金柑の木

 夏のまだやけに明るい十八時の、実家の庭だったように思う。とっくに夕食の時間だというのにまだ明るいからと遊んでいる私を見かねて、祖父が連れ戻しにやって来た。

 当時の我が家の庭は生えるに任せた植木の伸び盛りで鬱蒼としていて、人家でありながら森めいてもいたから、近所の子供たちが勝手に侵入してきては私と秘密の友達になっていくことも多かった。

 その日も確か、どこかから入り込んできた友達と虫を捕ったり、採った草花を麦わら帽子一杯に詰め込んだりしていたように思う。当時は今と違って日差しもまだ柔かったから、額に汗をかくくらいで済んでいた。

「ええか、◯◯ちゃん、こういう日は気を付けなあかんねんで」

  金柑の木の下。夕暮れの中に長く伸びる影。爽やかな匂いと蝉のじわじわ鳴く声が細く弱くなる中、友達と私の前にぬっと現れて、祖父はそう諭すように言った。

「いつもとちゃうやろう」

「うん。いつもとちゃう」

 ただ興が乗って、夕食の時間になっても戻る気がしなかっだけのこと。それなのに何が違うのか。私もどうしてそう答えたかわからない。答えながらも不思議がる私に祖父はにかっと笑って頭をぽんぽんと撫でた。地に落ちた麦わら帽子を拾いながら、でも中に詰めた宝物はそっと扱いながら私の手を引き玄関へ向かう。

「そうやな。そういう日は、自分もいつもとちゃうんやってことをしっかりわかっとかなあかん」

「そうなん?」

「うん。ほんで、……誰と遊んでた?」

「うーん。分からへん」

「ほら見い」

 知らない友達と遊ぶのはいつものことなのに。それでも祖父は勝ち誇ったような顔をするものだから、私は何となく不思議になって、それでもおじいちゃんの言うことだからとやっぱり何となく納得した。

 玄関口まで戻ると、さっきまで弱かったはずの蝉の声がしっかり聞こえるようになっていて、あれだけ晴れていたはずなのに夕立の匂いがし始めていた。


「あんたどこ行っとったん、そろそろごはんにするで」

「庭、庭。ちょっと見ててん」

「面白いもんもないやろ」

 久方ぶりに帰省した私に母はからから笑って、食卓の上にあれこれ並べてくれる。もうそろ油ものも食べられない年齢なのだがそれでも一人娘にあれこれしたいのか、唐揚げだのサラダだのが大皿に盛られている。たぶん、食べられない分は持たせてくれるのだろう。

「だいぶ庭すっきりしたなって」

 席につきながら私は庭の方をちらと振り返る。食卓の窓からわずかに覗く植栽が夏の夕日に映える。幼い頃は森のようにさえ感じたが実際大人になるとそんなこともなく、きちんと庭の大きさに収まっている。金柑の木も変わらず元気に植わっていて空に枝葉を伸ばしていた。

「あんなもんやったよ」

「そうなん?」

「そう。まあ、あんたは一回迷子になったみたいやしなあ」

「おじいちゃんに連れ戻してもらったんやんね。よその子と遊んでて」

 母は一瞬目を丸くして、苦笑いをする。「小さかったから覚えてないんやねえ」。えっ、と驚く間に母はいただきますを済ませて「一人で機嫌よう遊んでたよ」と続けた。

「え。知らん子がよう入ってきてたよ」

「あはは。塀で囲ってるのにどないして入んのよ」

「でも」

「まあ、でも庭にないような花とか季節外れのどんぐりとかはよう麦わら帽子いっぱいにして帰ってきてたなあ……」

 母は呑気にそれだけ答えて私にも箸を勧める。ガンガンにしたエアコンの音が響く中で元気を取り戻した蝉の声がわずかにして、そうしてすぐにやんだ。もう一度ちらと外を見る。まだ暮れきっていない日が、やはり小さくなった庭をオレンジに照らしている。

「おじいちゃんに後で線香も上げときや」

「うん、……そないしとくわ」

 金柑の匂いがわずかに鼻をついたような気がして、私は不思議をそのまま飲み込んだ。

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