第2話 黒川カラスの部屋はとても汚い
「にゅ~、ご主人様ぁ~」
「つまり、朝起きていたらこうなっていたと」
「ごめんなさぁい! ルル、失敗しちゃいましたぁ~」
「口を開けるとこんな風にしゃべるのだと」
「ぎゅぎゅっと抱きしめてぇ、よしよししてくださぁい」
「ちょっとアンタ黙ってて!」
『僕は何も言ってない』と、抗議する。口を閉じろと開いた口に向かって言う。黒川カラスの部屋は相変わらず汚く、足の踏み場もない。
一応ゴミは分別されていたりいなかったりなのだが、それにしても汚い。ものが多すぎる。
パソコン周りには飲みかけのペットボトルが猫避けのように置かれているし、床にはカップラーメンの入れ物が、一応重ねておいてあるのは成長したと言う事。
申し訳程度にある小さな机と座布団は、学校のプリント、ゴミ袋、焼き鳥の串、練乳、新聞紙、段ボール、目薬、木材、野球のボール、は、紅が持ってきて忘れたものだ。グローブは玄関のすぐ横に置かれていた。それも忘れ物、というか、カラスに運動してほしくて置いているのでそれはいいとしよう。
「……んで、それ、心当たりないの?」
カラスは首を横に振る。
大きなため息を吐く。そりゃそうだ。あったらこんな所でボーっとしていない。
唯一ある座布団に座った紅は、居心地悪そうに座り直す。
窓を開けてカーテンも開けたが、目の前に墓があり、あまりいい気分ではない。そのためにここの家賃も破格の値段らしい。
『歯医者に行こうか迷ってた』
「絶対違うでしょ! 虫歯じゃねーよこれ!」
『最近口臭がひどくて』
「それはいけ!」
というより口臭よりもこの部屋の臭いの方が重要だと思うが、それ以上に重要な事があるので黙って置く。
「……えーっと、その、口の中にいる……ルル? は、その……な、なん……」
「あ~ん、ご主人様ぁ~」
「……会話にならない……どうすればいいの」
『手旗信号でいこう』
「行けるかぁ!」
『ルルは~Love fairy~に登場する幼女メイドさんで、主人公の主が大好きでお嫁さんになりたがっているかわい』
「いい加減にしろ!」
差し出されたメモを握りしめ、汚い部屋に投げ捨てた。紙一枚増えても汚れは変わらないが、紅は投げ捨てたまま固まった後、自分が捨てた紙を拾い上げた。
「んにゅ~」
「腹立つ! この萌え声めちゃくちゃ腹が立つ! っていうかなんでこのゲジゲジがルルちゃんの声……もとい台詞を言っているのかってことよ!」
『昨日一気見したアニメだからじゃない?』
「何一気に見てんだ! 一週間に一話だろ! 大切にアニメを見ろ!」
『制作の方?』
腕を組み紅は考える。このゲジゲジがカラスと同じくルルちゃんをが好きで、ルルちゃんの真似をしているというわけでもないだろう。
「もしかしてだけど、そのゲジゲジはアンタが見てたアニメの声を、ただ真似しているだけのインコみたいなものなんじゃない?」
『そんなわけ(笑)』
「何笑ってんの!」
声に出さずに笑顔を見せるカラスの頬を拳にして押し付ける。決して殴っているわけではない。ぐにぐにと頬を押され、カラスは余裕でお腹に手を当てて紅を指差し笑顔を見せる。
「じゃないと説明つかないでしょ! じゃなきゃ、アニメ好きのアンタが、舌に変なアクセサリーつけて、更に萌えアニメの声を口を開くたびに鳴らせる装置をつけてるって言いふらしてやる!」
『ヤ・メ・テ』
「手旗信号やめて」
カラスに事情聴取を行った所、現在七月に入ったばかり。梅雨真っただ中の現在、日本の湿気は異常である。更にこの安いボロアパート。立地は墓の前で冷気がすさまじいかと思いきや、冬は寒く、夏は暑いというただただ劣悪な環境らしい。
カラスも徹夜でアニメを見続けている中、ぼーっと口を開けてテレビ画面を凝視していた際なのか、それとも学校から帰宅してすぐに昼寝をしていた時なのかは定かではないが、アニメを見る前に、カラスは口を無意識に開けている時間が多くあったということ。
「アニメを見る前、もしくは見ている最中に、その舌にへばりついている物が口に入ってきたに違いない。そして、アンタとは違ってものすごい知能指数の高い」
「がんばるにゃんっ」
「さらに、宿主の好みを理解し、それを繰り返す姑息さ! 多分、これは自分を放り出されないようにする本能!」
「ご主人さまぁ~大好きぃ~」
「多分だけどアンタそのゲジゲジみたいな生き物になるはずよ」
『イ・ヤ・ダ』
「手旗信号やめて」
狭い室内、汚い部屋での手旗信号は埃が舞い上がるだけで意味がない。
何より目の前にいるのだから手旗信号はやめてほしい。
「手旗信号やめて」
『シ・テ・ナ・イ』
「わ、私じゃない」
「手旗信号やめて」
「ちょ、やめて私の声で」
「手旗信号やめて」
「コイツ……!」
おちょくられているようで腹が立つ。紅はカラスの胸倉を掴み威嚇するが、もちろんカラスにはどうすることもできない。必死の形相で首を横に振るだけだ。
紅も怒りをぶつける相手ではないと思い直し、渋々カラスを開放する。
「……はぁ、けど、これで分かった。コイツはめちゃくちゃ頭がいい、っていうか、すぐに吸収する。多分、普通に生活してるだけで色んな人の声の真似をするようになる。ちょっとまずいかもね」
今はアニメ声のアニメの台詞を言っているから、ただ変だと思われるだけだが、これで普通の、カラスが声を発していると思われるような男性の声の変な言葉を放たれたら、社会的にカラスが死ぬ。
「外歩いてて、不良の台詞をコイツが覚えたら面倒なことになる『おいそこの辛気臭ぇの待てよぉ~』とか覚えたら」
『イ・ヤ・ダ』
「手旗信号それしか覚えてないの?」
『テ・バ・タ・シ・ン・ゴ・ウ』
「めちゃくちゃ時間かかる」
その割には中身のない言葉を伝えてきたものだと紅が呆れていると、カラスは大きなため息を吐いた。
「……大丈夫よ、なんとかなるって」
「手旗信号やめて」
「今の所女の声ばっかりだし、アンタが腹話術すごいって話だからさ。っていうかそれとれないの?」
カラスは首を横に振る。まあそうか。歯医者に行く前に確かめていたはずだ。
『気持ち悪くて触れない』
「初歩的なつまずき」
メモ帳に書かれた言葉にがっくりと項垂れる。まあ、自分の舌にあんなものがついていたら、そりゃ触りたくもないかもしれないが、触らずにはいられないだろう。
どうしたものかと顔を上げると、カラスがジッとこちらを見ている。
紅は額に汗が滲みだした。
「いやよ」
『ベ・ニ』
「いや、いや。絶対に嫌。言わないで」
『タ・ノ・ム』
「手旗信号やめて」
「手旗信号やめて」
『どっちが言った?』
「どっちも言った」
「手旗信号やめて」
「……うぁ~、怖いぃ~」
『オ・レ・モ』
「手旗信号やめて」
紅の気持ちを代弁する、カラスの舌にとりついたゲジゲジのようなものを、箸でつまんで剥がすことになった。さすがに指を突っ込む気にはなれず、紅は顔を苦々し気に歪めながら、部屋にあった割り箸を割ってカラスの開いた口に箸を突っ込んだ。
「うぐぐぐ、動かないでよ……」
まるで歯医者のように口を大きく開けたままのカラスは、拳を握りしめて目を閉じている。
突然このゲジゲジが飛び出して紅の顔にとりついたりしないだろうか。
いや、もし自分の舌に引っ越して来たら……
もしそうなったら、間接……
バキッ
「あっ!」
思考を断ち切る様に、ゲジゲジに触れようとした割り箸の先にゲジゲジの目の部分が開き、齧り取られた。
目の部分だというのに、今、鋭利な歯が見えた。
割り箸をもぐもぐと咀嚼した後、また開くとそこには眼球があった。
ジロリと紅を見つめるその眇められた瞳は、そんなものでは自分は屈しないと語っていた。
一つの目と二つの目がぶつかり合い、一瞬の視線の戦いがあった。
「手旗信号やめて」
「……コイツ……」
『ナ・ニ』
紅が眉間に皺を寄せ、神妙な顔をして、残った割り箸を口の中に放り投げる。
バリバリという音が聞こえ、カラスは恐怖を覚えた。
紅はその音を、まるで拳の骨を鳴らし威嚇する不良を見つめるように冷えた視線で眺めた。
『ナ・ニ』
「……よし、やるか」
『ナ・ニ』
手を動かすカラスに背を向け、紅は部屋に転がっていたペットボトルをカラスの口に押し込んだ。
「利用できるものはなんでも利用しとかないとね」
最強のゴミ箱が手に入ったと言わんばかりにゴミを口に突っ込もうとする紅に、カラスが驚愕した顔で後ずさった。
『ヤ・メ・テ』
「手旗信号やめて」
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