第11話 夢

人工スキー場からの帰りの電車で、蒼と結花の間に会話はほとんどなかった。結花のショックは隠しきれず、とても世間話に興じる雰囲気でもなかった。

結花がスキーをしていた頃の競技結果と、それを証明できる西尾久美という第三者の出現。風花が昏睡状態に陥ったこととの繋がりがあるかはともかくとして、少なくとも結花の記憶が操作されたことは決定的になった。そして、それは恐らく結花の父、沢渡孔子朗の指示の元に行われたことだろう。電車の中で蒼はアドバイスをくれた幸介に、結花の記憶が操作されていたという事実だけを伝える短いメッセージを送った。


娘の記憶を書き換えるなど、とても大がかりであってはならない話だ。それを実行したからには、それ相応の理由もあったと考えられる。手塚という権威ある大学教授が加担したのならば、その理由に犯罪性はないのかも知れない。ただ、孔子朗は年間売上高数千億円を誇る沢渡製薬の創業家一族の社長である。多額の報酬に物を言わせ、手塚教授の首を縦に振らせたということも有り得る話だ。蒼の頭には切りのない推測が渦巻いたが、どうしたって悪意を感じないではいられなかった。人の記憶は他の誰でもなく、その人だけのものという思いが強かったからだ。

もし記憶を書き換えられたのが自分だったらと思うと、それは本当に恐ろしかった。楽しい記憶を失いたくないのはもちろんだが、例え苦しい記憶だったとしてもそれは自分を成長させる糧であり宝物だ。まして、結花が失ったのは子供時代に懸命に取り組んだであろうスキー競技の記憶。孔子朗にしても自分の娘たちがジュニアオリンピックの1位2位という華々しい成績を収め、きっと鼻が高く嬉しかったに違いない。記憶を奪えば思い出話に花を咲かすことさえ叶わなくなる。それはとても辛く寂しいことではないのか? そうまでして隠したかった真実とは一体何なのか?


推測がさらなる疑問を呼び起こす中、父と娘の間に自分のような他人が割って入って何が出来るのだろうかと、蒼は無力感を感じ始めていた。しかし、そこでふと思った。

(……結花の母親は?)

思い起こせば、結花から自分の母親についての話を聞いたことはなかった。人の家の家族構成というのは、とてもデリケートな問題だ。蒼にもそういう認識があり、親しくなる過程で自然に分かれば良いものだと考えていた。しかし、風花が昏睡状態に陥った経緯を蒼に解き明かして欲しいと今後も結花が望むなら、それは聞いておくべきことだと思えた。だが、それは今なのか? 果たして結花の記憶操作については父親が単独で決めたことだろうか。母親は異を唱えなかったのか? 母親が後になって結花から過去の記憶が抜け落ちていると知れば、少なくとも何か良からぬことが起きたとは気付くだろう。だとしたら、母親の加担もあったのか? 母親について尋ねることは、もしかしたら大きなショックを受けている今の結花にさらに追い打ちをかけることにもなりかねない。蒼は二の足を踏んだ。

蒼が決めかねていたその時、電車は結花の自宅がある渋谷駅へと到着したのだった。

「今日は誘ってくれてありがとう。またね……」

結花は一言そう言うと、蒼の顔を見ることすらせずに電車を降りていってしまった。何も言葉を返せないまま電車の扉は虚しく音を立てて閉まり、蒼は溜息をついた。

急がなくてもいいのかも知れない。少しずつだが、風花の謎に近付いている感触もある。地元までの数駅、蒼は自分に言い聞かせるようにそんなことを考えていた。


地元の駅に降り立ち、なんとか嫌な気分を振りほどこうとする蒼だったが、自分を慰める言葉も頭の中で空回りするばかりで、もっと違う方法があったのではないかという自問が重くのしかかっていた。こんな時は早く寝てしまうのが良いのかも知れない。だが、受験生としては勉強するべきか……。もう、まともに思考は回っていなかった。


「あれ、蒼じゃん!」

駅舎を出て道に出た途端、蒼は背後からの男の声に振り返った。

見ると、そこには佑輝と美彩が立っていた。

「二人でデートか?」

蒼はぶっきらぼうに聞いた。佑輝はうんうんと頷いたが、美彩は慌てて否定した。

「あり得ないし……。これからカラオケに行くのよ。受験生にも息抜きが必要でしょ。蒼こそ結花とデートだったんじゃないの?」

「まあね……」

蒼が否定しなかったので、二人は色めき立った。

「ちょっとこのまま帰すわけにはいきませんね、姐さん」

佑輝が言うと、美彩もそのテンションに乗っかった。

「だな。蒼を緊急逮捕。これから事情聴取を執り行う」

二人に両サイドから腕を組まれ、蒼はカラオケ屋へと連行されていった。

「ちょっと待て、お前ら!」


その後、カラオケ屋で2時間ひっきりなし歌うことになったが、実際のところ事情聴取は行われなかった。予約した曲がなくなったところで佑輝がドリンクバーへと飲み物を取りに行った。2時間ぶりに訪れた静寂。若干の疲労を感じていたものの、蒼の鬱々とした気分は二人のおかげでだいぶ和らいでいた。カラオケに誘ってくれた二人に感謝だなと思った。


佑輝のいないこのタイミングで、蒼は結花について美彩に聞いてみようと思った。

「美彩は結花の家に行ったことある?」

「ううん、無いよ。すごい豪邸だとは噂で聞いたけどね」

実際に目の当たりにしている蒼は心の中でその通りだと頷いた。

「結花のお母さんの話って聞いたことないかな?」

美彩は上の方を向いて少し考えてから答えた。

「うーん、たまにお父さんの話は聞くけどなぁ……。そう言えば、お母さんのことは聞いたことないかも」

蒼は結花について美彩が知っていることを教えて欲しいと頼んだ。

「結花は2年生の2学期に同じクラスに転校してきたんだよ。最初、すごく暗くてさ。なんていうのかな、陰がある感じ? 私、こういう性格だから放っておけなくて。最初は何聞いても、一言二言しか返してくれなかったんだけど、徐々に打ち解けていったというか。後になってオーストリアに留学していたけど帰ってきたって話を聞いたから、音楽に挫折して落ち込んでたのかなって思ったよ」

蒼は結花から、風花のことがあってオーストリアから呼び戻されたと聞いていた。確かに音楽留学を諦めたわけだから、それもショックだったかも知れない。

美彩はカラオケのリモコンで次に歌う曲を物色しながら話を続けた。

「でもさ、結花って超お嬢様なのに気取ったところがなくて、植物とかにも詳しくて虫なんかも平気なんだよ。田舎育ちだからって笑ってたから、ずっと渋谷に住んでるわけじゃないんだね」

熱心にスキーをやっていたことを考えれば、結花は雪国育ちかも知れないなと思った。

「あっ、そうだ。結花の写真見る? たしか、転校して来た頃のもあるよ」

美彩はスマホの画像ソート機能を使って、結花の写真を一気に選び出して蒼に見せた。

「これが一番最初に撮った写真だよ。ほら、なんかちょっと表情暗くない?」

美彩と結花のツーショットでの自撮り写真。カメラ目線で弾けるように笑う美彩とは対照的に、確かに結花は生気のない感じがした。先ほど渋谷駅で別れる直前もこんな顔をしていたなと思った。

「で、これが最近の結花ね。すっかり明るくなってカワイイよ。気に入った写真があったら1枚100円で売ってあげるから言ってね」

「バカヤロウ」

その時、メロンソーダとソフトクリームを抱えた佑輝が戻ってきた。

「なになに、誰かの写真? オレにも見せて見せて!」

佑輝の言葉をかき消すようにカラオケのイントロが鳴り響き、美彩が雄叫びを上げた。

「さぁ、後半戦もがんばって行くよ! まず私から〜」


そこから、さらに2時間もカラオケ大会は続いた。蒼が自宅に戻ったのは、日付が変わる直前だった。スキーからのカラオケということもあり、若い蒼でもさすがに疲れを感じていた。さっとシャワーを浴びると、そのままベッドに倒れ込むようにして眠ってしまったのだった。


──その夜、蒼は夢を見た。

眩しい光に包まれた世界。薄もやがかかっているような視界は徐々に輪郭を成していった。その場所は太陽が照りつけて、波の音と海風の匂いがしていた。

心は温かい気持ちに満たされていて穏やかだった。それと同時にはしゃぎたいような高揚感もあった。

自分はゆらゆら左右に揺れながら歩いていた。地面がとても近くに見える。手のひらには柔らかく温かい感触があり、誰かと手を繋いでいるのだと分かった。見るとそれは背の高い女性だった。すぐに、自分は幼い子供で、隣にいる女性は大人なのだと理解した。

女性を見上げると、優しい笑顔を投げかけてくれる。それが嬉しくて、何度も何度も顔を見上げる。その度に、心が温かくなる。

繋いだ女性の手にぶら下がるようにしながら、ゆらゆらと揺れながら歩くのが楽しくて仕方ない。履いた靴の底が砂混じりの地面をこする音もなんだか心地良かった。

ふと見ると、女性の反対側にも同じように手を引っ張る小さな女の子がいた。その少女と目が合うと、ニッコリと笑い返してくる。それは結花を幼くしたような顔だった。

……きっと風花だ。そして、自分は結花で、手を繋いでいるのは母親だと思った。まるで映画を観ているときのように、蒼はただ流れ込んでくる風景を見ているだけだったが、不思議なことに結花の満ち足りた感情を共有することが出来た。


あちこちに動く視線の先には海や船が見えたり、海を挟んだ対岸の建物も見えた。歩いている道の脇には整備された花壇に色とりどりの花が風に揺れている。じゃれ合いながら歩く母と娘たち。3人の前には後ろ向きに歩きながらビデオカメラを向ける男性の姿があった。それは結花たちの父、沢渡孔子朗だった。その姿はかなり若く見えた。時折カメラから目を離して妻と娘たちに向けるその瞳は優しさに満ちている。そこには家族の幸せが溢れていた。それぞれの眼差しが語る愛しさと絆。家族4人がその時が永遠に続くことを願っているのが伝わってくる。

これは結花の幸せの記憶なのだ。


蒼がそう確信した瞬間、見えていた光景は一気にまばゆい光の中へと消え去ってしまった。ハッと目を覚ました蒼が時計に目をやると、眠りに落ちてからまだ1時間と経っていないのが分かった。しかし、またすぐに襲いかかって来る睡魔に身を任せ、蒼は再び眠りについたのだった。


[次話へと続く]

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