第02話 昏睡の少女

ほどなくして、結花ゆうかが手を振りながら昇降口へとやって来た。

「さあ、元気いっぱい帰りましょう」

結花は何やらご機嫌な様子で足取りも軽く校門を出た。

対して、あおいは見られてはいけないところを見られてしまい、その足取りは重かった。それでも、結花には念押ししておかなければならなかった。

「あの、沢渡さん……」

「結花でいいよ。私も蒼って呼ぶね。美彩みさもそう呼んでるみたいだし、いいでしょ?」

やはり、結花と美彩は仲が良いようだ。

「結花……今日のことは誰にも言わないでもらいたいんだ」

「うん? 蒼がピアノ弾くの上手だってこと?」

「そう……。これまで内緒にして来たことだからさ」

「なんで?」

「なんでって、えーと……ほら、ピアノを弾けるって分かると、合唱コンクールとかで弾かされたりするじゃん。オレ、人前に立つの苦手なんだよね」

結花は蒼の目を真っ直ぐに見た。それはまるで、瞳の奥にある真実を見極めるかのような眼差しだった。

「まあ、そういうの面倒くさいよね。わかった、黙っていてあげる」

蒼は、フウっと安堵のため息をもらした。しかし、それも長くは続かなかった。結花の言葉が「その代わり……」と続いたからである。蒼は息を呑んで続く言葉を待った。

「今夜、私の家に来て妹のためにピアノを弾いてくれない?」

「妹?」


数十分ほど後、辺りが薄暗くなる頃、蒼は高い壁に囲まれた大きな白い邸宅の前に立っていた。

「ここが結花の家……?」

蒼は家の大きさに圧倒されながら聞いた。

「そうだよ」

渋谷の駅からさほど歩いてはいないはずだ。しかし、先ほどまでの街の喧騒はすっかり消え去り、その静寂が大邸宅の重厚感をさらに増し加えているかのようだった。

「結花って何者なの?」

「うーん……分かりやすく言うと沢渡製薬のご令嬢?」

結花は冗談めかして言った。

沢渡製薬と言えば、1日に何度もテレビCMを見かける大きな製薬会社である。

「パパがおじいちゃんから会社を引き継いで、今は社長をしているのよ」

車がそのまま入れそうな大きな正門の脇には通用口があった。結花はその脇にある小さな装置に自分のスマートフォンをかざした。ピッという電子的な音が鳴り、ドアのロックが外れたのが分かった。

そのハイテクな仕掛けに驚く蒼をよそに、結花は涼しい顔でドアを押し開けた。

中庭からこぼれ出してくるひんやりとした空気を肌に感じながら前を見ると、広い車寄せと車が何台も入りそうなガレージが目に入った。先には玄関へと続くアプローチも見えている。通路の両脇には落ち着いた色合いの花々が自然な雰囲気で植えられており、庭の手入れが行き届いているのが分かった。

蒼はキョロキョロしながら玄関まで結花の後ろについて歩いた。結花は再びスマホで玄関のドアロックを解除して、蒼を中へと招き入れた。


まばゆいばかりの光に包まれ、蒼は思わず高い吹き抜けの天井を見上げた。玄関ホールはゆうに普通の家の数部屋分くらいはありそうである。正面にある細工が凝らされた木製の回り階段は優美な曲線でその存在感を見せつけていた。目の前の光景は、まさにテレビで見かけるような“お金持ちが住む豪邸”そのものだった。

姿が映りそうなほどに磨き抜かれた大理石の床で靴を脱いでいると、一人の女性が静かに近づいてきた。黒に近いダークグレーのジャケットにタイトスカート、黒革のビジネストートを肩からかけている。結花の母親だろうか? いや、そういう年齢ではない。二十代後半くらいにしか見えなかったのだ。

「お帰りなさい。遅かったですね。……そちらの方は?」

想像したよりも少し低めの声で女性は聞いた。

「同級生の七瀬君。遅くなったから送ってくれて。冷たいものでも飲んでもらおうと思って寄ってもらったの」

「では、用意しますね」

きびすを返して、その場を離れようとする女性に結花は慌てて言葉を続けた。

「いいよいいよ、私がやるから。瑞枝みずえさん出かける時間でしょう?」

結花が“瑞枝さん”と呼んだことで、少なくとも結花の実の母親ではないことが分かった。

瑞枝は左手首を返して腕時計に目を落とすと、ほんの一拍考えてから言った。

「では、申し訳ありません。出かけますね。結花さんくれぐれも……」

何かを言いかけた瑞枝を結花はすかさず手で制した。

「だーいじょうぶだって、風花ふうかには近づくなって言うんでしょう」

蒼はすぐに、これは二人の間では何度となく繰り返された会話だと理解した。

しかし、“風花”って結花の妹か? ってどういう意味だろう、と蒼は思った。

女性は蒼に軽く会釈をすると、ドアを開けて外へと出て行った。

オートロックがかかる小さなモーター音が静かな玄関に薄く響いた。


「さてと、これで3時間は帰って来ない」

結花はまるで計画通りに事が運んで満足というようような雰囲気で笑みを浮かべた。

靴を脱ぎ、スリッパに履き替える時間を利用して蒼は尋ねた。

「今の人は?」

「住み込み看護師の加納瑞枝さん」

「へぇ……。でも看護師っぽく見えなかったな」

「そう? 女性看護師って意外に男勝りの人多いよ。私の偏見かも知れないけど」

「でも、なんで看護師さんが住み込みで……?」

結花はその質問には答えずに言葉を続けた。

「ついてきて」


蒼は結花にうながされるままに玄関から続く大きな回り階段を昇った。

階段を昇りながらさっきまでいた辺りを見下ろすと、自分の靴がはるか下に見えた。2階に上がると続く長い廊下を歩き、ひとつの部屋の前で止まると、そこにはダークブラウンの重厚感のある木製ドアがあった。

結花はそのドアノブをひねり、躊躇なく部屋の中へと入った。蒼も続く。

広い室内には天井まで続く木製の書棚、革製と思われる応接セット、その奥に大きな両袖の書斎机があった。机の上にはノートパソコンが1台、モニターが閉じられた状態で置かれていた。

「ここは、お父さんの書斎?」

「そうよ」

結花は質問に答えはしたが、心ここにあらずという様子で、ゆっくりと移動しながらしきりに書棚に目をやっている。何かを探しているようだ。

「あったあった」

ドアを入ったところで立ちすくんでいた蒼は、結花の元へと近づいた。

結花は書棚から1冊の本を抜き取ると蒼に向けて見せた。それは、黄色い表紙の古ぼけた絵本だった。怪訝そうな蒼に対して、結花はという雰囲気で話を続けた。

「こんな難しそうな本ばかりの中に隠したって、すぐに分かるって」

結花は絵本をパラパラとめくった。そして、ページの間にはさまっていたICカードを取り出して見せた。

「これが欲しかったのよ」

結花は絵本だけを書棚に戻し、再び蒼について来るように言った。訳が分からなかったが、蒼はついて行くしかなかった。

部屋を出ると、さらに廊下を奥の方へと進んだ。この家の2階は、どうやら回廊になっているようだ。

階段から一番遠い位置にその部屋はあった。先ほどの書斎とはまったく違うタイプの現代的なドア。特徴的な大きなドアノブは学校にある防音室を思わせた。ドアにはガラスの覗き窓がついていたが、結花が立っているため蒼の位置から中をうかがい知ることは出来なかった。

結花はその覗き窓から中をチラッと確認して、ドア横に設置された赤ランプのともるリーダーにさきほど入手したICカードをかざした。ピッという小さな音とともに赤ランプが消え、代わりに緑のランプが点灯した。

結花はゆっくりとドアのレバーをひねって開けた。ドアはとても分厚く、やはり防音室のように見えた。


室内に入ると結花が言った。

「元々ここは、音楽の練習をするための防音室なんだ」

その言葉を表すように、この部屋では結花の声は一切響かなかった。

部屋の壁際には飾り棚があって、その中にバイオリンが3つ飾られている。反対側の壁際にはグランドピアノ。そして、その奥にはベッドがひとつあり、一人の女性が横たわっていた。口には酸素吸入用のマスクがつけられ、ベッドサイドには医療用と思われる機材の数々。一目でただ眠っているだけでは無いことが分かった。

結花に促されてベッド脇まで来ると、蒼は女性の顔をのぞき込んだ。顔色は悪いものの、その目元や透明な吸入マスクの向こうに見える口元は結花にそっくりだった。

結花が言った。

「双子の妹の風花よ」

そう紹介されても当然のように風花と挨拶を交わすことは叶わない。機械から送り出される酸素の音が二人の間を埋めるように虚しく空間に漂った。


「私たち音楽をやってるのね。私はバイオリンで、風花はピアノ。最初、バイオリンはママが、ピアノはパパが教えてくれたの。風花が元気だった頃は、よく二人でアンサンブルしたんだ。でも、こんなことになっちゃって……」

結花は風花について語るごとに、感情の抑制が利かなくなってきているようだった。しかし、それを振りほどくように努めて明るく言葉を続けた。

「蒼には二人でよくやった曲を演奏して欲しいの。風花が大好きだった曲が耳に届けば、何か反応があるんじゃないかってずっと考えてて。今日、音楽室で蒼の演奏を聞けたのも、神様のはからいかなって思ったんだ」

そう話す結花の目は薄らと潤んでいた。蒼にはこの願いを断れるはずも無かった。


手渡された楽譜をグランドピアノの譜面台に起き、蒼はひとしきり音符を眺めた。自然と音が頭の中に溢れ出し、それとともに指が勝手に宙で動いた。脳内で鳴り渡る曲は蒼が知らないものだったが、影山真一は弾いたことがあるのかも知れないと思った。もっとも、一流のピアニストは初見の楽譜もある程度は弾きこなせると聞いたことがあるのだが。

結花は飾り棚からバイオリンを取り出すと演奏の準備を始めた。やがて、準備が整うと二人はお互いに目で合図を送り、曲の演奏を始めた。

蒼にとっては人生初めてのアンサンブル。一人で演奏したときとはまた違う高揚感を感じた。

結花のバイオリンもなかなかのものだったが、蒼の中の“影山真一”が合わせる形で演奏は進んでいった。そして、フィニッシュ。

結花はバイオリンを手にしたまま、風花の顔をのぞき込みに行った。しかし、風花にはなんの変化も見られなかった。

結花は軽い落胆の表情を見せたが、どこか納得したような感じでもあった。

「私に合わせて演奏してくれてありがとう、蒼」

蒼は静かにグランドピアノの鍵盤に被さる蓋を閉めた。


「風花さんは、なんでこんなことになったの?」

かける言葉に迷いつつも蒼は聞いた。

「ああ……うん。よく分からないんだ。私たち2人、高校からヨーロッパの音楽学校に留学していたの。私はオーストリア、風花はドイツの学校。留学中にパパに呼び戻されて帰国したら、もうこの状態で……。病気なのか事故なのか、どこで何が起きたのかもパパは話してくれないし、ただ風花はこの植物状態のまま一生を過ごすかも知れないとだけ言われて……」

「そうなんだ……」

言葉少なに蒼は相づちを打った。

「この部屋もさっき出て行った瑞枝さんていう看護師さんが管理していて、私は滅多に入れてもらえないの。密かにパパを探って鍵のある場所は突き止めていたから、いつかアンサンブルを聴かせてみたいってずっと思ってたんだ。でも、ダメだったなぁ……」

「役に立てなくて、ごめん……」

「えっ? 蒼が謝ることないよ。でも、私がこのあと風花にしてあげられることが思いつかない……」

してあげられること……か。蒼は考えた。

「あのさ……風花さんに少し触ってもいいかな?」

「えっ?」

結花は蒼にグッと顔を近づけて真顔で言った。

「エッチなことしないよね?」

「し、しないよ! 手を握って、その……励ましたいだけだよ」

まさかの切り返しに自分の顔が紅潮するのが分かり、余計に恥ずかしくなった。

結花は掛け布団の下に手を入れると、風花の右手を優しく取り出した。

「握ってやって」

蒼は結花から渡された風花の右手を握りしめ自分の力を発動した。

しかし、何事も起こることは無かった。風花から蒼に流れ込んでくる情報のようなものは一切無く、ただただ深い闇が横たわっているようだった。

手のひらは温かく、柔らかく、生きていることを感じさせるには十分ではあったが、これまで何度となく経験した“人間”にアプローチする感覚は一切得られなかった。植物状態になった人間というのは、このような無残なことになるのかと、蒼は辛い気持ちになった。


「そこで、何をしている!」

突然背後から声がして振り返ると、そこにはスーツ姿の男性が立っていた。

「パパ!? 明日まで出張のはずでしょう?」

結花は驚いたように声を上げた。

「現地の天候悪化で予定を早めて帰国したんだ。それより、これはどういうことだ。彼は誰だ!?」

どうやら結花の父親のようだ。彼は怒りと困惑とが混じり合ったような複雑な表情を浮かべ、早くこの状況を打破したいという強い意思をにじませていた。

「彼は同級生の七瀬蒼君。いつも風花と演奏していた曲のピアノパートを弾いてくれたの」

「あの……お邪魔しています」

父親の剣幕に押されながら蒼は頭を下げた。

「挨拶はいいから、すぐに部屋から出て行ってくれ。結花、この部屋に勝手に入ってはいけないと言い聞かせてあるだろう。そもそも、なぜ部屋に入れたんだ!?」

「ちょっ、ちょっと七瀬君を送ってくるね」

結花は慌てた様子で蒼の手を引っ張ると部屋の外へと連れ出した。そして無言のまま玄関を抜け、蒼を通用口の外まで導いた。

そして、蒼の方に向き直り、作り笑顔で言った。

「ごめんね。今日は帰ってくれる? 明日、ちゃんと説明するから」

蒼の返事を待つことなく通用口は閉められ、結花は家の中へと戻っていった。


[次話へと続く]

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