第12話 記憶の権利

幸介はその日も朝から大学の研究室に一人こもり、自分の研究に没頭していた。夜に差し掛かろうという時間になってようやく一息つき、自分のスマホを手に取ると蒼からのメッセージが来ていることに気がついた。

そこにはただ一文、

『結花の記憶は書き換えられていました』

としか書かれていなかったのだが、おおよそ何があったのかの察しは付いた。

幸介は天井を見上げてフウッとひとつ溜息をつくと、思い立ったように椅子を離れて部屋を出て行った。


研究室の入る建物の階段脇には飲み物の自動販売機が設置されていた。幸介が大学に頼み込んだので、この階の自動販売機だけ真夏でもホットの缶コーヒーが売られている。欲しい銘柄のボタンを押した後でスマホをリーダーにかざすと、人気ひとけのない校舎にボトル缶が落ちるガタンという音が響いた。缶を拾い上げてスクリューキャップを開け一口すすると、幸介は小さな声で独り言を言った。

「行ってみるか」

ボトル缶を指3本でつまんでぶら下げながら、幸介は階段を昇って行った。ひとつ上の階へと上がり、廊下を突き当たりまで進み近くの扉を見ると、そこには『教授 手塚 弘行ひろゆき』という名札が掛けられていた。

幸介はその扉をノックした。10秒ほど待ってみたが、中から応答はない。再度ノックして待ったものの、変化はなかった。

空振りかと諦めて自室に引き返そうとした時、階段の方から手塚教授が歩いてくるのが目に入った。すぐに手塚も幸介に気付いて言った。

「これはこれは、脳神経医学の二階堂君じゃないか。私に用事かね?」

幸介は深々とお辞儀をした。

「実はこのところ、研究に行き詰まっていまして。大先輩にアドバイスを頂けないかと思い、やって参りました」

「天才の呼び声が高い二階堂君が私なんかにアドバイスを求めるとは意外だな」

手塚の顔にはその言葉通りに驚きの表情が浮かんでいた。

「私の専攻である神経生化学は脳そのものを言わばハードウェアとして捉えたもので、手塚先生の専攻である神経精神医学は脳というハードウェアに保管する情報であるソフトウェアを扱うものです。その観点から是非お力をお貸し下さい」

「まあ、お役に立てるのならなんでも。散らかっているがどうぞ入ってくれ」

「いいえ、手短に済ませますのでこちらで」

幸介は手塚の研究室の前の廊下で話を始めた。

「人間の記憶についてですが、将来的には脳から完璧な形で外部に取り出せると私は考えています。取り出した記憶を移す場所はコンピューターの中なのか、はたまたバイオテクノロジーによって生み出された別の新しい脳なのかは分かりません。しかし、生まれてきた時と違うものに宿ることに変わりはありません。そして、その記憶を育んだ肉体が滅んだとしても残しておくことが可能になります。その記憶を二次的に利用することも出来るかも知れない。そうなった時、果たしてその記憶は誰のものと言えるのでしょうか?」

手塚は一瞬考えてから口を開いた。

「肉体が無くなれば、物を所有することも出来なくなる。だから、今は肉体が滅びた時に所有権も消滅する。記憶が“物”かという意見はあるかも知れないが、確かに存在する有形のものなので私は物であると認識している。もし、将来的に記憶だけを遺せるようになるならば、近親者がそれを遺産として相続するような仕組みも生まれるかも知れないね」

幸介は手塚の回答にうなずきながら次の質問を繰り出した。

「では記憶自体には人格はないのでしょうか? 脳にあるのは人間が生物として太古から受け継いだものを含む、経験や学習などすべての記憶です。その人の人格とは記憶から発現するわけですから、記憶自体が人格であるとすることも出来るのではないかと思うのですが」

「うむ……。遺された記憶単体がかつて肉体が存在したと認識していて、自らの有り様やなり振りを決められるのだとしたら、それはもう人格と呼べるかも知れないね」

幸介は手塚の言葉を興味深く頭の中で反芻した。

「なるほど、興味深い見解です。いずにれしても、まだ現在の医学・科学では記憶を完全な形で外部に出すことはできない訳ですから、その所有権が本人にあることは揺るぎないですね」

「まあ、そうなるかな」

「先生は虚偽記憶の研究をされていますが、記憶を書き換えることの意義について教えていただけますか?」

「それは色々あるが、例えば幼い頃に親の虐待を受けて心にダメージを負った人がいれば、その記憶を書き換えることでQOLを上げることも可能だね」

「QOL、“生活の質”ですか。でも、真実を歪めることには変わりないですよね。記憶の中だけで良い親になっても根本的な解決にはならないと思うのですが」

「では、問うが真実とはなんだね? 君の持っている記憶は全て真実だと言い切れるのかい?」

「いや、全く言い切れないですね」

それは考えるまでもない質問で、幸介は苦笑いしながら答えた。

「そうだろうとも。記憶とは時に美化され、信じたいものであったりするはずだ。でも、私はそれでいいと思っているよ」

「では、少し話を変えましょう。犯罪現場に目撃者がいて、その目撃証言を犯人がなんらかの方法で自分の都合の良いものに変えるなんてことはできるんでしょうか?」

幸介の質問の毛色が突然変わったので一瞬手塚は戸惑ったが、落ち着いて自分の見解を述べた。

「手順さえ踏めば、それは十分に可能なことだね」

「目撃者が犯人に有利な証言をすれば、それが嘘でも真実にすり替わるという訳ですか」

「誰の記憶がすり替わったとしても真実がすり替わったりはしないよ。何人が同じ事を言おうが、全員が違うことを言おうが、真実とは唯一無二のものだからね。それは神のみぞ知ること。ただ、真実と記憶が違えばそこに“ひずみ”は生じる。記憶の書き換えに功罪あるのは確かな事実だ」

「その歪みを良い方に向けるのが重要ということですね。悪が隠されるようなものであってはならないと」

「結論的にはそうなるね」

手塚は少し含みのある言い回しでそう答えた。

「いや、手塚先生はとても規範意識の高い方でいらっしゃるようだ。大変勉強になりました。ありがとうございました」

「規範意識か……。そうならば良いが」

手塚は意味ありげに笑った。

「そうだ。最近、先生の診察を受けている沢渡結花さんと知り合いになりましたよ。お父上は沢渡製薬の沢渡孔子朗社長で、手塚先生のご学友らしいですね。是非、今度私にもご紹介下さい」

思ってもみない名前が幸介から飛び出し、手塚は一瞬表情を固くした。そして、これまでの幸介のやり取りを思い返し、全ての質問の意図を理解した。

「ああ、紹介を約束しよう。では、ここで失礼」

手塚は作り笑顔を浮かべて自分の研究室へと消えていった。幸介はその背中にお辞儀をした後、閉じられた研究室の扉に鋭い視線を送った。


* * *


「お疲れ様。ありがとう」

宵闇が迫る渋谷の住宅街。沢渡孔子朗は数日間の台湾出張に随行してくれた秘書と運転手兼ボディーガードに礼を言って自宅前で社用車を降りた。結花に送ったメッセージにいつものように既読がつかず、銀座本社に戻る予定をキャンセルして羽田空港から自宅へと直帰したのだった。

住み込み看護師として出入りさせている加納瑞枝によると、結花は朝から出かけているということだった。その瑞枝も今は所属会社への定時連絡で会社に戻っている時間だった。孔子朗はセキュリティロックを解除して敷地内に入り、中庭を歩きながら結花は帰って来ただろうかと考えた。

玄関の扉を開けて中に入ると孔子朗の心配をよそに、回り階段の途中に結花が腰掛けているのが目に入った。孔子朗は自分の靴を片付けてスリッパに履き替えると、結花に声をかけた。

「帰ってたのか。メッセージしたんだぞ。そんなところに座り込んで、どうした?」

孔子朗の声がだだっ広い玄関の吹き抜けに響いた。結花は立ち上がって階段を下りながら口を開いた。

「私ね、今日デートだったんだ」

孔子朗は少なからず動揺して質問した。

「お前、彼氏なんか出来たのか? どんな家柄の子なんだ?」

家柄という言葉があまり好きではない結花は、思わずその気持ちが表情に現れた。

「この間会ったでしょ、七瀬蒼君。家柄は分からない。っていうか、まだ付き合ってる訳じゃないよ。それで、今日どこに行ったと思う?」

ふいの質問に孔子朗は慌てて思案した。自分に置き換えたら、高校生のデートなんてもう何十年も前のことになる。

「どこって言われてもな。高校生のデートなら映画とか遊園地か?」

「ハズレ。屋内スキー場よ」

結花からの、まさかの答えに孔子朗は緊張をあらわにした。

「ス……スキー場ってお前!?」

孔子朗の様子に気付きながらも、結花は淡々と話を続けた。

「私、スキーなんか初めてだから嫌だったんだけど、七瀬君ががどうしてもって言うから」

「そうか……。ケガしなかったか?」

「ケガするどころか、ビュンビュン滑れたよ。スキーって簡単なんだね」

「そ、それは良かったな……」

孔子朗の緊張感は高まる一方で、うまく言葉を返すことが出来ないようだった。

「あれ? 思ったより驚かないなぁ。すごく上手に滑れたんだよ」

「そうか……。才能あるんじゃないのか?」

「まるで初めて滑ったんじゃないみたい……」

孔子朗はその一言に息を飲んだ。

「まるで初めて滑ったんじゃないみたい……って褒められたよ」

孔子朗は口ごもり、もはやうつむいて黙ることしか出来なくなっていた。

それを見た結花は手に持ったスマホを操作して、画面を父親に見せた。そこには、蒼が見つけ出した6年前のジュニアオリンピック競技会の結果が映し出されていた。孔子朗はもうどうすることも出来ずに押し黙ったままだ。

「ここに私と風花の競技結果が載ってる。どういうこと?」

「それは……」

「小学校6年生の記録だよ? ……でも、私にはこんな大会に出た記憶がない」

孔子朗は必死に発するべき言葉を探したが、どうしても見つけられらずに、ただ顔に焦りの表情を浮かべるばかりだった。

「私の記憶を消したの? 手塚先生に頼んで?」

「いや、それはだな……」

結花の言葉に反射的に反論するが、その後が続かない。

「何か私が覚えていたら困ることでもあるの? それは風花が昏睡状態になってることと関係があること?」

「結花……お前は何も考えなくていいんだ。このことはパパに任せて……」

焦れば焦るほど言葉が出てこなかったが、孔子朗はなんとか結花をなだめようと必死になった。

「私が知ってしまったことは、パパにとって都合が悪いことなの?」

「そんなことはない! ただパパは結花を守りたいだけなんだ。風花があんなことになってしまって、パパにはもうお前しか……」

「だからって、私に何をしてもいいの!? 私はパパの所有物じゃない!

これ以上の会話を続けることは、感情が極まってしまった結花には無理だった。

こぼれ落ちる涙で視界をにじませながら、結花は階段を駆け上がった。そして、そのまま自分の部屋へと駆け込み、固く扉を閉ざしてしまった。

孔子朗は去って行く娘の背中をただ呆然と見送り、何も出来ないまま立ち尽くすしかなかったのだった。


[次話へと続く]

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る