジジュースをもう一口飲み込んだだけだった。しかし、その時なんの前触れもなく孔子朗が口を開いた。
「妻は10年前、突然病に倒れました……」
その場に居た全員がスッと孔子朗に視線を向け、続く言葉を待った。
「他界する直前の妻に、私は娘たちを立派に育て上げると約束しました。子供らが好きだった音楽やスキーも一流の指導者をつけて望むことを存分にやらせてやろうと思った。当時、私は父親の会社を継承すべくガムシャラに仕事を覚えている時期で、娘たちと過ごす時間は決して多くは無かった。必要以上に仕事に打ち込んでいたのではないかと思い返せば反省もあるのだが、当時は同じように子供たちもスキーや音楽にのめり込んでいた。残された者達がそれぞれ妻、母の死を乗り越えるために、気を逸らそうとしていたのだなと、今となっては思うばかりだ……。しかし、その甲斐もあってというか、会社は大きく躍進し、子供たちもスキーや音楽でも才覚を発揮することとなった。やがて、結花も風花も音楽の道に進むことを決め、中学を卒業すると同時に結花はオーストリアの音楽学校に、風花はドイツの音楽学校に留学した。家族全員がバラバラな土地に暮らすことになったが、それぞれが希望を胸に抱き、新しい一歩を踏み出したのだ。そして、初めてのクリスマス休暇を迎え、私たちはスイスのスキー場で過ごすことを決めて集まった。私たち家族は久しぶりの再会を喜び合った。しばらくは楽しい時間を過ごすはずだった。それなのに……」
孔子朗は大きな溜息をひとつついた。
「あのような出来事が起きてしまうとは!」
孔子朗は両肘をテーブルに打ち下ろし、自分の髪の毛を引きちぎらんばかりの勢いで頭を抱えた。
その場にいる者は皆言葉を失い、固唾を呑んで孔子朗を凝視した。彼が次の言葉を絞り出すには時間が必要なのは明らかだった。ただ黙って待つしかなかいと思ったその時だ。
「そこからは、私が話すわ」
突然割って入った言葉に驚き、一同は声の方向へと視線を向けた。そこには、先ほどベッドに寝かせたはずの結花がおぼつかない姿勢で立っていた。
「私、全部思い出したの。あの時のこと……」
[次話へと続く]
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