デュプリケイター 〜Beginning〜

髙園アキラ

第01話 思いがけない聴衆

「まさか、うちの学校にピアニストの影山真一が来るなんてな!」

あおいの右隣を歩く佑輝ゆうきは、やや興奮気味に声を上げた。

「校長先生の同級生だったなんて驚きよね」

左隣を歩く美彩みさも頬を紅潮させている。

蒼にとって2人は小学校からずっと一緒の幼なじみだ。学力もさして変わらず、今は同じ都立高校に通っている。

「うちにもCDが何枚かあるよ。おふくろが好きでさ」

蒼は言った。

影山真一という人物は、クラシック好きならずともその名を聞くほどの有名なピアニストだ。普段はヨーロッパを拠点に活動しているが、帰国中の多忙なスケジュールの合間を縫って友人である校長を訪ねてきたらしい。とは言っても、どうやら校長が熱心に頼み込んだことで、急遽2時限目をつぶしての臨時リサイタルが実現したようである。

わずか3曲ではあったが、その指先から紡ぎ出される力強くも繊細な音色は、蒼の身体を包み込んで芯から震わせた。それは、かつて味わったことのない高揚感。極められたものに触れたとき時に湧き起こる感動というのは、こういうものなのだなと実感した。

しかし、蒼たちはその夢の時間の余韻に浸ることは許されず、担任教師のおつかいで職員室までプリントを取りに向かっている途中なのだった。


指示された職員室への扉まであと数メートルに迫ったとき、隣の校長室の扉が突然開いた。そして、中から校長と影山真一が出てきたのである。

「わあ!」

美彩が声を上げた。

その声に反応して校長と影山は3人に目を向けた。

「感動したっすピアノ! 最高でした!!」

佑輝のこういう時の反射神経は芸術的ですらある。

「私も感動しました!」

美彩も抜け目なく後に続く。

「ありがとう」

影山真一は優しい声とともに微笑んだ。

「君たち、折角だから握手でもしてもらいなさい」

校長に促されるままに佑輝、美彩が握手をしてもらった。そして、蒼の番になった時、佑輝が言った。

「影山さん、蒼の手には気をつけて下さいね。こいつ、やたら静電気持ってるんで」

「あはは、まさかこんな夏の時期にかい?」

「いや、ホントなんですって。商売道具の手に何かあったら大変ですから」

「大丈夫だよ」

影山は笑顔で蒼と握手を交わした。その瞬間、ほんの少し影山の表情が歪んだ。

「すみません。電気……流れましたよね?」

蒼は影山に尋ねた。

「いやいや、大丈夫。でも、君すごいね。前世はデンキウナギか何かかな?」

影山は何事も無かったように校長とともに昇降口の方へと向かった。

蒼は彼らの姿が見えなくなってから、影山真一と握手した自分の手のひらを眺め、ほんの少し微笑んだ。


——放課後

蒼は周囲を確認しながら音楽室へとやって来た。静かに扉を開けて中に入ると、グランドピアノの前に立ち、「屋根」と呼ばれる蓋を持ち上げ、開いたままになるように支え棒で固定した。そして、周囲を今一度確認してから椅子に腰掛けると静かに鍵盤の蓋を開いた。ずらりと並んだ鍵盤があらわになり、暮れかけた太陽の光を浴びてオレンジ色に輝いた。

右手でポロンと軽くCのコードを鳴らしてみた。小さな音色は人気ひとけなく静まりかえった音楽室の防音壁にゆっくりと染みこんでいった。

蒼はひとつ大きなため息をつくと、ゆっくりと鍵盤に指をはわせて曲を奏で始めた。影山が今日弾いたショパンの『別れの曲』である。


蒼は自分で曲を弾きながら、その音に引き込まれていくのを感じた。確かに自分の指先から発せられる音ではあったが、それは自分が奏でている音では無かった。

こんなにも感動的なのか。一流のピアニストの音を間近で聴くというのは……。

蒼はそんなことを考えながらも夢中になって弾き続けた。

鍵盤を叩く指、ペダルを踏む足、自分の手足ではあるがそれは自分ではない。

頭だけは1人の聴衆である自分。蒼は目を閉じて演奏に酔いしれた。

早く遅く、弱く強く、流れるように鍵盤を叩き続けること数分、曲は周囲の空間に染み入るような余韻を残して終わった。

蒼はおこがましくも曲としての難易度はさほど高くはないなと思ったが、軽い疲労感を感じて大きく深呼吸した。


その時、ふいに拍手の音がして蒼の心臓は止まりそうになった。

音のした方向を見ると、ひとりの女子生徒がこちらを向いて立っていた。それは、同じ学年の沢渡結花さわたりゆうかだった。

「七瀬君、ピアノなんて弾けたんだ。しかも、プロ並じゃない!」

蒼は演奏を見られたショックで、ただ、結花を凝視することしか出来なかった。

「でも、勝手にピアノを弾くのはルール違反よ。先生じゃなくて、私に見つかったのを感謝すべきだわ」

「ごめん……」

蒼はそう答えるのが精一杯だった。

「ねぇ。折角だから、駅まで一緒に帰らない? 吹奏楽部の仕事で居残っていたんだけど、ボディーガードしてくれると心強いなぁ」

「ボディーガードって……」

「ピアノを無断で弾いたことの口止め料ね」

そう言うと、結花はイタズラっぽい顔で笑った。


結局、蒼は音楽室を整頓した後、下駄箱で結花が出てくるのを待つ羽目になった。夏の陽は高い。外はまだボディーガードなんて必要な暗さではなかった。

それよりも……困ったことになった。結花は確か美彩とも仲が良かったはずだ。幼なじみの美彩は蒼について大抵のことは知っている。もちろん、ピアノを習ったことなんて無いことも。


蒼には子供の頃から変わった力があった。正確には“ある出来事”をきっかけに身につけた力だった。それは、触れた相手の能力を瞬時に自分のものとする力。能力をコピーする力とでも言うべきか。ただし、すべての能力をコピーできる訳ではない。

例えば、ウェイトリフティングの選手の能力をコピーしても、持ち上げられる重量は自分の筋力の限界まで。フォームやコツなどはコピーできても、身体はあくまで蒼のままだからだ。


蒼は幼いときから、自分のこの能力に気付いていた。小学校1年生の時に連れて行かれたスイミングスクールではコーチの能力をコピーして、一瞬で泳げるようになって見せた。もちろん、筋力は小学校一年生のそれなので、コーチほど速くは泳げなかった。それでも、神童と持ち上げられた。

そんな能力を持っていることについて、最初は蒼自身も気を良くしていたのだが、徐々に考えが変わっていった。コピーした能力が基本的には一過性のものに過ぎなかったからだ。

習わずとも四泳法で泳げた者が、1週間後にはカナヅチになる。能力はコピーした直後が最も強く、徐々に弱まっていく。弱まるまでの間に繰り返し反復することで多少は自分のものにすることは出来るのだが、コピー主の能力はやがて消えてしまう。また改めてコピーすれば良いのだが、なんの努力もせずに他人の能力を借り受けることにもだんだんと罪悪感を感じるようになっていったのである。


今日は魔が差したとでも言おうか……。ピアニスト影山の素晴らしい演奏を自分のものにしてみたいという欲望が自制心を上回ってしまった。

ただ単に触れるだけでは相手の能力をコピーすることはできない。意識的にコピーしようと思う必要がある。頭の中か自分の身体のどこかにそのコピースイッチがあって、影山と握手した瞬間に蒼は自分の意思でそのスイッチを入れたのだ。

少しだけ間近で演奏を聴ければ良かった。

でもまさか、予期せぬ聴衆がいたとは。大失敗だ……。蒼の心は後悔の念でいっぱいになっていた。


[次話へと続く]

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