第09話 サブビジョン
手のひらの電位計測は、その後30分近くも続いた。
デュプリケイト動作の際、幸介は蒼に感情を乗せるように指示を出した。
──嬉しい気持ちで
──怒りの気持ちで
──悲しい気持ちで
そして、サブビジョンを見たいという気持ちで。
その都度、蒼はそういう気持ちを想起させるような記憶や映画のシーンなどを思い出してみた。それがうまくいっているのかは全く分からなかったが、その時々で電位波形には確かに変化が現れた。
幸介はことさらサブビジョンに興味を持っているようで、蒼の感情を引き出すアプローチについても手応えを感じている様子だった。しかし、こんなに続けてサブビジョン動作を繰り返したことも初めてで、とりわけゴム製の手袋は非常に蒸れる。蒼が疲労を訴えたこともあり、今日はここまでにしようという話になった。そして、手袋を脱いだちょうどその時、研究室にノックの音が3回響いた。
二人が身体をひねって扉の方を見ると、結花がおずおずと入ってくるところだった。
「あの、すみません……」
特に研究室で待ち合わせる約束などしていなかった蒼は驚いて立ち上がった。
「ごめん、こっちに来てくれたんだ」
蒼を見つけ、結花は少し安心したように表情を緩めた。蒼が二人を紹介して挨拶を済ませると、幸介は先ほどと同じようにコーヒーを注いで結花の前へと差し出した。結花はコーヒーの御礼を言ってから蒼の顔を見た。
「一緒に帰れるかな?」
「うん、大丈夫。でも、ちゃんと診てもらえた? 幸介さんが、今は診療時間外だって言ってたから」
「ちゃんと診てもらえたよ。先生はパパの知り合いだから」
幸介が二人の会話に割って入った。
「失礼だが、結花さんの主治医は誰なのかな?」
結花はきちんと幸介の方に向き直って答えた。
「手塚先生です」
「手塚教授? 教授は普段外来診療には当たっていないはずだが」
「え、そうなんですか? 私だけ特別なのかな。もうパパったら……」
「ちなみに、何を診てもらっているんだい?」
「カウンセリングみたいなもんです。受験生の悩み相談って言った方が近いのかな」
結花はそんなもの私には必要ないとでも言いたげな様子でクスッと笑ったが、すぐに表情を少し曇らせて言った。
「七瀬君に聞いたかも知れませんが妹が闘病中なんです。私、来年大学受験だから父も心配なようで、大学時代の同期の手塚先生に相談したみたいなんです。それで、心が不安定にならないようにって、定期的に診てもらうことに」
「なるほど。そうだったんだね」
口では納得したような言葉を発した幸介だったが、蒼には何か別のことを考えているような表情に見えた。
「そろそろ帰らないと」
結花がそう言って立ち上がると蒼もそれに続いたが、幸介が慌てた様子で言った。
「あ、結花さん。蒼に大事な話があるので、先に廊下へ出て少し待っててもらえますか?」
結花はニコリと笑い、別れの挨拶をして退室した。
二人になると蒼は怪訝そうに幸介の顔を見た。
「なんですか、大事な話って?」
「結花さんをデュプリケイトしてみろ」
「えっ!? どうしてですか?」
蒼はまさかの指令に驚きの声を上げた。
「正確には能力のデュプリケイトが目的ではなく、サブビジョンを見ることを目的にやって欲しい」
「う〜ん、よく分からないけど、さっきの計測というか訓練がうまくいったかは分かりませんよ」
「まあ、それはそうだが、能力を借りることではなく、結花さんが過去に見た映像を見たいという気持ちを意識的に高めて接触してみろ」
「うまく行くかなぁ……」
「とにかく気になることがあるんだ。うまくいけば結花さんのサブビジョンがきっかけで何か風花さんの秘密が掴めるかも知れない」
幸介が真剣にそう言うので、蒼は期待しないで欲しいと告げて研究室を出た。
ドアから少し離れた廊下の先で、結花は手持ち無沙汰な様子でウロウロと歩いていた。蒼が「お待たせ」と一声掛けると結花は笑顔を見せた。そして、連れ立って大学を後にしたのだった。
帰りの地下鉄の中で結花は好きな芸能人や音楽のことなど他愛もない会話を口にしていたが、それを聞きながら蒼は本当にデュプリケイトを仕掛けるべきなのかを考えていた。まして、サブビジョン目的で。これまでサブビジョン目的で誰かをデュプリケイトしたことは一度もなかった。見たいと思って見られるものではなかったし、言わば偶然の産物のようなものと捉えていたからだ。先ほど手のひらの電位計測時にサブビジョンを意識してデュプリケイトのスイッチを入れる動作を何度もやらされたが、そもそも蒼としてはサブビジョンを見ること自体に消極的な気持ちがあった。対象者の能力を借り受けるのと、その人の見た光景を見るというのは、蒼の中では大きな隔たりがあったのだ。個人の秘密を覗き見る後ろめたさ。相応の理由が必要だと感じていた。
(デュプリケイトにサブビジョン……か)
幸介は能力をどんどんネーミングしていったが、蒼自身も案外気に入っていることに気付いて少しおかしかった。望んで手に入れた能力ではないが、物事全てに意味があるのだとしたら、自分はこの能力を積極的に使うべきなのだろうか? これまで何度も反芻して来た問いが、改めて頭をもたげた。
結花のデュプリケイト……とりわけサブビジョンを見ることには正直気が進まないが、風花が昏睡に陥った秘密にアプローチするアイディアにも行き詰まっている。結花は風花の秘密を解き明かすことを望んでいる。幸介には何か考えがあるようだった。賭けるべきか? 蒼は自分自身に問いかけた。そして、決断した。
「ちょっと、私ばっかり喋ってるけど聞いてる?」
結花が不満そうに声をあげた。
「ごめん。ちょっと考え事してた。……あ、そうだオレさぁ、手相見られるんだよ。結花も見てあげるよ」
結花は蒼にグッと顔を近づけ睨むようにしながら言った。
「……あのさぁ、それって男の人が女の人の手を握るときに使う超古い手だよね?」
蒼は必死に弁解するはめになったが、その様子がおかしかったらしく結花の機嫌はあっという間に直った。
「そんなに手を握りたいんなら、そう言えばいいのに」
「だから、違うんだって……」
結花が差し出した手のひらを見て蒼は再び躊躇した。
幸介の手とは違って、華奢で白い。さっきは機械の手袋越しで思う存分デュプリケイトのスイッチを入れたが、生身で触れば結花に衝撃が走るのも確実だ。
しかし、考えても仕方ない。風花の秘密を知りたいというのは何より結花の願いだ。とにかく、何か風花との思い出を見せてくれと頭の中で繰り返し念じながら、蒼は結花の手を握った……。
──次の瞬間、蒼は顔に冷たい風を感じた。目の前に広がる景色は薄暗く、降りしきる雪が頬に打ち付けているのが分かった。身体はリズミカルに左右に揺れ、それとともに雪面を滑走する音が聞こえる。どうやら雪山をスキーで進んでいるようだった。それもかなりのスピードだ。そして、前方には同じようにスキーで進む人影があった。とにかく雪が多かったが、かろうじて山中の林間コースを滑っていると認識できた。灰色の空が少し開けたと思った瞬間、突然浮かび上がるような感覚が襲い、見えている映像の天地がひっくり返った。頭部に衝撃を感じて意識は朦朧となり、激しく転倒したのだと分かった。
顔は雪面近くにあり、あたりの物が時折ぼやけて見える状況で、先ほどまで履いていたであろうスキー板が2本とも前方に投げ出されているのが目に入った。前方を滑っていたスキーヤーは、すぐにそれに気付いて止まった。そして、おもむろに両足のスキーを外して雪面に突き刺し、ゆっくりと近づいてくる。やがて目の前までやって来ると、顔を覗き込みながら自分のゴーグルを外した。
「大丈夫?」
心配そうな表情を浮かべながら、そう尋ねた女性の顔は結花と驚くほど似ていた。
「イタッ!」
大きな声で蒼は我に返った。結花は蒼に握られた右手を振りほどき、左手でさすった。周囲の乗客も驚いて二人を見ている。蒼には長い時間サブビジョンを見ていたように感じられたが、結花の反応からそれが手を握った一瞬だったのだと認識できた。恥ずかしさに結花が小声で怒りをあらわにする。
「もう、なんで真夏に静電気っ!」
それには答えずに蒼は尋ねた。
「結花ってスキーやるんだよね?」
「なぁに、突然……。スキーなんてやったことないわ」
「えっ、そうなの?」
「なんで驚くの? 逆になんでスキーやると思ったわけ?」
蒼は口ごもった。今サブビジョンで見たからとは当然言えない。
「えーと、結花の足を見てたらなんとなく……」
「ちょっとぉ! 私の足がたくましいとでも言いたいの!?」
ちょうどその時、地下鉄は渋谷駅へと到着した。
弁解する間もないまま、結花は不機嫌そうに降りて行ってしまった。蒼はフォローの仕方がまずかったなと後悔したが後の祭りだった。
帰宅するとすぐ、蒼は幸介に電話をかけた。ほんの数コールで彼は出た。まだ研究室にいるようだ。
蒼は結花のサブビジョンを見ることに成功したこと、そして見た内容について詳しく話して聞かせた。そして、スキーについてやったことがないと結花が語ったことについても。
「やはりな……」
幸介はボソリと呟いた。
「なにが、やはりなんですか?」
「結花さんの主治医、手塚先生は認知心理学の教授だ」
「なんですか、認知心理学って?」
「心理学と呼ばれるものは2つに大別される。すなわち、基礎心理学と応用心理学だ。それぞれがさらに細分化されるが、認知心理学は基礎心理学のほうに含まれる。知覚、記憶、思考、学習など、人間の心的活動のうちでも特に高度な部分を研究対象としているんだ。うんとかみ砕いて言うと、人が見聞きした出来事をどのように経験として落とし込むか。そして、その経験をどのように後の行動に反映していくのかを探る学問になる」
「なるほど」
幸介がかみ砕いて説明してくれたので、蒼にもなんとなく理解できた。
「認知心理学の中でも手塚教授は独自の研究をしていて、特に“虚偽記憶”の第一人者として知られているんだ」
「虚偽記憶?」
「文字通り、偽りの記憶だ。実際に起きたことを起きなかったことに、そして起きなかったことを起きたことにする……そういう研究だ」
「そんな、まさか……」
蒼は背筋に冷たい物を感じた。
「認知心理学の権威である手塚教授が、いくら友人の娘だからといって単にカウンセリングで外来診療を行うとは考えにくい。手塚教授がいるということは、そこに彼がいる意味と理由があるということだ」
幸介にこれからどうするかと尋ねられた蒼だったが、今はとにかく頭を整理したいとだけ告げて電話を切った。
結花の記憶が改ざんされているかも知れない……。幸介の言葉はそういうことを意味していた。結花は父親に言われて手塚教授の診察を受けるようになったと話していた。だとしたら、結花に虚偽記憶を植え付ける依頼をしたのは父親ということになる。
蒼がこの件に関わることになった際、結花は父親が“自分に都合の悪い何かを隠しているんじゃないかと疑っている”と言っていた。もし、本当にそうなのだとしたら、単に風花が昏睡状態になった原因を結花に知られないために二人を遠ざけているのだと考えられた。
しかし、記憶が書き換えられたとなれば話は変わってくる。すなわち、結花はすでに風花が昏睡状態になった原因を知っていて、それが父親にとって都合が悪いから隠蔽したということになる。
だが、ここまで考えて蒼は立ち止まった。記憶が書き換えられていたとしても、風花の件とは無関係な理由かも知れないという考えが浮かんだからだ。ただ同時に、どんな理由があったとしても親が子供の記憶を改ざんするなど、あってはならないことだという気持ちも強くなっていた。
いずれにしても、結花の記憶が改ざんされているのだとしたら、それが事実であることを確かめなくてはならない。しかし、それにはどうすれば良いのか。考えが一向にまとまらず、蒼の視線は宙を泳いでいた。
[次話へと続く]
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