第08話 研究室
昨夜の剣司と幸介との飲み会から蒼はずっと悩んでいた。
手助けを買って出てくれた剣司や幸介の申し出を断ってはみたものの、これといった打開策を見出せずにいたからだ。
なんの権限も後ろ盾もない高校生がこんな調査を進めていくには、自分の能力を最大限活かすほかはないということは分かっている。しかしながら、蒼自身が自分の能力のすべてを把握している訳でもなく、何をどこまでやれるのかということが不明だったのだ。
「じゃあね蒼、今日はここで」
突然結花にそう言われ蒼はハッと我に返った。下校時間となり、今は二人で学校から駅への道をたどっている最中だった。通い慣れた道だ。いつの間にか駅に着いてしまったようだ。結花の声が心なしか冷めている。蒼が話に上の空でただ相槌を打つだけだったからかも知れない。蒼はその場を取り繕うように尋ねた。
「あれ、家に帰るんじゃないの?」
「うん。今日は通院の日で」
「どこか悪いのか?」
心配させまいとしてか、結花は軽い笑みを浮かべた。
「ううん、どこも悪くないんだけど東条大学病院の精神科にかかっているの。大学受験でプレッシャーもかかるだろうからって。まあ、カウンセリングみたいなものよ。パパがそこの教授と知り合いでさ」
「東条大学……」
蒼は財布から幸介の名刺を取り出して住所を確認した。
「それって本郷の?」
「そうそう。大学の隣に病院があるのよ」
蒼は大学に知り合いがいるからと、自分も一緒に行きたいと告げた。この予想外の申し出に結花は二つ返事でOKを出し、少し気分を直したようだった。
その後、結花が先導してくれたおかげで大学へは迷わずに到着することができた。大学病院の入口から結花が建物内に入るのを見届けると、蒼は名刺に書かれている『大学院医学系研究科 脳神経医学専攻 神経生化学』という学科名を頼りに研究室を探し始めた。幸いなことに学内には至る所に案内図があったため、さほど迷わずに幸介のいる研究室を探し当てることができた。
『准教授 二階堂幸介』という名札のかけられた扉をノックする。返事はなかったが、ドアノブを回すと扉はスウッと開いた。部屋の中に入ってぐるりと見回したが、広さは20㎡にも満たない感じで思ったよりも狭い印象だった。左側の壁一面は本棚、右側の壁は上部下部とも開き戸でシンクもあり、まるでキッチンカウンターのようだった。その上に所狭しと置かれていたのはもちろん調理器具ではなく、あまり馴染みのない何かの機材だった。部屋の中央のスペースには大きなテーブルがあって、いくつかの書類や本が載っていたが、それらは幸介の几帳面な性格を物語るようにきちんと整頓されていた。
よくテレビで見かけるような“雪崩を起こしそうなくらい
中央のテーブルのさらに奥にはデスクがあり、幸介はそこで何やら集中した表情でノートパソコンに向かっていた。カチャカチャとキーボードを鳴らす指は止めないまま、蒼が近づいていくと視線だけを向け、まるで予想通りとでも言いたげな眼差しで口を開いた。
「早速来たか」
幸介はキリの良いところまでタイプし終えたのか、ノートパソコンのディスプレイをパタンと閉じた。そして、立ち上がると蒼にデスク前の椅子に座るように促し、シンク脇のガラスポットの中の真っ黒なコーヒーを使い捨てのプラスチックカップへと注いで差し出した。カップからは煮詰まったような香りがほんのり立ち上り漂った。
幸介はゆっくりと自分の椅子に戻ると、落ち着いた様子で聞いた。
「で、どうした?」
「えぇと……昨日話した結花が東条大学病院に診察に来るって言うんで、そう言えば幸介さんの大学だなと思って一緒に来ました」
昨日の今日で“やっぱり独りではお手上げです”とも言えないので、理由と言うより単なる状況を伝えてみた。嘘ではない。
幸介は壁に掛かっている白い文字盤の時計を確認した。
「妙だな。もう外来診察は終わっている時間なんだが」
「えっ、そうなんですか? おかしいな」
幸介は少しだけ何かを考えた様子だった。
「まあいい。折角来てくれたんだ。少し話そう」
そう言うと、まるで蒼の心の内が分かっているかのような切り出し方で話を振ってくれた。
「昨日から私も色々と考えを巡らしているよ。ひとまず君が自分の能力についてどこまで認識できているのか少し質問させて欲しい。そもそも、君がデュプリケイトできる他人の能力とはなんだと思うね?」
「えぇと……。その人が経験によって身につけた知識とか技術かな」
「では、それは人体のどこにあるんだ?」
「もちろん、脳に保管されているんじゃないですか?」
「そう。ただ、厳密には脳は保管する場所ではなく、それ自体が記憶であると考えられている。経験が脳を形作っていくと言っても良い。脳は進化し続ける臓器なんだ」
脳という保管庫に記憶が収められていると思っていた蒼には、脳自体が記憶という言葉は感覚的に少し理解が難しかった。そんな蒼の様子を感じ取った幸介は、昨日からの考察を大幅にかいつまんで伝えることにした。
蒼は昨夜、デュプリケイトした能力を最大限使える期間は1〜2週間であることを幸介に伝えていた。その間に反復学習しない限り能力は徐々に失われていく。幸介はこの事実を元にひとつの仮説を立てた。それは、蒼が対象者に接触することで得られた能力が、一旦脳の海馬という場所に格納されるのではないかということだった。
海馬は短期的な記憶をつかさどっている部位である。これを長期的な記憶に変えていくために、海馬は大脳皮質や小脳などと連携している。通常、言葉で説明できる情報は2〜3週間ほど海馬に留まった後、大脳皮質へと送られていく。身体を動かすことで身につけた運動機能に関する情報は長期的には小脳へと格納されるが、海馬に留まるのは数時間から数日である。この海馬から脳の他の部位へと記憶が置き換わっていく期間が、蒼の能力消失の期間とおおよそ一致するのだ。
「ようするに、その海馬から脳の他の部分に情報をうまく定着させられれば、獲得した能力をずっと使えるってことですかね」
蒼は色めきだった。
「そうできる可能性はある。ただ、君自身の経験によって獲得した能力ではないから、もしかしたら大脳皮質や小脳へと定着させる力が元々弱いのかも知れない。その辺のことは検査と実験で解明していくしかあるまい」
幸介が冷静に述べたので、蒼は“モルモットになれ”と言われたことを思いだし少しだけ背筋が寒くなった。
続いてデュプリケートの際、ごくまれに対象者が過去に目にした記憶が流れ込んでくる件ついて話をした。
幸介はこの現象を“サブビジョン”と名付けることにしたと言った。名前がそれっぽかたったので蒼も特に異論は無かったが、“デュプリケイト”という呼称しかり、学者というのはそうやって名前を付けたがる人種なのかなと少し思ったりもした。
幸介はサブビジョンについて、ことさら興味を持っているようだった。
ほぼ確実に発動できるデュプリケイトに対して、サブビジョンは蒼が望む望まないに関わらず見えたり見えなかったりする。
幸介は、これを選りすぐりで見たい場面を見られるようにすることに取り組みたいと言った。それは、例えば対象者が先週の日曜日に見た風景といった“期間の限定”や、食事している風景だけを抽出して見るといった“状況の限定”などを行いつつサブビジョンを見るということだった。また、対象者にとっての好きな場所だったり、心情に紐付いている風景などもソートできると良いと幸介は言った。
「そんな検索エンジンみたいなこと出来るかなぁ……」
とても自分に出来るとはと思えない蒼は不安を口にしたが、幸介は至って真面目に答えた。
「人間は無意識にソートして記憶を呼び起こしているものだ。最後にカレーを食べたのはいつだったか、一番幸せだった瞬間はいつだったかとか。まあ、まずはサブビジョンの発動を意識して行えるようにしないことには始まらない話だが」
確かに、その通りだった。
「サブビジョンを好きなタイミングで見られるようにするって、具体的にはどうしたらいいんですかね?」
蒼は訊ねた。
「それついては見た時と見なかった時の条件切り分けが必要だ。事例を色々と聞かせてもらわないことには仮説の立てようもないが、昨夜聞いたサッカー少年の話は興味深かった」
それは蒼がサッカー少年の能力をデュプリケイトした時に見たおねしょで母親に叱られているシーンのことだ。
「小学生にもなっておねしょして、その日のサッカー少年は精神的に落ち込んだ状態だったはずだ。事故に遭った丸山教授も意識不明で、精神的にはゼロの状態と言っていい。精神が充実していないというか、そういう人物をデュプリケイトすると記憶を覗き見しやすいのではないか。正直、仮説にもなっていない話だが、対象者の心理状態でサブビジョンの発現有無が変わるとしたら、君がやれることは限られている。つまりは、対象者が精神的に弱っているときに接触するぐらいしか手立てがないということだ」
「なるほど……」
「だが、それではつまらないので、願望も込めて君からアプローチできる要素が何かないか考えてみた。昨夜、丸山教授のサブビジョンを見たとき、君の心理状態はどうだった?」
「どうって……とにかく、自分のやれることやって救いたいというか。うち、母親が看護師で、オレも小学生の頃から救命講習とかしょっちゅう参加させられているんですよ。いざという時には躊躇せず人を救いなさいって言われて育ったもんだから、とにかく無我夢中で」
「そうか。じゃあ、サッカー少年の時は?」
「うーん……その話はオレの最低エピソードなんで、あまり話したくないんですけどね。当時、オレには好きな女の子がいて、その子がサッカーの上手な男の子が好きみたいな話を聞いちゃったんすよ。それで、もしかしたら目の前にいるサッカー少年が好きなのかも。こいつには負けられない! 絶対イイところを見せたいって無我夢中で……あっ」
蒼は自分の口から続けて“無我夢中”というキーワードが出たことに気付いた。
「面白い。無我夢中というのは“我を無くす”という文字とは裏腹に、ひとつの目的に向けて極限まで集中した状態なんだ」
確かに、サブビジョンが飛び込んできた時は怪我人を救いたいとか、どうしても勝負に勝ちたいという心理状態であったと蒼は思い返した。
「私は君が超集中状態でデュプリケイトを行うことにより、君の指先から発せられる電気信号のパターンが普段とは変化するのではないかと考えている」
「電気信号……ですか」
「正確には微小生体電位という。君の心理状態によって、それが変化することでサブビジョンが見えたり見えなかったりするというのが現時点での私の仮説だ。君の指先はリーダー、つまり読み取り装置だ。どのような手法でデュプリケイトを可能にしているのかの検証は改めてしていくが、リーダーである指先に特殊な微小生体電位が生じているのはほぼ間違いないだろう。意識的にその信号を変える訓練をしていけば、対象者の見た光景を好きに見ることも可能になってくるはずだ」
幸介はあくまで希望的観測としながらも、その線で訓練と検証を進めるべきとの見解を述べた。
今後、幸介は蒼の能力の精度を高めたり技術を確立する手助けをし、蒼は幸介の研究対象として自身を提供する。そして、双方の合意なく蒼の能力を世間に公表しないことや、公表時には匿名性を確保することなどの大原則を申し合わせた。
大筋の約束で合意すると、幸介はやおら立ち上がった。
「では、早速始めよう」
「えっ、何を?」
驚く蒼をよそに、幸介はテキパキと中央のテーブルに何やら機材をセッティングし始めた。
「これは微小生体電位を計測する装置だ。元々脳波を計測するために私が開発した物なんだが、徹夜で君の手のひらを測れるように改造してみた」
まるで、今日蒼が来ることを見越していたかのような口ぶりだったので、蒼は少し躊躇した。蒼が口を挟む隙など与えぬうちに機材の準備は進められ、幸介は淀みなく喋り続けた。
「心電や筋電など、身体の表面に表れるの生体活動電位は比較的大きく、数〜数十ミリボルトだ。君がデュプリケイトすると指先に静電気の放電に似た痛みを感じるそうだが、通常そうしたレベルの電圧は3000〜5000ボルトだ。しかし、人間自らがそんな電圧を発生しているとは考えにくい。ただ、小さくとも明確な電位変化を見せるはずだ。さて、これをはめてくれ」
幸介に手渡されたのは電極とコードがいっぱいつけられたゴム製の手袋だった。
「その手袋と電極には苦労させられた。おかげで徹夜するはめに」
その言葉とは裏腹に幸介の興奮が伝わってくる。まるで作り終えた模型飛行機を飛ばす前のような表情をしている。
対して、蒼は戸惑っていた。ここ数日、色々なことが目まぐるしく起こりすぎている。子供の頃から秘密にしてきた能力が一気に数人に知られることになり、今以上のスピードで新しいことが起きるのを受け止め切れるのか不安だったのだ。
しかし、徹夜を連発する幸介に検査を断れるような雰囲気でもなかった。
蒼はひとつ溜息をついて、手袋を右手にはめたのだった。
手袋をはめおわると、幸介は装着具合をチェックした。そして、蒼の目を見て意思を確認。蒼がうなづくと、計測装置のスイッチを入れた。
「各電極が読み取っている生体活動電位は若干高めだが、正常の範囲内だ。常人と変わらない」
モニターを注視しながら幸介は言った。
「では、デュプリケイトの動作をしてみてくれ」
「はい……」
蒼は手に力を込めてみた。でも、なぜかいつものようなスイッチを入れるような感覚がつかめない。
モニターと蒼の顔を交互に見ていた幸介が聞いた。
「やったのか? 特に変化はないが……。続けてやってみてくれ」
蒼は言われるままに、スイッチを入れようとしてみるがどうにもうまくいかない。
その様子に幸介はあごに手を当てて少し考えた。
「手のひらに外的な刺激……握手するとか触るとか圧力が必要なのかも知れないな。よし、手袋をつけたまま私の手を握ってみてくれ」
幸介は右手を蒼の前へと差し出した。息を呑み、蒼はその手を握った。
瞬間、モニターに流れていた波形が大きく蛇行するとともに、ピーという高い音が研究室に鳴り響いた。
蒼自身にも今度はデュプリケイトする時のスイッチを入れる感覚があった。ただし、ゴム手袋をつけているせいか、幸介をデュプリケイトすることはなかった。
「やったぞ! やはり、生体活動電位の変化はわずかだ。しかし、特異な波形が現れている。デュプリケイトした相手が感じる静電気放電に似た痛みは、蒼がアプローチしたことによる言わば幻の痛みなんだ!」
人から人へと静電気が流れた場合、大抵はお互いに痛みを感じる。蒼のデュプリケイトでは一方的に対象者が痛みを感じることから、幸介は仮説を立てていたようである。いつの間にか、幸介の顔は模型飛行機の試験飛行に成功したかのような喜びの表情へと変わっていた。
[次話へと続く]
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