螺鈿のイルカは夢を見る

 誰かにつんと背を押されて海の底へ沈んでいく。不思議と呼吸は苦しくない。冷たい水の心地よさと海からする不思議な音。誘われるまま深く深く潜っていくと、やがて光が見えてきた。建物のようだ。

「いらっしゃい」

 海底のレストランだという。穏やかにそう声をかけてきた店主は真っ黒な靄で、それでも足は八本ほどありそうな蛸の形状をしていた。

「海の底だから火を使うものはないんだ」

 焼き魚はありますか、などとバカな質問をして苦笑をもらった後、おすすめだという死んだクラゲとワカメの和え物をいただくことにした。

 不思議な場所だ。海底なのに息ができる。客は様々、魚もヒトもあるらしい。外から見れば藻に覆われた白く四角い洋風の建物だったが、中は和風レストランを模しているのも奇妙で、それでいて妙に自然でもあった。

「ごゆっくりどうぞ」

 座敷の間を縫って貝砂利の通路を行く店員は墨を纏ったヒトの形。窓に面した席、格子の外を覗けば大きな鯨がのっそり通る。鯨を囲むのは銀色の魚の群れ。少し遠くにはピンクや黄色の美しい珊瑚。空のように澄みきった青が不思議にゆらゆら揺れている。やはり何の間違いもなく海底だ。かくいう自分も時おりぶくぶくと口からあぶくを吐いてはいるけれど、少しも息は苦しくない。

「海は好きかい?」

  カウンターから蛸の店主が声をかける。こちらも墨を纏ったように真っ黒な靄の形状だが、さっぱりした気性のようでつい好感を持った。

「ええ、休みの日はよく砂浜を歩きます。意外と良い落とし物があったりして」

「上の方もここと同じなんだねえ」

 私はビーチコーミングもどきが趣味だった。本格的なものではない。ただふらふら海岸を歩いて、気になったものがあれば拾い上げる。昨日はひとつ貝殻作りの何かを拾って土産にした。そう話すと彼は「同じ同じ」と声をあげて笑ってくれる。言うにはここで働くヒトやモノは皆思い立って海に沈んでみた、海の落とし物ばかりなのだそうだ。そうしてヒトでもモノでも、気に入った落とし物はこのレストランで働かせているらしい。

「で、今度はあんたが海の落とし物になったってわけだ」

「ああ、いや」

「違うのかい」

 少しトーンを落とした蛸店主の考えていることがわかって、私はつい頭を振る。私は恐らく死んではいない。これはきっと、たぶん。

「夢を見まして」

「夢?」

「ええ、寝るときに見る夢」

 一瞬だけ、変な間があった。

「へえー! じゃあアンタ生きてるのか!」

 蛸店主が目を開いたのだろう、ぎょろりとした金色の目が真っ黒の靄の中に浮かび上がる。一瞬ぎょっとしたがしかし嘘偽りなく私は生者だし、これが夢であることもわかっている。何より私の背をつんと押したいたずら者の正体も。だからそう恐れることなどもない。

 目の前に真っ黒の触手が伸びてこようとも。

「生きたヒトっていうのはこうもつやつやしてるんだねえ」

 蛸らしく長い手だ。店主は物珍しそうにその不思議な真っ黒の靄で私の腕をぎゅっと掴む。海の中には似つかわしくない生暖かさに背筋がぞわっとしたが、しかしすぐに悪意のないものと分かって息を吐いた。

「あのイルカによろしくな」


 キャキャキャとはしゃいだような声がして目が覚めた。枕元には昨日海岸で拾ったイルカの螺鈿細工が虹色に輝いている。

「別れの挨拶がしたかったのかな」

 昨日のビーチコーミングのお土産だ。元はキーホルダーか何かだったのか、それとももっと良いものか。キーリングをとうに失くし藻で真っ黒だったこの螺鈿細工は、案外長い旅をしてきたのかもしれない。

「一緒に行くかい?」

 外は初夏の陽気で、海に行くにはよい日和だった。

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