第06話 会わせたい人物

翌日の木曜日、学校を終えた蒼は新宿にいた。夏の夕方、空はまだ若干の白さを残していたが、迫り来る夜に誘われて街行く人は見る間に増えていくようだった。

蒼は探偵スクール校長、浅野剣司に言いつけられた

——明後日の夜にまたここに来い。会わせたい奴がいる

という約束を果たしに来たのだ。


(会わせたい奴って、どんな人だろう。会わせたいというからには、当然オレの能力に関係のある話だよな。正直、この能力のことをこれ以上誰かに知られたくない。浅野剣司に知られたのも大誤算だったし。探偵は秘密を守るのが得意だとか言ってたけど、どうもイマイチ信用できないよな……)

考えを巡らせれば巡らせるほど憂鬱になって、蒼はため息をついた。

渡ろうとしていた交差点の歩行者用信号が点滅している。普段なら駆け足で渡ってしまうところだが、そんな元気も湧かずに横断歩道の手前で足を止めてうつむいた。


次の瞬間、けたたましい衝突音がして蒼はとっさに身体をこわばらせた。

反射的に視線を横に滑らせ、爆音のした方向に目を向ける。目に飛び込んできたのは、交差点の中央で中型のトラックがセダンの横っ腹に突っ込んでいる光景だった。

トラックの運転手が慌てて下りてきたが、事故の光景を目の当たりにしてよろよろと立ち尽くすばかりだった。

気がつくと蒼は乗用車の方へと駆け出していた。車の脇まで来たが、運転手の姿は膨らんだエアバッグに阻まれて見えない。

運転席側にトラックが突っ込んでいるため、助手席側からドアを開けて中を覗くと、中年の男性が苦しそうにしているのが目に入った。

「大丈夫ですか!?」

蒼は男性に声をかけたが、呼吸が速く、呼びかけにも応じない。男性の左腕に手を掛けて身体を助手席側に倒し、そのまま引っ張り出そうと試みるが、気を失っていてその身体は砂袋のように重たかった。再度、男性の左腕を掴み直して力を込めた時、後部座席から別の人が車内へと入って手を貸してくれた。

事故に巻き込まれた男性は足などは挟まれておらず、かろうじて助手席から車外へと運び出すことが出来た。他の通行人とともに歩道まで運び、地面へと寝かせる。男性の呼吸は変わらずに速いまま。顔面は蒼白だった。

蒼は返す刀でもう一度乗用車へと戻り、助手席の足元に転がっていたバッグを拾った。そして、横たわる男性の脇まで駆け戻ると、取ってきたバッグを開いて中をまさぐった。

その様子の一部始終を見ていた通行人たちから、ざわざわと声が上がった。そして、蒼がバッグの中から注射器を取り出すと、通行人の一部が驚きの声を上げた。蒼は男性の半袖シャツを一気に引き裂いて胸部をあらわにし、心臓の位置を確かめるように指先で触った。この様子にたまりかねた見物人の一人が大きな声を上げた。

「おい君! 一体何をする気だ!?」

反射的に声の方向を睨み付ける蒼。そこには眼鏡をかけた長身の男性が立っていた。蒼とて確信があってやっているわけではない。ただ突き動かされるように、勝手に身体が動くのだ。そうするのが必然のように。蒼の真剣な眼差しに圧倒され、その眼鏡の男性は口をつぐんだ。その隙を利用するように、蒼は指先で慎重に位置を定めると注射器を胸に突き立てた。見物客から悲鳴にも似た声が上がる。その声に動揺することなく、ゆっくりと注射針は進められた。蒼の額からは大粒の汗がしたたり落ちる。注射針が一気に進まないように力を込める。指先の感触に全神経を集中させる。いつしか蒼は目を瞑っていた。そして、ふっと指先の感触が変わった瞬間に目を見開き、同時に注射針を止めた。

男性の呼吸は変わらずに速い。この状態で身動きをされたら、注射針で心臓を突き破りかねない。蒼は奥にも手前にも針が動かないように力を込めながら注射器のロッドを引いた。すると、血の混じった黄色い体液が徐々に注射器内を満たしていった。

見る間に男性の呼吸が落ち着き始め、顔にも血色が戻って来た。

男性が危機を脱したことは見物人たちの目にも明らかで、皆一様に安堵のため息をもらした。もちろん蒼自身も。その時、遠くから近づいてくるサイレンの音が聞こえ始めたのだった。


数分後、事故現場は駆けつけた救急車、消防車、パトカーで騒然としていた。蒼はその混乱に乗じてその場を離れることにした。警察や消防に事情を聞かれたところで、納得出来るような説明など出来るはずもなかったからだ。

警察官や消防隊員たちは現場に到着したばかりで状況把握に走り回っている。蒼がその場を離れることはそう難しくは無かった。

新宿の街はすでに人であふれかえっていて、通行人に紛れれば目と鼻の先にある浅野の探偵学校に逃げ込めるだろうと思われた。しかし、現場からの去り際を誰かに見られているかも知れないと考え、蒼は別の方向へと歩き出した。


背後に聞こえる事故現場の喧騒が徐々に遠ざかっていく。救助員たちの飛び交う声も緊急車両の回転灯の光も全く届かなくなるまで歩くと、そこは花園神社の鳥居の前だった。子供の頃に両親に教えられた通り、蒼は一礼してから神社の境内へと入って行った。気分を落ち着かせるためわざとゆっくり歩き、やがて石柵にもたれかかって天を仰いだ。

もちろん、人間の身体に注射針を刺すなんて初めての経験だ。ほんの数分前それをやってのけた自分の手のひらに目を落とすと、小刻みに震えていることに気がついた。

(まあいい、人一人の命を救えたのだ……)

手段はどうあれ、それは褒められるべきことに違いなかった。


「大したお手並みだったな」

聞き覚えのある声がしてハッと顔を上げると、そこには先ほど事故現場で声を掛けてきた眼鏡の長身男性が立っていた。

「ああ、いや別に……」

蒼はその場から去ろうと歩き出した。

「まあそう言わず、お茶でも飲みながら少し話を聞かせてくれないか? 君のを黙っている代わりにさ」

蒼は驚き、足を止めて振り返った。


数分後、蒼は裏路地の自販機の前で熱々の缶コーヒーを握らされていた。

「普通、お茶に誘ったらどこかのカフェですよね? しかも、この暑いのにホットって……」

「缶コーヒーは日本が誇る文化だし、コーヒーはホットで飲むものだろう」

彼はまるで自分の好みが万人に当てはまるような口ぶりでハッキリと言ってのけた。あまり他人に気を使うタイプでは無さそうだ。そもそも、真夏にホットコーヒーを売っている自販機があること自体が驚きだった。


「それで、オレの秘密って何ですか?」

蒼が本題の口火を切ると、眼鏡の男性は薄い笑みを浮かべながら言った。

「君には他人の技術を盗み取る能力がある」

蒼はその言葉に心底驚き、男の顔をただ真っ直ぐに見ることしか出来なかった。

「……それは、なんの冗談ですか?」

なんとか言葉を絞り出したが、彼は自信たっぷりに続けた。

「君が救ったあの男性、誰だか知っているか?」

「そんなの、分かる訳ないじゃないですか」

「あの人は、日本有数の心臓外科医、武蔵野医科大学の丸山教授だよ。この近くのホールで学会があったらしいからな。恐らく、その帰りに事故に巻き込まれたんだろう」

彼は蒼の目を見据えたまま微動だにしない。

「心臓外科医が交通事故に遭い、外傷性心タンポナーデを起こした。説明する必要はないのかも知れないが、心タンポナーデとは心臓を取り巻く2層の袋、すなわち心膜の間に体液などが貯留して心臓自体が圧迫され動きが鈍くなることを言う。この状況になると速やかに処置をしなければ死に至る」

蒼は男性の言葉を黙って聞いていた。

「日本有数の手技を持つ自分が、心臓に大きなダメージを負ってしまった。自分がもう一人いたら治療出来るのに……。気絶していたから分からないが、彼はそう思っていたかも知れないな。しかし、そこに君が現れた」

ここまで話すと、彼は蒼の前を行ったり来たり歩き始めた。

「今日は近くで医学学会があった。事故現場近くにも医者がいた確率はかなり高い。だが、名乗りを挙げなかった。それが何を意味するか……。それだけ、丸山教授の所見は重篤だったということだ。しかし、君は検査器具も何もない路上にあって、手探りで心嚢穿刺しんのうせんしをやってのけた。なぜ、そんなことが出来たのか……」

彼は歩みを止め、またしっかりと蒼の目を見据えて言った。

「私がたどり着いた結論は、君があの時“丸山教授自身”だったということだ」

男性の自信に満ちた話し方に圧倒され、蒼は抵抗の言葉を発することが出来なくなっていた。

「では、どうやって君は丸山教授の能力を手に入れたのか。あの事故現場の雑踏、しかも短時間の間にどうやって? 答えは簡単だ、君は触れた人物の能力をデュプリケイトする能力があるんだ」

蒼は耳慣れない言葉に思わず口を開いた。

「デュプリケイト?」

「デュプリケイト……複製という意味だ」


彼の推理は寸分違わずに当たっていた。

事故に遭遇した丸山教授を車外に連れ出そうと身体に触れたとき、彼から心臓外科医としての能力が流れ込んできたのだ。普段は意識してスイッチを入れない限り、人の能力を読み取ることは出来ない。恐らく極度に緊迫した状況だったため意図せずにコピー……いや、この男性が言うところの“デュプリケイト”してしまったものと思われた。そして、今回のデュプリケイトにはいつもと違うこともあった。それは、過去にも経験したことがある出来事だった。


小学校の時、体育の授業でサッカーをやることになり、蒼は相手チームのサッカーが上手な少年の能力をデュプリケイトした。当時、蒼には好きな女の子がいて、その子の手前どうしても良いところを見せたかったのだ。しかし、サッカー少年をデュプリケイトした際、能力だけでなく彼がその朝おねしょして母親に叱られている場面の映像も一緒に流れ込んで来たのだった。


試合中、サッカー少年に “おねしょ”という言葉をささやくと、彼は見る間に様子がおかしくなり、蒼の活躍も手伝ってチームは勝ちを収めた。スポーツのコツなどはデュプリケイトできても、筋肉や心肺機能など身体のもつ性能はデュプリケイトできない。小学校の時にはもうそれに気付いていて、わざとサッカー少年に心理的な揺さぶりをかけたのだ。


勝利に沸くクラスメイトとは裏腹に蒼は全く嬉しくなかった。それどころか、こんな卑怯な手を使ってまで勝とうと思った自分が情けなく、その愚かさを恥じた。その時の強烈な罪悪感から、能力の使い方にだんだんと慎重になっていったのだった。

そして、今回この少年時代の時のように丸山教授に触れた瞬間、医師としての能力に加えて彼が数時間前に見たであろう光景が流れ込んできたのだ。それは、彼が手術室で心臓の手術をしている場面。それを終えて医療スタッフ達に賞賛されている場面。そして、その手術を終えてどこかの部屋で……恐らくは勤務している病院の自室で……大きな自分のドクターバッグを開き、聴診器や注射器などの中身を確認している場面だった。その後、彼は学会に出発したのだ。

その光景を見たおかげで彼が心臓外科医として確かな腕の持ち主であることを知ることが出来、蒼のとっさの救命活動につながったという訳だ。

通常、能力をデュプリケイトしたとしても、その相手がどんな能力を持っているのかを知ることは出来ない。先日、ピアニストの影山真一の能力をデュプリケイトした際も、彼がピアニストであることを知っていたから、その能力を使えた。

もしかしたら、彼には他にも得意なものがあるかも知れないが、その情報はデュプリケイトするだけでは分からない。影山真一のほぼ全ての能力は蒼の中にデュプリケイトされているはずだが、どんなことが出来るかは前もって情報として知っておく必要があるのだ。


遠い昔のこと、少し前のこと、さっき起こったこと……時期の違う記憶がぐるぐると駆け巡り、頭の中の処理が間に合わずに蒼の身体は熱を帯びた。この場から逃れたいと思う反面、この見知らぬ男性が発した“デュプリケイト”という言葉がやけにしっくり来る奇妙な感覚に囚われていた。それでも自分はこの男に抵抗せざるを得ない。蒼は額から流れ落ちる汗を手の甲で拭いながら、なんとか言葉を絞り出した。

「ふざけた話だが……仮にあんたの言うとおりだったとしたら、なんだと言うんだ?」

息を呑む蒼に、眼鏡の男性はフッと一息吐いてから言った。

「私のモルモットになって欲しい」

「モルモット!?」

「おっと失礼、つい本音が。そうだな、協力者と言った方がいいかな」

悪びれる様子もなく笑い混じりの声でそう言うと、ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出し、そこから1枚抜いて手渡した。


東条大学 大学院医学系研究科 脳神経医学専攻 神経生化学

准教授 医学博士

二階堂にかいどう幸介こうすけ


「大学の先生?」

「私の専門は神経生化学。簡単に言うと、人間の記憶の仕組みにアプローチすることだ」

大学の准教授が自分をどうしたいというのだろう。しばしの沈黙が流れた。しかし、それは別の男の乱入で呆気なく破られたのだった。


「おい、幸介! なんでお前こんなところでモタついてんだよ。今日新宿に戻るって言うから飲みに誘ってやったんだろうが!」

最近、耳にしたことがある特徴的な声に蒼は目を向けた。

「……浅野さん?」

そこには、探偵スクールの浅野剣司が立っていた。

「あれ? 蒼じゃん。なんでお前らオレが引き会わせる前に会ってるんだよ」

「引き会わせるって、じゃあ会わせたいってこの人?」


しかし、二階堂はそんなやりとりはお構いなしに怒りの形相で浅野に食ってかかった。

「おいっ、剣司! お前、なんでオレの居場所が分かったんだよ!」

「えっ!? えーと、カン……かな? ほらオレって凄腕の探偵じゃん?」

浅野は動揺を隠し切れず、二階堂はその返答にさらに激高する。

「お前、またオレのスマホに変なアプリを仕込んだろっ!」

(な、なんだ、この展開は……)

蒼はますます考えがまとまらなくなり頭を抱えた。


[次話へと続く]

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