第3話 七森紅はクリームパンを毎日食べている
さすがにそろそろ帰らないといけないと、紅は額の汗を拭って家に向かった。
漫画雑誌を口に突っ込んだ後、カラスからは『新手の拷問か』とメモを渡されたが、それも食べさせた。あのゲジゲジのようなものは素晴らしい。舌にいるのが問題で、掃除機に付着させればとてつもない人気になるだろう。
「商品開発できないかな……あのゲジゲジ量産できないのかな……」
「いらっしゃいませー」
「まあ、相手がカラスだからできた事だけれど……」
「ありがとうございましたー」
一個税込み百五円のクリームパンは、全国で売られている。
どこにでもあるこのパンを、紅は腰に手をあて、大した感慨もなく頬張っていた。
コンビニ前で煙草を吸うような苦々し気な表情で甘い物を食べる紅の後ろ姿を、レジ前の店員がじっと見つめていた。
制服からして、近くの鈴谷高校の生徒であることは間違いない。
チョコレートのような美しい髪の毛。クランベリーのような瑞々しい唇。クルミ色の瞳。そしてフランスパンのようなバットを持つ姿は彫刻のようだ。
「デュフ、デュフ……さながらリンゴ酵母のよう……」
自らの鼻息で眼鏡が曇る。パンパンに膨らんだコンビニ店員敷田は、紅の選んでいるクリームパンを見て更に頬を染め上げ、呼吸を荒くする。
百キロは超えているであろう巨体は、レジを圧迫するほどの肉厚な体を、制服では抑えきれていない。呼吸する度にコンビニ内の室温が上がっていくのを感じる。
「ああ、生イーストで膨らんだ美しいクリームパンを頬張る君のそのクルミのような瞳はさながらデニッシュ生地に包まれた餡子のよう」
「もしもし、警察ですか。同僚が変質者になりましたので対応お願いいたします」
「野々田さん!? また僕捕まえようとしてるの!? やめてください!」
奥から同じコンビニの制服を身にまとった無表情の女性が、電話をしながら無表情のまま敷田を見返す。
「ぼっ、ぼくはただパンへの愛を感じているだけで、決して女子高生に不埒な事をしようなんてことはかけらも、」
「存在自体が変質者です。眼鏡を曇らせるなんて変質者に違いありません」
「ラーメン屋は変質者しかいかないの!?」
「曇り止めを塗る人は一般人です」
「偏見はやめて! 野々田さんは偏見者だよ!」
腰に手を当ててクリームパンを頬張り終えた紅は、コンビニにアイスでも買いにきたかのような気楽な様子で自転車を漕いでいる警察官を見た。
「よいしょと」
「いらっしゃいませー」
帽子を外して軽く仰ぎながらコンビニに入っていく。
紅は視線でそれを追いかけた後、ゴミ箱に袋を押し込んで、買っていたお茶をごくごくと飲み始める。
「逮捕しに来ましたー」
「三日前釈放されたのに!?」
「敷田さん、いい加減変質者から卒業しましょう」
「それはこっちの台詞ですけど!?」
慌てる敷田の腕を軽く掴み、軽く手錠をかけている。
まるでボンレスハムのような手首にしっかりフィットする手錠は、普通のものより一回り大きい。
あの二人が働きだして当たり前の光景になっている。紅は、またこれから数日は、あの太っている方の店員さんはいなくなるのかとぼんやり思う。店長はシフト大変だろうなあ、と、家路に急ぐ。
「うぷっ、食べ過ぎた……」
「紅ってば食欲旺盛だよね、華の女子高生って大体甘い物を食べて主食を減らすっていう生物じゃん? おかしくない?」
「華の女子高生の方がおかしいでしょ。マリーアントワネットかっての」
紅が口に手をあてて俯いている中、八坂はスマホをいじりながら足を組んで座っている。言葉通り、八坂のお弁当はとても小さく、中にはご飯よりも野菜の方が多かった。
黒髪をかき上げ、釣り目と太い眉、薄らとリップを塗ったギャルよりの八坂は、まるでモデルのように細い。白い透き通った肌に薄らと浮かぶ青い血管は、少し健康さを欠いている。
健康的な紅と八坂は相反するようであるが、仲のいい友人である。
紅の言葉に八坂が視線を紅に向ける。大人びた様子で、小さく首を傾げニヒルに笑う。
「パンがなければお菓子を食べればいいって、アレ、高いパンより安い材料で作れるお菓子を食べたら経済的に楽よって意味で、そういうことじゃない」
「お金は確実にスイーツの方が高いもんね。コンビニ弁当の値段とお菓子の値段釣りあってないもんね。エクレア一つの値段がおにぎり三つ買えるもんね」
「あー、鮭おにぎり食べたくなってきたぁ」
「この流れならエクレアなのが女子高生なんだよなぁ~」
どうやら八坂はエクレアを食べたくなっているようで、ぺろりと舌なめずりをしている。
「彼氏に買ってもらえば?」
会話のつなぎとして適当に言葉を投げかけると、突然スマホが発火したかのように放り投げ、そのまま教室のど真ん中で後ろに倒れ込んだ。
思い切り下着も見えているが、八坂は開脚したまま、真っ赤な顔をこちらに向け、
「んな、なななにを、何がが彼氏って、ッホーーーー!」
「……あのさ、付き合って一年も経ってるのに、昨日付き合いだしたみたいな反応もうやめてくれない?」
「そ、ちょ、アニバーサリーの話はしないでよ! またドキドキしてきた……! その日デートあるんだから! あっ、ど、どうしよ、プロポーズされたらどうしよう……!」
「お互い高校生のくせに……」
頬に手を当てて、まるで小学生の女の子のように顔を真っ赤にして、ありもしない妄想を繰り広げている。この八坂、何故か大人っぽくて美人だと有名なのだが、彼氏が絡むと一気に精神年齢が下がり、少女漫画脳になってしまう。
「ど、どうしよう、いますぐ先輩が教室にやってきて、私をつれて結婚式場に駆け込んで、突然指輪を渡してプロポーズなんかされちゃったら、私……退学します!!」
「八坂!?」
突然立ち上がり、拳を握りしめ妄想の先輩に大声で宣言すると、教室の外を歩いていた何も事情を知らぬ理科の先生が、眼鏡をずり落としながら驚きの表情でこちらを見ている。八坂の成績はトップクラスで、いい大学に行けると職員室でももっぱら噂をしているだろうに。
「な、何があった!? 先生に相談して見なさい!」
「先生、世界は愛に満ち溢れているんです! あっ、先輩と私の愛ですが! 愛! ラブ! A! I!」
「進学するべきだぞ八坂! AI技術は高校中退して学ぶのは難しい! 先生は応援する! お前の夢はすばらしい! だがやめるな!」
「もちろん、先輩とお付き合いをやめるわけがありません! ああっ、先輩、早く会いたい……」
はー、と溜息を吐きながら弁当箱を閉じる。
昼休憩ももうすぐ終わるころだろう。だから、理科のくたびれたポロシャツ姿の痩せた先生が廊下を歩いていたのだ。八坂という悪い女に引っかからなければ、さっさと教室についていたというのに。
キョロ、と紅は教室を見渡した。全員が全員教室で昼ご飯を食べているわけではない。グラウンドで食べる者、屋上で食べる者、更に知らないし、知りたくもないけれど、トイレで食べる者もいる。闇すぎるので深く探ろうとは思わないし、更にそこにカラスがいるとは言えないし、言い切れないのだが、現在カラスは教室にいない。
一人暮らしであの汚部屋に住んでいるカラスは、昼ごはんはもっぱら購買で済ませている。
友達もいないカラスが、わざわざ教室に戻り、喧騒の中で一人もくもくと食べる必要はない。
――大丈夫だったのかしら、アイツ……。
更に、舌にあの萌え声発生機がついている。食事中に頬張ろうとするたびに、ルルちゃんの愛らしい声が響くのはいたたまれない。
――友達がいなくて本当に良かった。
もし、紅にあのゲジゲジのようなものがついていたなら、今も八坂と話すことはできなかっただろし、学校で一日を過ごせる自信はない。何かしら人と会話するのが当たり前だからだ。
紅は今日一日はいつも通り、カラスは俯き、根暗に過ごし、また放課後カラスの家で作戦を立てなければならない。
――練習はサボろう。
こんな事、家族が危篤レベルの事件だ。
チャイムが鳴り、生徒たちが教室へ戻りだした。八坂と理科の先生はまだ何か言いあっていたが、お互いに次の授業へ意識が戻り、後ろ髪を引かれるように別れていた。八坂は彼氏のノロケを、先生はおすすめ大学について話したかったようだが、常に人間には時間がない。
「あの先生、いい人だったなぁ、おじさんでも愛が何なのか分かるんだね」
「それはおじさんに失礼でしょ。ってか、愛について話してなかったよ。どっちも話聞いてないし会話をしてるようでできてなかった」
「え? 紅も彼氏ができなくて悲しいって?」
「耳鼻科行け」
着席をすると、数学の先生がやって来た。
きっちりと七三分けにした先生は、小脇に教科書や授業で使う道具を持ちながら、当然のようにカロリーメイトを食べながら入って来た。
「はーい、今日は二十三ページ足す八ページの三十一ページから始めます」
教科書を捲っていると、教室の後ろの扉が控えめに開いた。全員がそちらを見ると、カラスがお腹を摩りながら入って来た。
「黒川君どうしたんだ? 一分足す一分の二分の遅刻ですよ」
カラスはぺこ、と頭を下げた。一言すら言わないのは不自然に思われるだろうが、カラスは常にこんな感じなので
「はい、次は気を付けて。十足す五の出席番号十五番目の黒川君」
ぺこ、と頭を下げ、そそくさと自分の席に戻って行った。
何かあったのだろうかと紅は横目でカラスを見る。が、いつも通り俯いてぼさぼさの髪の毛で表情を隠していて分からない。
とりあえず変な事にはなっていない。教室で突然スマホが鳴り出すように、ルルちゃんの声は聞こえない。
ぐぅ~~~~~
と、思っていたら、突然腹の虫が鳴り出した。
おいおい、誰だと全員が無言で意識を向ける。
ぐぅ~~~~
黒川カラスは机に額を押し付けて俯いた。おいおい、と、紅は額に汗が滲む。
どれだけ恥ずかしい思いをしても、口だけは開いてはならない。
「……七足す八の出席番号十五番の黒川君、この問題を解いてくれませんか?」
そんな日に限って何故か指摘される。これは、数学の先生は決してカラスを陥れようだとか、個人的な恨みがあるわけではない。ただ、なんとなくお腹の音がした方向を見て、そう言えば、問題を生徒に解いてもらおう。そして、視線の先にいたカラスを指名した。ただそれだけのことなのである。
カラスはガタガタッと音を立てて立ち上がる。
「答えは?」
黒板に向かってチョークを向ける先生に、カラスは劇画タッチの画風になりながら、前に出た。
そう、答えを口頭で伝えるよりも、自ら言って書けば声を出さずに済む。
そして、数学の先生は生徒全員が暗算できる、もしくは授業が始まる前に教科書を読んで全ての問題を解いていると思い込んでいるのだ。
紅は教科書を握りしめてカラスを見た。
「おぉ、やる気があるな。七十一足す二十九のやる気百パーセントだな」
これでさっさと答えて席に戻れば、ただの空腹音爆音君としてだけで終われるぞ、と、紅が安堵の息を漏らしていると、黒板の前でチョークを押し付けた後、硬直しているカラスの後ろ姿が見えた。
――ま、まさか……
「あれ、一足す十四の出席番号十五番の黒川君、どうしたの?」
意気揚々と前に出てきたにも関わらず、イコールの先の数字を紡がない出席番号十五番に、訝し気な視線を向ける。
「分からないなら、分からないって言ってくれればいいんだよ」
そう、答えがわからなければ、分からないと言わなければならない。
分からないのに前に出てきてまで挑戦を見せる姿勢はいいぞ。とは、この先生はならないのだ。
ぐぅ~~~~
「お腹、空いてるのかい? お昼ご飯は食べた?」
カラスは首を横に振った。その後、しまったと顔面蒼白になった。
「ありゃ、それはまずいね。頭を使うと言う事はカロリーが必要だ」
胸ポケットからカロリーメイトを取り出し、カラスに差し出す。
昼ご飯を食べていないと言うカラスは、ごくりと生唾を飲んでいる。ぐぅ~~~~と更にお腹が鳴っている。明らかな空腹。求められているカロリーメイト。食欲は喉から腕として出てきそうな雰囲気。
「黒川君はアレルギーはなかったよね。涎が一足す一の二滴出てる」
カラスはバッ、とカロリーメイトを奪い取り、ごくりと唾を飲み込んだ。全校生徒のアレルギーを把握している数学の先生の前で、ビニール袋を破り始めた。
「カッ、黒川……!」
思わず声が漏れるが、カラスはカロリーメイトを睨み付けるように眺めたあと、バッと首と口の筋肉を一瞬だけ爆発させ、一口食べた。
「うにゅ、」
もぐもぐもぐ
ガッ
「ごしゅ、」
もぐもぐ
ガッ
「ルル、」
「……なんか合いの手みたいに女の子の声聞こえない?」
全てを食べ終えた後、カラスは思い切り嚥下したあと、ぷるぷると震え、後ろ向きに倒れた。
「黒川!?」
「えっ、アレルギー!?」
「そんな馬鹿な! 零足す零! ないはず!」
突然倒れたクラスメイトに全員が立ち上がり群がる。
紅は一番に行きたかったが、机と人の壁に阻まれ敵わない。
どうやらカラスは気絶をしたようで、意識を失っている。白目をむいて仰向けに倒れたカラスの口は薄らと開き、涎が口端から垂れている。
「ご主人様ぁ~おなかすきましたぁ~」
数学の授業をしている教室に似つかわしくない萌えアニメ声が響き渡る。
一瞬の静寂の後、
「手旗信号やめて」
紅はクラスメイトを押しのけ、カラスを担いですぐさま教室を後にした。
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