第7話 ゲジオは蜂蜜がお好き

「汚っ! 洗面所も汚っ!」


顔を洗おうと入ったユニットバスは、明らかに汚れを溜める場所であり、汚れを落とす場所ではなくなっていた。こびりついたカビ、垢、そしてなぜかあるペットボトル。そして詰め替え洗剤の棚に入っていた蜂蜜。蜂でもこんな所に蜜はためないだろうと思いながら、紅は腕まくりをして掃除を開始した。


「ほんと、あんた、なんで、こんな、ことに、なるの!」

バッ、バッバッ

「手旗信号やめて」


鏡を磨いていると背後で手旗信号をしてくるカラスを睨み付ける。反転してよくわからないし、いいから手を動かせと視線だけで伝えると、カラスはいそいそと洗面所の流しをスポンジで擦り始めた。

何とかきれいなジャージのズボンを引きずり出し、それを履いて風呂掃除をし始める紅は、大きなため息を吐きながら、シャワーヘッドで鏡についた泡を洗い流す。


「こんな場所で生活してたら、そりゃ気分も落ちるわ」

「手旗信号やめて」

「あのさ……いや、なんでもない……一応聞くけど、病気とかじゃないよね? 今日、休んだの」


振り返り確認すると、カラスはこくりと頷いた。それはそれでどうなんだと思ったが、まあ、行かない方が良かったのでそれ以上は言わなかった。

こびりついた垢汚れに感情をぶつけていると、背後でゲジゲジが歌を歌うようにニュースを流し始めた。


「W県のショッピングモールで大雨の影響により停電となり、一時は騒然としました」

「それにしても、コイツは一体何なのよ。かしこくてお金になりそうだとは思うけれど」

「ご主人様ぁ~」

「いや、それを隠してアンタが声真似うまい人として、ネットに動画でも上げたらいいんじゃない?」

バッバッバッ

「手旗信号やめて」

「…………」

「ひゃっ! ……ちょっと! 背中に文字書かないで! セクハラで訴えるぞ!」

「手旗信号やめて」


突然背中に指先で文字を書かれ、変な声を出してしまった。

紅はジトッと睨み付け、赤くなった頬を誤魔化すように怒りだし、シャワーの水をカラスに向けた。

口を開けてごぼごぼと溺れるように水が口からあふれ出す。


「歯磨きしてないんでしょ! 立てかけてあった歯ブラシカビ生えてたぞ! ほんと不潔なんだから! 歯が無くなっても知らないからね! ってか歯医者行け! 検査してもらえ!」

『シ・テ・タ』

「カビの生えた歯ブラシで磨き続けるな! 買い替えろ!」

「ごぼごぼごぼ」


カラスが手を上げる。

治療はしてないが痛いらしい。図星を突かれたからだろうか。

紅はまったくとシャワーヘッドを風呂場へ向けると、カラスの口から瞬時に水が消えた。

舌に張り付いたゲジゲジが吸い込んだようで、舌の周りで水が渦を巻いて消えていった。


「は、排水溝のように……」


紅が一言行ってやろうと思ったら、水鉄砲のように水が紅に向けて噴射された。


「ぶはっ」

「やめて」

「……ふ、なるほどね」


びしょびしょになった髪の毛が額に張り付く。ニヒルに笑い、ジロリとカラスを睨み付ける。

カラスは必死に首を横に振るが、関係ない。ゲジゲジの管理者はカラスであり、ゲジゲジへの被害はカラスからの被害なのである。


「いいわ、アンタ、この私とやる気なんだな。スイッチ、入っちゃった」

『ヤ・メ・テ』


シャワーヘッドを戻し、指を鳴らし笑顔で迫る紅に、カラスは精一杯手旗信号で訴える。

カラスの胸倉を掴み引き寄せる。メンチを切り合うように額と額をぶつけ、口の端を掴んだ。

横に引っ張ると歯の奥にいるゲジゲジの目がこちらを向いているのが分かった。


「口、あーってしなさい」


カラスはぶるぶると震えた。虫歯治療を怖がる子供のように、目をぎゅっと閉じてあーと開けた。敵は自分の口内にいるのだと一瞬だけ安心したが、やはり恐怖はある。


「アンタのせいで歯も磨かれないのよ、分かってんの!?」


カラスは目を見開き、キョロキョロと左右を見た。それを見て紅は呆れた目をカラスに向けたが、追及するのはやめておく。

ゲジゲジがいようがいまいが、この歯ブラシはカビる運命だったとしても、問題はそこではない。カラスにくしゃみを浴びせかけられ、ゲジゲジに水をぶっかけられる。こんなにも見事なセールスをされたら、買わないわけにはいかない。


「おんどれ、歯ぁ食いしばれや」


口の中に、かつて酔っ払いに絡まれていた女性を助けた際に、歯のない老人に言われた言葉だった。あまりにも泥酔していたので、相手もせずに女性の手を掴み逃げたのだが、その時の言葉が流暢に口から零れ落ちた。


「おんドれ、ハァくいしばレヤ」

「は?」

「お、おん、おンどれ」


まるで、DJのスクラッチのように、ルルちゃんと紅と男性アナウンサーの声が混ざった、不協和音のような声音で紅の言葉を反芻している。

口を開けたままのカラスも驚いたように目を瞠って自分の口元と紅を交互に見ていた。


「……いや、もしかしたら……虫歯のせいかも」

「モシ、いや、もしかし、かも」


野菜や果物をミキサーで混ぜた時のような、ドロドロとした声は、普段聞きなれない、普通ならありえない声だ。ぞぞ、と肌が粟立つのは人間の声ではないからだ。


「黒川カラス」


紅が人差し指を立て、ゲジゲジに向かって言った。

明らかにリピートアフタミーの言い方で、カラスは眉を吊り上げ、手旗信号で抗議したが、紅はゲジゲジを見続けている。


「くろアワカラす」

「黒川カラス」

「くろかわカラス」

「黒川カラス」

「黒川カラス」

「今の完璧な発音! OKOK、いい昆虫ね~。ほら、ご褒美として蜂蜜あげよう」

『ナ・ン・デ』


先ほど見つけた蜂蜜の蓋を開けて、ゲジゲジの目元に向かって垂らした。最初は目を開いていたが、すぐに閉じてギザギザの口に変化した。

蜂蜜がとろりと口の中のゲジゲジの口の中に垂れると、ゲジゲジの手足が一瞬感電したように震えた。

ぱちり、と、口が目に変わり、赤ん坊が哺乳瓶の乳首を見るような純真無垢な瞳で見つめた。


「黒川カラス!」

「おぉー」

たらりと一滴。

「黒川カラス! 黒川カラス!」

「凄い自己紹介してくれる。友達めちゃくちゃ増えるかもよ」

「黒川カラス!」

『ヤ・メ・テ』

「よーしよしよし」

「よしヨシ」


蜂蜜をカラスの口の中に垂らしながら、掃除を切り上げて紅はゲジゲジに言葉を教えはじめた。


「テ、レ、ビ」

「て・れ・ビ」

「ア、イ、ス」

「ア・イ・ス」


「一石二鳥」

「いっせきにちょう」

「犬も歩けば棒に当たる」

「いぬも歩けばぼうにあたる」


「私はそれから時々先生を訪問するようになった」

「私はそれから時々先生を訪問するようになった」

「行くたびに先生は在宅であった」

「行くたびに先生は在宅であった」


「マジ卍」

「マジ卍」

「インスタ映え」

「インスタ映え」






「七森紅、つまりお前は先生というやつなのだろう?」

「まあ、そうね。先生は敬うべき存在。それを忘れちゃ駄目だぞ」

「肩書きでその人間が評価されるのではない、心が大事だって先生が言っていたが?」

「私の言葉を覚えていてえらいね。ご褒美に蜂蜜をあげよう」

「黒川カラス!」

「その癖なんとかしないとね」


紅は達成感に満たされていた。一から言葉を教え、その生徒が流暢に言葉を操るのを見ると満足感に満たされる。世の親達が感じている幸福を、紅はゲジゲジに感じていた。

掘り起こしたスプーンを一匙、蜂蜜を乗せてカラスの口の中に住み込んでいるゲジゲジに向けて差し出す。

感情が高ぶるとカラスの名前を呼ぶ癖は抜けていないが、まあいいだろう。急に『ご主人さまぁ~にゅう~』などという萌え声が響き渡ることはなくなった。

ゲジゲジが舌に張り付いて一週間。驚くほどのスピードで、ゲジゲジは言葉を理解し、会話をしている。

そして、蜂蜜を一口食べたあの日から、カラスが食べる食べ物や飲み物を横取りすることはなくなった。

だが、歯ブラシだけは何をしても噛み壊してしまうようで、言葉を覚えたゲジゲジによると


「アレは毒」


と、だけ。

おそらく歯磨き粉が嫌なのだろう事が分かり、カラスは歯ブラシだけで歯を磨き始めたが、寝ている時に突然棒が自分にぶつかってきて起こされるので、またそれも噛み壊された。

黒川カラスの家は恐ろしく汚い。何度掃除をしても変化はないが、ゲジゲジだけは違った。


「さて、ノートも持ってきたし、お茶にポテチに蜂蜜。すべてそろってる」


ボールペンをくるりと回し、ノートに滑らせる。

一ページ目に書いたのは『黒川カラスの舌の所在会議その一』


「……そういえば、アンタに名前あるの?」

「名前はまだない」

「じゃあゲジオでいいんじゃない?」

「何故ゲジオ?」

「ゲジゲジみたいだから」

「ゲジオと言われたら自分の事だと思えばいいんだな」

「そゆこと……えーと、ゲジオはなんでカラスの舌に住んでるの? もっといい所あったんじゃないの? っていうか、私は寄生虫の一種だと思っているんだけれど」


紅の用意したノートに、カラスがさらさらと文字を滑らせる。それを見て質問した後、紅は自分の意見を述べた。


「ネットで調べてもゲジオみたいな生き物いないし。背中の部分が目になったり口になるハイブリット生物、いたらニュースになってるはずだからね」

「自分たちの存在は人間に知られてはならないからな」

「どういうこと?」


ぴくり、とボールペンを握る手が震えた。


「寄生虫……たしかにそうだな。自分たちは遥か昔、この星が生まれた時から存在している」

『コ・ワ・イ』

「手旗信号やめて。それってアンタ……ゲジオの種族としての話?」

「自分自身の話だ。自分はずっと土の下にいた」

「この世にいるゲジゲジはゲジオの可能性があったってこと?」

「文字通り土の下だ。お前たち人間が、掘ったりしている場所よりもはるかに深い場所にいる」

「マントルで生活してたの?」

「まんとる?」

「えっと、この、地球の中心の熱い……」

「ああ、そうだな。深くて高温の場所だ。そこで自分たちは生きている」

「……たち……」

「そう。自分達は太古の昔より存在する生き物……先人は尊ぶべきだと教えたな、先生」

「まあ、問題は心だから……」

「え? 夏目漱石?」

「なんで急に理解できないんだよ」


紅はノートをとることをやめ、普通に机に肘をついて話し始めた。

その放置されたノートとペンを引きずり、カラスはノート一ページに『?』と書いて紅に見せた。


「自分たちはそこでずっと生きていた。太古よりずっと昔から。食う事も必要なく、ただ存在していた。それでいいと思っていた。だが、自分の仲間の数名……名前はないはずだから、名ではないか?」

「匹、匹じゃない?」

「それよりも名の方がいいので名と数えさせてもらおう。仲間数名が、地上へ登って行った」

「アンタ以外にも来てるの?」

「時折ある事だ。普通は大人しくしているのだが、好奇心というものなのか分からないが、地上に出て様々な事を見てくる。よく聞いたのは水中での話だった」


場所が場所なら、陸地よりも水中に出る方が早いだろう。

ゲジオのような存在が、地中から海に出て泳ぐ姿を想像する。目をしぱしぱさせてじたばたと泳ごうとしている姿。


「動きが制限されて戻ってくるのが大変だったとよく聞いた。口の中が焼けるような感覚がすると」

「塩水」

「自分の頭がいいと先生は言ってくれたが、それはお前たち人間の影響が大きい。生命が死骸となると、目に見えないエネルギーは空中に行くのではなく、空に上るのでもなく、地球に帰っていく。つまり、自分達に吸い取られる」

「死んだらお星さまになるとかそういうことはなく、重力に従うように落ちると」


なんだか夢がないなあと紅が頬杖をついて相槌を打った。

そのつまらなそうな顔をしているが、目を細めるその表情を見て、カラスは視線を反らした。

声が出せる状態であっても、カラスは何も言わなかった。


「そのエネルギーを食べて自分たちは生きている。何もせずとも生き続けられる」

「羨ましい」

「そんな中でも、地上に行く奴らはいる。それは自分の知っている奴らだった」

「友達だからついてきたってこと? 他のゲジオその二とゲジオその三は?」

「自分は奴らを止めるために来た。生命が命を終えるとエネルギーが自分達に降り注いでくる。大量のエネルギーがあれば、自分たちは更なる進化を遂げるのでは? と、考えていた」

「……なんか、雲行きが怪しくなってきた」

「自分たちは、人間の舌にとりついて、人間を乗っ取る。そして、自分たちは人間の命のエネルギーを糧に、願い事を叶えることができる」

『コ・ワ・イ』


紅はカラスの目を見て頷いた。同意見。私も怖い。手旗信号でもノートでも言ってくれて構わない。何故ならカラスは今、人間の舌にとりついて人間を乗っ取ると豪語する生命体に舌を乗っ取られている。


「それって、どういう……」

「人間に……そうだな、たとえば『雨を降らせてくれ』と願いを込めて言えば、雨が降る」

「すごい」

「そのかわり、人間は死ぬ」

「は?」

「願いに比率するエネルギーが必要なんだ。雨を降らせてくれというのは……空に分厚い雲があれば、寿命半分くらいのエネルギーで済むな」

「割に合わなさすぎるでしょ……ってか、ちょっと、ゲジオ、カラスを使って、何か叶えようとしてるってわけ……?」

「ならば最初からそうしている。自分は、仲間を止めるために来たのだ」

「ゲジオその二とその三?」

「そう、奴らは人間を乗っ取って、人間を全て殺してしまおうと考えている。大量のエネルギーを得て進化するために」


ゲジオはカラスの舌にとりついたまま、紅へ視線を向けた。


「先生、黒川カラスの舌を、もとい命を助けたくば、自分に協力してゲジオその二とその三を止める手伝いをしてほしい」

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