(91) エゴイスト?
映画『エゴイスト』鈴木亮平×宮沢氷魚、愛とはエゴなのか?
来年2月10日、上記の映画が公開されます、現在、東京国際映画祭のコンペに選出され、前評判もいいようです。高山真の自伝的小説が原作とのこと、楽しみです。
何が言いたいかというと、今ヶ瀬はかなりのエゴイストだということ。
ラスト付近、恭一に「一緒に暮らそう」と言われて消えてしまうのは、愛の重みに耐えられず、とか解釈してましたが、最近、思うのです。単に恭一が自分の思い通りにならなかったからじゃないのか、と。
今ヶ瀬は「じゃあ、彼女と別れてください」
と言い、恭一が「明日、別れる」と口にすると、ウソだ、らしくない、と、恭一の考えに賛同できない様子。
「おまえは何なわけ?」
と恭一が口走るのも当然です。
今ヶ瀬にしたら、今まで通り、たまきの目を盗んで恭一と会う、灰皿やタバコを見せつけて、たまきを翻弄しながら、しっぽは出さない。恭一が結婚しても、気ままな関係を続けたい、それがいちばん気楽だから。
そんなところでしょうか。
夫婦のように一緒に暮らすのは窮屈?
とにかく、自分の思い通りにしたい?
今ヶ瀬の面倒なところ。勝手気ままで、でも恭一は自分のものにしておきたい、それでいて縛られるのはイヤ。
失恋すると、人は悲しみます。くやしい気持ちもあります。それってつまり、相手が自分の思うようにならなかったからではないか、と誰かが言いました。
時々、自分を振った女性に危害を加え、自殺しちゃう男がいます。それもこのケースかな、相手が思い通りにならなかったから悔しくて犯行に及ぶ。
まさにエゴイストなのですが、そもそも愛はエゴ。
「俺はお前を愛してる。それがお前と何の関係がある?」
「愛してるなんて言うな、迷惑だ」
これらのセリフは、愛がエゴイズムに過ぎないと言っているみたいです。
愛していたら、その相手と何らかの関係を持ちたいはず、とは単なる思い込みなのか。愛することは、その対象にとって負担なのか?
この上なく愛し合っているカップルでさえ、互いに理想の相手という幻想を抱きあっているだけ?
同居を言いだした恭一がうっとうしくて、今ヶ瀬は出て行きました、「これだけは置いてほしい」灰皿さえ捨てて。
でも結局、他の男と寝ることが出来ず泣き崩れるのです。
気ままに生きたい、という建前より、恭一が恋しいという本音が勝ってしまったのでしょうか。
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