第6話 ゲジオは言葉を覚えはじめる

「なあ、紅の様子おかしくないか……? こ、こんな駄目親父の勘なんて当てにならないかな……? いつもは学校に行く時には、早起きしていたのに、最近は五分遅い……夜更かししているわけでもないのに……へ、変じゃないか……?」

「うーん、確かにそうかもしれないわね。貴方から聞いてみればいいじゃない」

「そっ! そんなことできるわけないだろ!? 娘と会話なんて緊張してマジ心臓が」

「そんな気にする事無いわよ。普通に話せばいいんだから、親子だし、っていうか紅起きてきたわよ、ちょっと聞いてみれば?」

「はうあっ!?」

「な、何、朝から怯えないでよ……」


自室から下りてきた紅はすでに制服に着替えている。

食卓に座り、肩を縮こまらせて新聞を読んでいた父親が、心臓を抑えて仰け反った。

昔倒した不良と同じ反応をされると、紅としてはとても気分が良くない。


「お父さんに何もしてないでしょ」

「じゃあ他の子には何してんのよ?」

「……それは、人それぞれ、受け止め方が違うから」

「めちゃくちゃ濁したわね」


キッチンで手を洗いながら母親が苦笑いをする。

父は胸を抑え、深呼吸をし立ち上がる。

ほんのわずかなサインだが、娘が何か悩みを抱えているのかもしれない。いつもよりも五分遅いと言う事は、学校に行くのが嫌という気持ちが出ている五分なのではないか。


「べっ、紅」

「ん?」

「ちょ、ちょっとお話がありゅから、こっちへ……」

「は、はーい」


ビクビクと猫背で曇った眼鏡を何度もかけ直しながらトイレへといざなう父に、紅は少し戸惑いながらもついて行く。

しっかりとアイロンをかけてあるはずのワイシャツも、何故か父が着ると一気に皴皴になる。枯渇した地面に水をかけてもすぐに干上がる様に、くたびれた父はパリッとしたワイシャツの真っ直ぐさまでも吸い取ってしまうようだ。

一階のトイレの前に立ち、背を丸めた父が入っていくのを見る。

バタン、とトイレのドアが閉まると、


「……紅、お前、何か悩みがあるのか?」

「ううん、別に……まあ、それなりにあるけど、楽しくやってるよ」

「そうか」


悩みのない学生なんていないだろう。勉強、友人関係、恋愛、将来の悩み、家庭環境など様々だ。皆何かしらに悩んでいて、自分だけが特別だとは思わない。

後ろで手を組んでもじもじとトイレのドアに話しかける。

相変わらず、トイレの中から聞こえる声が父とは思えない程ダンディーだ。

腹の底から出されているような低く、人の心に染みわたるような声音。震える事もつっかえる事もなく紡がれる言葉には、人を動かす力がある。


「お前は優しくて強い。故に自分をおろそかにしてしまう所がある。お前は凄い娘だ、野球も勉強も家庭でだって、友達想いで……枚挙にいとまがないほどだ。だからこそ、自分を見誤るな。私に言わなくてもいい。ただ、困ったり傷ついたり悩んでいるならば、信頼できる人間に頼るのも、また強さの一つだ」

「うん」

「こうして朝の貴重な時間をお父さんとの会話に使ってくれる。ありがとう」

「何言ってんの、それはお父さんの方でしょ。ほら、もう出る時間だし」

「むむっ!?」


ガチャ、と扉が開くと、そこには痩せて猫背で頼りないくたびれた男がいた。

紅の父は何故か開けた普通の場所で会っていると頼りないが、トイレの個室に入ると全くの別人になってしまう。

営業の仕事をしている父は、普通に面と向かって売り込みをかけてもなしのつぶてなのだが、トイレの個室に入った父と会話した人とは必ず仕事を成功させるのだ。

窓際ならぬ便所の個室という、何とも悪い場所にいるのだが、紅の父は社内ではなかなかいい扱いを受けているらしい。


「えぇっ!? もうそんな時間!? ま、まずい、は、はやくでなきゃ……!」

「でも、常にトイレにいるんでしょ? だったら別にいつ行っても関係ないんじゃ……」

「ああっ、駄目駄目! 部下がトイレの一番奥の席で待ってくれてるから、行かないとまずいんだよ! 会議にも出ないといけないし」

「いつもどうやって会議してるの?」

「もちろんパソコンで参加してるよ?」


締めたネクタイもねじれているが、何故か直しても直しても戻らないのだ。

それなのに、トイレの個室で写した写真には、まるで別人のように凛々しくなった父親と、真っ直ぐ皴の一つもないネクタイとワイシャツがあるのだ。

バタバタと慌ただしく鞄を持って玄関で靴を履く父親の後ろ姿に、


「……お父さんこそ、何か悩みとかないの……?」

「……トイレにいると……人の闇を……知ってしまうこと……かな……」


玄関の扉を開け、外の眩い光を浴びながら、意味ありげにそう言い残し、父親は仕事に出かけた。

手を振って見送る。どんな場所であろうとも、トイレは闇の場所であるのは変わらないらしい。


「……はぁ」


さて、どうしたものかと、紅は悩みの息を吐き出した。




あの時は、ルルちゃんの声を何とかして防がねばという使命感に駆られて行ったことだが、後の事を考えていなかった。翌日、学校に向かうとニヤニヤした八坂をはじめ、クラスメイトの冷やかし、生暖かい目、何故か絶叫している生徒もいた。


「えーっと? お二人は? 幼馴染? なんですってね?」

「いやー、全然わからなかった」

「男の趣味悪すぎじゃね? ウケる」

「やーん! 紅ちゃんってばあんな、じゃない。ああいうのがタイプだったなんて知らなかったぁん!」


「ち、ちがっ、そうじゃ……」

「じゃあ昨日の事はなんだったの?」


否定したくば真実を述べよと言わんばかりの圧力に、紅は怯み、口を閉じ、教室は新しく生まれた玩具を手に入れた子供のように、ニヤリと笑う気配がした。


「人の噂も七十五日っていうでしょ。それまでの辛抱」

「八坂、アンタも先輩と付き合いだした時、からかわれて大号泣してたじゃない」

「あっ! あれは! 作戦なんですぅ~! あんな風に

被害者ぶったら突っ込んでこれないでしょ。逆にまだ私に絡んでくるような奴は要注意人物。空気読めないお馬鹿さんって事だから」


爪をいじりながら言い放つ八坂の堂々とした姿に、紅は見習うべきかと一瞬思ったが、あんな迷子になった子供が嗚咽交じりで泣き喚くような醜態を晒すのは、人として、高校生としてどうかと思い、踏みとどまった。

カラスをつれて教室から飛び出し、放課後まで戻らなかった紅とカラスに待ち受けていたのは、思春期の同級生からの揶揄いの嵐だった。

机に突っ伏して嘆く紅を、他人事のようにスマホを見つめながら眺める八坂。


「でもまあ、紅も悪いよ。あんな分かりやすく連れ出してさ、こうして囃し立ててくれって言ってるようなもんじゃない? 何があったのか分かんないけど、あの時カラス放っておけばよかったんじゃない?」

「そ、そんなこと……」

「と、いうことは放置できない何か理由があったのね?」

「……こ、個人の情報なので……」

「………………」

「手旗信号やめて」


『リ・カ・イ』と、八坂が手旗信号で返事をしてきた。更に否定するべきだろうか。おそらく、カラスがトイレに行きたがっていて、それを紅が察して連れて行った、というありがちな流れを想像しているのだろう。

これを否定したらさらに次の理由が必要になる。ルルちゃんを抑え込むにはトイレで蓋をするべきかと判断し、紅は口を閉ざした。そして額をまた机にぶつけた。


「クソ~、当事者のアイツ、来てねぇしよぉ~」

「まあ、災難だったけどさ、黒川まで来てたらさらに面倒になってたんじゃない? アイツ、クラスで浮いてたし、逆にいけないって言うか……」

「あぁ~、そっか~」


間延びした返事を続ける紅は、確かにと納得した。

こんなおいしい餌をクラスメイトは放置しておくはずがない。が、カラスに向かっていじれるほどの仲を構築していない。クラスの腫れものに近いカラスに、そんな事をすれば、イジメだの脅しだの、ありもしない冤罪を吹っ掛けられるかもしれない。


――まあ、アイツはそんな事を思うような奴ではないんだけれど。


根暗でクラスメイトとの交流を断絶してきたアイツの問題で、そこには他者の問題はない。普通の生活は息苦しいだろうが、こうした事件が起きると、ああいう関係の薄さは楽……なのかもしれない。


「はぁ~~~~」

「大溜息乙」

「……あのさ、オウムがさ、しゃべりだす可能性ってどれくらいある?」

「何急に」

「いやー、人間の言葉とかよくしゃべるでしょ? アレってさ、どれくらい理解してるのかなって思って」

「さぁ、でも、あれって耳コピしてるだけでしょ? 言葉の意味とか理解してなくって……よく近くにいる人の口癖を真似て、仲良しになろうとしているような感覚だと思うけど……ググろ」

「意思疎通できるかな~」


脈絡もない紅の話に、八坂はスマホをいじり確認する。

今の現状をとりあえず置いておいて、日常に戻りたいがための会話だと思っているのだろうと紅は思う。机に頬を押し付けて、空席をジトッと睨み付ける。

黒川カラスは欠席である。

おそらく、一晩中アニメを見ているわけでも、寝坊したわけでもない。

紅の言いつけを守っているならば。



かくして、黒川カラスは死んでいた。

汚部屋で倒れ込み閉め切った暗い部屋の中で俯せに倒れていた。唯一の光源であるテレビ画面からは男性アナウンサーがすらすらとニュースを読んでいるシーンだけが流れており、異様な雰囲気だったのだが、


「おらっ! 起きろ!」


不良のように靴を脱ぎ、部屋の電気をつける。

カラスの脇腹を軽く蹴る紅にカラスが反応し、もぞもぞと動いて仰向けになる。

口の端から涎を流しながら、ぱかっ、と口が開く。

舌に張り付いたゲジゲジが背中の目を開き、


「おはようございます」

「しゃべった!」


挨拶をしてきた。


「ニュースをお伝えいたします」

「すごいすごい!」

「本日未明、H県H市のマンションで火災がありました。住人二人が重傷を負い、五名が軽傷です。警察は放火と見て捜査を進めています」

「めちゃくちゃ流暢にしゃべる」

「H市の川辺にかわいらしいカルガモの赤ちゃんも巣立ちの時期になりました。近くに住んでいる住民の皆さんも喜んでいます」

「心温まるニュースまで読んでやがる……!」


拳を握りしめて、まるで漫画のモブキャラのようなセリフを吐いてしまった。間抜けな顔して寝ているカラスの口から聞くことのないような丁寧な言葉。完璧な活舌。男性アナウンサーの声は落ち着いていて耳障りもいい。

指を絡ませ、恋する乙女のようなポーズで両膝をついてカラスの口を覗き込む。

よくよく見ると、どこからどう見てもゲジゲジだ。ゲジゲジが器用にカラスの舌にしがみつくように寄生している。

その姿はとても気持ち悪いはずなのに、なんだかいじらしく感じられる。


「……よく見るとかわいいじゃん……というか、声をそのまま話すって事は、昔の動画の、」

「倉庫で謎の死体が、」

「ぶえっくしょい!」


ゲジゲジと共に紅が顔を近づけ、至近距離で話していると、顔におもいきりくしゃみをぶっかけられた。

鼻水と涎と唾を霧吹きのようにかけられ、鼻をごしごしと擦りながら、薄らと目を開けたカラスと目が合う。

寝起きの頭で視界一杯にある紅の顔。その顔に付着している液体。更に、起きた瞬間に自分が何をしていたか思い出すたびに、顔色がどんどん悪くなっていく。


「おはよう」


地獄から挨拶をしているような声が聞こえ、カラスは冷や汗を流し、寝転がったまま、


『オ・ハ・ヨ・ウ』

「手旗信号やめて」

「男性の惨殺死体が発見されました」

「アンタやっぱ言葉分かってるでしょ?」

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