第10話 失われた記憶

本当に結花の記憶は改ざんされているのか──。

それを確かめる手立てを蒼は懸命に考えた。一番直接的な方法は父親や手塚という教授を問い詰めることだろう。ただ、二人がしらを切ることは予想できたし、それ以上の追求も中々難しいと思われた。そして、そもそも記憶の改ざんが行われていない可能性もあった。結花がスキーをしているサブビジョンの光景が、実際にあったかの確証はないからだ。

記憶改ざんの有無をどうやって知れば良いのか。蒼がたどり着いた糸口は、結花の能力と記憶との違いを見つけることだった。


“蒼は結花がスキーをしているサブビジョンを見た”

“結花はスキーをしたことがないと言った”


この2つには矛盾がある。サブビジョンでは、結花はかなりのスキー上級者であるように見えた。スポーツでは何度も繰り返す練習によって、身のこなしを身体に叩き込んでいく。もしも、スキーが滑れることを記憶操作によって忘れさせられてしまったとして、スキー自体も出来なくなってしまうものなのか? この疑問について蒼は幸介に電話で投げかけてみた。すると、次のような答えが返ってきたのだった。


「習得した身のこなしなどの情報は小脳という部分に格納される。例えばキャッチボールをする時、これぐらい力を込めれば相手の胸元まで飛ぶというような身体の記憶は“小脳のモデル”と呼ばれ、その感覚に基づいて筋肉を動かしたりできるようになる。対して過去に経験した出来事に関する記憶は“エピソード記憶”と呼ばれ、過去にどこで誰と何をしたというようなものを指す。新たなエピソード記憶の形成には海馬や前頭前皮質が使われる。小脳のモデルとエピソード記憶では使われる脳の部位が違うため、仮にスキー経験がないという記憶に書き換えられていたとしてもスキー自体が出来なくなるとは限らない。ただし、今言ったことは脳の機能をあくまでシンプルに捉えた時にのみ成り立つ話で、実際にどうなるのかは想像が難しい。脳の各部位の連携は非常に複雑だからだ」

この話を受け、蒼は考えた末に結花をとある場所へと誘ったのだった。


「すっごく大きな建物だね!」

結花は目の前の建造物を見上げて感嘆の声を上げた。

「でも、屋内スキー場って受験生が来ていいところ? 私たち滑ってる場合じゃないと思うんだけど」

誘いには乗ったものの、結花は今ひとつ気分が盛り上がっていないようだった。確かに言われてみたら受験生には“滑る”は禁句だ。でも、蒼はひとまず口から出任せの理由を述べることにした。

「えっと、先に滑っておけば入試では滑らないかと思ってさ」

「ふぅん……。どうせ、私のたくましい足を見てスキーしたくなったんでしょ」

結花は不満げに言った。先の一件を、だいぶ根に持っているようだ。

だがしかし、次の蒼の一言で結花の不満は一気に解消した。

「結花の足はスラッとしてキレイだよ」


ニコニコの結花をともなってチケット売り場へと向かうと、入場料金と道具レンタル料金は蒼が出した。結花の方が間違いなくお金持ちであろうが、またテンションが下がってもやりにくくなると思ったからだ。

レンタルの道具を選びながら結花は言った。

「でも、本当に私はスキーなんてやったことないのよ。蒼はできるの?」

「オレは……結構滑れるよ」

それは全くの嘘だった。家族で行った北海道旅行の合間に、ほんの1日だけ滑った程度だったのだ。雪国育ちの父親が付きっきりで指導してくれたが、緩斜面をなんとかボーゲンで降りて来られるくらいにしかならなかった。それも、小学生ぐらいの時の話だった。スキーを滑れると口にしたのは、言わば賭けに対する決意のようなものだった。サブビジョンで見た光景が実際にあったものとして、結花がスキーを滑れることに賭けたのだ。その結花を蒼はデュプリケイトしている。ということは、蒼にも同等の能力が備わっているはずだ。


ウェアからブーツ、板まですべて装着すると、2人は屋内ゲレンデへと入って行った。30℃近い外気温とは打って変わり、掲げられた電光掲示板には場内温度2℃と表示されていた。ただ、ウェアとグローブは暖かく、顔以外で寒さを感じることはなかった。スキーをはいたまま雪の中へとこぎ出す。

「なんか、変な感触だね〜」

結花ははしゃいでいるが、ゲレンデの一番下は平地だったので滑れているのかそうでないのかの判断はつきにくかった。

場内はさほど混雑していなかったが、ひっきりなしにスキーヤーが滑り降りてきては、すぐさまゲレンデの脇にある動く歩道に乗って上へと昇っていく光景が繰り返されている。蒼は怖がる結花を説得して一緒に動く歩道へと乗った。ほどなくして、ゲレンデの最上部へと到達したが、上から見た斜面は下から見たときよりも急に感じられた。


「こんなところから、初心者が降りられるのかな……」

結花はますますの不安を口にしたが、蒼自身もかなりの恐怖を感じていた。

「まあ、転びながら覚えようよ」

蒼は自分自身を奮い立たせるように呟いた。

「うん……。まずは蒼がお手本を見せてよね」

当然そうなるよなと思いつつ、蒼は覚悟を決めた。


ストックで身体を前に押し出すと、スッと前進してスキー板の先端が斜面へと少しはみ出して浮いた。そして、ゆっくりと前方に傾き、斜面へと吸い込まれるように滑走が始まったのだった。蒼が意識する間もなく、すぐさま身体が反応する。

(滑れる!)

そう思った瞬間、スキーブーツを通して力が板に伝えられ、もう大きなターンを切っていた。ストックを突くのをきっかけにリズミカルなターンが繰り返され、進みたい方向へスキーを思うがままに操れる。スピードも爽快感も子供の頃に滑ったボーゲンとは次元が違った。どんどん加速し、ターンも小刻みから大きく変えたりと変幻自在だ。スキーを滑れるという喜びに浸る間もなく、蒼はあっという間に短いゲレンデを滑り終えてしまった。


振り返って頂上にいる結花を見ると、ストックを大きく振っていた。表情まで伺い知ることはできなかったが、その手振りから興奮している様子が伝わってきた。

蒼は手招きして結花にも滑ることを促した。結花は躊躇しているようで、ストックを頭上で交差させて“✖️”を作ったりしている。しかし、滑ってもらわないことには記憶改ざんの確認ができない。

自分も滑れたんだから当然結花も滑れるはず。そう考えてしきりに結花に滑走を促していた蒼だったが、ここではたと気付いて手招きをやめた。蒼はここ1週間ほどの間に、3人もデュプリケイトしている。ピアニストの影山真一、探偵の浅野剣司、心臓外科医の丸山教授だ。もしその中に、ひとりでもスキーが達者な人物がいたら……結花はスキーを滑れないかも知れない。蒼は迂闊だったと青ざめ、今度は結花に滑らないように両手で制する仕草をした。


しかし、結花はすでに意を決して滑り出すところだった。怪我だけはしないでくれと、蒼は息を呑んで行く末を見守った。

頂上から斜面へと真っ直ぐに滑り出す結花。どんどん加速していくが、ターンを切らずに直滑降で近づいて来る。スキーが制御不能に陥っているのか!? 壊れそうなくらいに早く打つ自分の心臓に蒼が手を伸ばした瞬間、結花は一気に大きなシュプールを描いてターンを決めた。次に小さくステップを刻みながら速度を調節、ゲレンデ中央に作られた雪の小山に向かって行った。そして、そのまま小山を台にして数メートルもジャンプして見せた。小刻みにターンしながら蒼の近くまで来ると、一気にブレーキをかけて雪煙を上げた。

結花は興奮したように弾けるような笑顔を向けて蒼に言った。

「スキーって簡単だね! おもしろいっ! もう一度上に行こうよ」


その後、結花と蒼は人工スキー場の短いゲレンデを何度も何度も滑り降りた。結花の腕前は周囲の客たちの目を引くほどだった。結花から能力を分けてもらった蒼もかなり上手に滑れたので、しばらくすると2人はゲレンデで注目の的になっていた。

全く初めての人間が、ここまでスキーを上手に操れるなどあり得ない。結花にスキーの経験があることは、もはや明白だった。虚偽記憶の権威、手塚教授の関与を考えると、結花の記憶が改ざんされたのが非常に濃厚になったということになる。


休憩に訪れた場内のカフェで、蒼は意を決して結花の記憶が書き換えられている可能性について本人に告げた。

「私の記憶が書き換えられてる? まさかぁ。蒼ってば、SF小説とかの読み過ぎじゃないの?」

結花は蒼の話を一笑に付した。

「だって、初めてなのにあんなに上手にスキーが滑れるなんておかしいだろ? 手塚教授は偽の記憶を研究してるって話だし、そう考えないと辻褄が合わないよ」

「バカバカしい。スキーはほら、私テレビで観るのとか大好きだからさ、イメトレ出来てたんじゃないかな。手塚先生は普通のお医者さんだよ。全然変わったところないし、診察の時だって普段の様子を話すだけだよ」

結花は目の前のホットココアを笑いながら一口飲んだ。結花からスキーの技能をデュプリケイトして滑れるようになった蒼にしてみれば、彼女がスキーに関連する記憶を失っているという確固たる自信があったが、それは出来れば明かしたくはない。記憶が消し去られたとするより、イメージトレーニング出来ていたとするほうが多少は現実感もあるのかも知れない。蒼はどうするべきか考え込んだ。


その時だった。

「結花ちゃんだよね?」

声の方に振り返るとテーブルの脇に一人の女性が瞳を輝かせながら立っていた。知り合いだろうかと蒼は結花を顔を見たが、彼女はキョトンとした表情で女性の顔を見上げている。

「私よ、西尾久美。忘れちゃった? まあ、最後に会ったのは小学生の頃だから仕方ないか」

「ごめんなさい……」

結花は全然思い出せないような様子でバツの悪そうな笑顔を浮かべていた。

「さっき滑ってるの見たよ。相変わらず上手だね。今日は風花ちゃんはいないの?」

突然風花の名前が出たことで、結花の身体がこわばった。

「……えっと、風花はちょっといなくて」

「そっかぁ。会いたかったな。私ね、あなたたち2人がスキーを止めちゃってからすごく頑張ったんだよ。小学校の時は2人に一度も勝てなかったからね。でも、頑張ったおかげでスキー連盟の強化指定選手に選ばれたの。だから、夏場はここで毎日のように練習してるんだ」

結花には西尾久美の話が全く見えないようで、いつしか作り笑いも消え、怯えたような表情にまでなっていた。困惑の表情の結花に代わって蒼が話に割って入った。

「あの、すみません。結花とは小学校の時に仲が良かったんですか?」

「彼氏さんですか? 仲が良かったっていうかライバルだったんですよ。スキーの競技会に出ると沢渡姉妹はいつもワンツーで、私は万年3位。ジュニアオリンピック競技会の時もそうでした」

「ジュニアオリンピック……ですか」

蒼も結花もこれには驚いた。

「あれ、もしかして初耳とか? すごく強かったのに2人とも音楽の道に進むからって急にスキーを止めちゃって。勝ち逃げされたみたいで悔しかったけど、その悔しさをバネにして今は頑張ってます」

結花は放心状態で、西尾久美の話を聞いているのかさえ表情からは読み取れなかった。

蒼は結花が少し気分が悪いと西尾久美に伝え、念のために彼女の連絡先を聞いて引き取ってもらった。西尾久美は最後まで笑顔で、結花に手を振りながら去って行った。それに応え、結花も力なく手を振っていた。


西尾久美が去ると蒼はスマートフォンを取り出し、彼女が話したことを裏付ける情報が無いかとネットを検索をした。すると6年前に長野県で行われたジュニアオリンピック競技会の結果を見つけることが出来たのだった。


○女子スーパージャイアントスラローム公式成績表

1 沢渡 結花

2 沢渡 風花

3 西尾 久美


蒼はその結果が表示されているスマートフォンを結花の前へと差し出した。

結花はそれを呆然と見つめながら呟いた。

「こんなことって……」

蒼は結花の心情をおもんぱかって言った。

「きっと、何か理由があったんだよ」

しかし、結花はやり切れない思いにさいなまれているようだった。

「理由があれば記憶を奪ってもいいの? そんなのおかしいよ……」

蒼は結花の記憶が書き換えられた理由を懸命に考えたが、どれも父親の沢渡孔子朗が悪者になる推測ばかりで、口にすることがはばかられた。

「理由があるとしたら、パパにとって不都合な真実を隠したいってことだよね……」

結花の言葉に蒼は身体をこわばらせた。蒼自身もそれを真っ先に考えたからだ。

「そうとも限らないよ」

結花の憤りが暴走しないように口では否定したものの、それ以外の理由が浮かんでいたわけではなかった。それにどんな理由があったとしても、人の記憶を改ざんするなど到底納得出来るものではない。そして、結花のネガティブな思考はエスカレートしていった。

「もしかして、風花が植物状態になった理由を私が知ってしまったから?」

それこそが、一番たどり着きたくない推測だった。結花が言い放った言葉の重みに2人は押しつぶされそうになり、ただ沈黙するしかなかった。


[次話へと続く]

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