(75)受け入れるまでの物語
本作について監督は、「一人の男が一人の男を受け入れるまでの物語」と言っています。
既婚者であり、ヘテロというセクシャリティに疑いの余地がなかったはずの恭一が、紆余曲折を経て今ヶ瀬を選ぶ。
「メーキングラブ」のザックもそうだったけど、何か満たされない自分を、恭一も持て余していたのかと想像します。不倫はしてるけど、表面的には妻とうまくいってるし、仕事も順調、なのに何かが足りない。
すべての人間がそうなのかもしれません。それなりに楽しく過ごしているのに満たされない、虚しい。漠然とした不安。
そんな気持ちでいる所に、闖入者が現れたりするんですよね。
恭一は、いろいろな女とつきあい、彼女たちはみな魅力的。なのに結局うまくいかず、同性の今ヶ瀬が例外的な相手だと気づく。
と解釈するとですね。
一部のヘテロ男性が本作を嫌悪するのは、自分もそうなったらどうしよう、そうなっては困る、という恐怖ゆえではないかと、ふと思うのです。
あれだけ魅力的な女性が次々現れたのに、ダメだった。結局、男に走るというか「一緒に暮らそう」と言ってしまう恭一。絶対にああなりたくない、なっては困る、なったらどうしよう?
そんなこと現実に有り得ないはずなのに、恭一と今ヶ瀬のケースを見せつけられて動揺する。いや、そこまでは気づきたくなくて、気持ち悪いと激怒する、と言った方が正しいでしょうか。
後輩と遊びで関係をもった男性のレビューは忘れられません。
途中で後輩が本気だと知って葛藤したと。結局、関係を絶って、今は結婚しているそうですが、奥さんに隠れて配信で「窮鼠」を見て、後輩はどうしているのか、もやもやする、とのことでした。
お互いに遊びならよくて、相手が本気だと、なぜマズイのか。その先を考えないといけなくなるから。それは異性間でも同性間でも同じでしょう。楽しくて気持ちいい、だけでは済まなくなるんですね。遊びなら同性と関係できるというのも不思議な気がしますけど。
ともあれ、ヘテロであることにしがみつきたい男性には、「男が男を受け入れる」結末は、恐怖以外の何物でもないでしょう。
人はどうして他者を求めるのか。そして得られた相手が、どうしてこんな人を、となるのが不思議な気がします。
今ヶ瀬が面倒なヤツ、とは皆さん認めるところだと思いますが、二丁目でも「あのコにだけは手を出すな」といわれるタイプだそうで。「重い女」と表現した人もいたし、夏生も「粘着質のゲイ」と。
でも、恭一も相当に始末が悪いタイプ、あのやさしさが曲者です。
代表的なのは、路上でのやりとり。さんざん今ヶ瀬に嫌味を言っておきながら最後は、
「最近どうしてる。元気でやってるか」
脱力です。こんなだから、今ヶ瀬が振り回され、ますます思いきれなくなるんですよ、本当に罪作りです。
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