第1話 七森紅は野球少女である

路地裏ではいつも喧嘩が行われている。

いや、違う。喧嘩ではなく暴力行為だ。人目につかない場所で起きる出来事は、常に薄暗いものだ。

壁に激突した学ランは、隣の町の不良高校のものだった。

噂話はいつも適当で空虚で真実がほとんど剥がれ落ちてしまっているものだけれど、紅は不良高校という汚名はただの真実だと知っている。


「クソ! テメェ何しやがる!」

「それはこっちの台詞。うちの生徒カツアゲしてんじゃねーよ」

「友達から金借りてるだけだろーが! なあ!?」

「あっ、あっ」

「だったらこんなカビ臭い場所じゃなくて、ファミレスだの公園だの先生の前で借りればいいだろ」

「お前、鈴谷高のソフトボール部の奴だろ! 新聞で見たぞ! こんな事して、ただで済むと思ってんのか!」


鼻血を出したリーダー格の男に肩を貸しながら、最後っ屁のようにそう叫ぶ。

紅はわざとらしく肩を竦め、カツアゲされていたオカッパ頭の小さな男子生徒に視線を向ける。


「こんな奴でも新聞読むんだね」

「あっ、はい、以外ですね」

「何普通に話してんだ弱虫野郎が! 俺達が軽く絡んだら泣きそうになってたくせしやがって!」

「やっぱり友達じゃねーんじゃねーか!」


紅は叫び、持っていたバットを思い切り振りかぶりもう一人の男子生徒の顎にヒットさせた。

ぐらん、と目を回して倒れる男に、鼻血を手で押さえながら紅を見る巨漢の男が叫んだ。


「お前……! 本当にチクるからな! 大会に出られなくなっても知らねーぞ!」

「別に、好きにすりゃいい。大会出なかったら、ただの充実した休日を送るまでよ」

「は!? 部活に青春捧げてんじゃねーのか!?」

「ははっ! 夢見すぎ。県大会だの優勝だのしてるチーム全員が、人生賭けてると思ったら大間違い。私はどうでもいいの。部活をしようがしまいがやめようが大会に出られなくなっても、なーんにも関係ない。……ただ」


バットを肩に軽くぶつけ、スカートのポケットに手を突っ込んだまま男に近づく。

笑顔は消え、真顔で自分よりもはるかに大きな男を見下す紅は、どうでもいいという目をしていた。


「私の目の前で、くだらねーことしてる奴らを見逃すのは、どうでもよくないんだわ」





「あっ、ありがとうございます! おかげで助かりました……!」

「いーってことよ! それより次、あんな事あったらすぐに逃げるんだよ」

「はい! これから親と先生に報告します! 七森さんの雄姿も僕の文学的才能を持って抒情的に話して、落涙させて見せます!」

「いや、待って。話聞いてた? チクられたら大会出られなくなるっつーか部活も終わりなんだけど」

「え? でもどうでもいいって……」

「いいのはいいけど、おま、文学的才能無さすぎじゃない!?」

「ええ!?」


まあ、文学的才能と空気や行間が読めるというのはまた違った話かと、口止めをして開放したオカッパの彼に手を振って別れた紅は思った。

さて、と、バットカバーをつけ、バットケースに入れ直し背負う。チェックの赤いスカートを翻し、細くて暴力にうってつけの裏道から出た紅は、駅前の高架下を通って住宅街へ入る。

スマホを取り出して時間を見る。現在四時。


「せっかく練習サボったのに、こんなことになろうとは」


駅前でウィンドウショッピングやら、パンケーキやタピオカなど、美味しくてかわいい物をと思っていたのに。女子力を充填するどころか、更なる暴力性をはぐくんでしまった。

適当にインスタのタイムラインを眺めたあと、スマホを閉まった。


「これで部活動に影響出たらさすがに怒られるな」


困ったように頬を掻く。

紅自身はどうでもいいと思っていても、部員たちはそうとは思っていない。

大会に出る事、ソフトボールを愛しているもの、ダイエットに勤しむもの、野球部とソフトボール部ってお似合いじゃない? という理由で入って来た者からバッシングを受けるだろう。

今日はついていない日だ、こんな日はまっすぐ家に帰ろう。

思い立ったが即行動。紅は大股で自分の家の方向へ足を向けた。


「ムムッ」


額に手を当て、目を凝らしてよく見る。

進行方向の道の上に、見慣れた丸い背中がある。

辛気臭いブレザーの上着はよれよれで、手入れが行き届いていない。短く切りそろえたのはいつの事か分からない、ボサボサの髪の毛は毛先があっちこっちに飛び跳ねている。

学生鞄は高いからと、リュックを背負っている背中には見覚えしかない。


「カラ!」


昔はカラちゃんなんてかわいらしく呼んでいたけれど、年齢が上がるたびにそうも言ってられないなと、お互いに気づいた。

適度な距離感で、適度な関係で、それでいいと思っている。

けれど、カラスはそう言っていられないのでは、と紅は思う。

同学年で幼馴染で同じクラス。だと言うのに、話すのはこうして帰り道、学校とは別の場所に限っている。

それは、振り返ったカラスの表情を見ると一目瞭然だ。


「まーた、すんごい隈じゃん。不健康極まれり、って感じだね」


駆け寄って笑いかける。背は紅よりも高いはずなのに、猫背のせいで顔は同じ高さにある。

どんよりとした目の下の隈と、垂れた重たげな瞼は寝不足で腫れている。


「徹夜でアニメかゲームしてたんでしょ? いい加減にしなよ。そんな時間あれば良質な睡眠と良質な身だしなみチェックの時間をだね」


目を閉じてくどくどと、腕を組み小言をわざとらしく言う。

あれ、と、片目をちらりと開けた。いつもならこのあたりで一言「余計なお世話だよ」「世界を救ってたんだ」「社会勉強してたんだ」などと返事をしてくるのだが、それがない。


「喉枯れてんじゃない? アンタ、今日一言もしゃべってなかったもんね。せめて出席取るときくらいは返事できないと。全席埋まってるのに欠席扱いになったら元も子もないでしょ」


更に小言で追撃しても返事がない。

あれ、と両目を開ける。目の前にある表情をよく見る。前髪で隠れて目元は分かりにくいが、鼻がひくひくと動いている。口はもごもごと入れ歯のないおばあちゃんのような動きをしていて、リュックサックの紐を握りしめ、両足はぴたりと動きを止めている。


「……どう、したの」


トイレを我慢しているならば、足は動く。泣き出しそうなら顔は俯く。

言いたいことがあるなら言えばいいのに言わない。鼻が動いているのは動揺している時の癖だ。

紅はごくりと唾を飲み込んだ。口元に引き攣った笑みを浮かべ、カラスを観察する。

何かあったことは明白だ。それを伝えようとしているのか、それとも黙っていたいのか。

私はどうすればいいのか、一瞬にして脳裏に様々な事が巡った。

カラスは紅から視線を反らし、また向ける。

後ろめたいことがあるが、言いたくないが、言わなければならないというような。


「……何、もしかして、カツアゲにでもあったの? どこの誰? 今さ、偶然なんだけど、カツアゲされてた子を助けてきたんだよね。ついでに私がやってあげようじゃないの!」


得意げにバットケースを見せつけるが、カラスの反応はいまいちだった。

なしのつぶてだと、笑顔をやめて真剣な顔でカラスを見る。

それでもカラスは何も言わない。視線を向けたり逸らしたり。


「言ってくれないと分かんないじゃん」


責めたいが責めない様に、馬鹿にするわけじゃないけれど、少しおどけたような言い方で。

ハッ、とカラスは柏手を打った。そして、リュックサックを地面におろして、中身を物色し始める。


「何? 何何何」


中身はぐしゃぐしゃで、高校二年になったばかりだと言うのに、教科書はボロボロだった。勉強熱心だからではない。机の中が汚いせいだ。

整理整頓も苦手で、一人暮らしの部屋も汚いものだった。ドン引きしながら掃除を手伝っても、また数日家に入ると同じくらい汚くなっている。

雪国の雪かきは自分の生活と命を守るためだが、この汚さを除去しても意味がないと紅は悟り、快適な環境をカラスにあげるための掃除はやめた。

病気にならない程度の汚さは目を瞑ろうと思ったのだが、リュックの中もその部屋の片鱗が見える。


「なんで生のキウイが入ってんの!? 馬鹿じゃないの!? あっ、スマホかと思ったらリモコンじゃん! 意味のない国語辞典は持ち歩くんじゃねぇ! リュックが死ぬだろ!」


ツッコミ続けていると、お目当てのものをようやく出したカラスは、パァァと表情が明るくなった。なんてことはない、ただのメモ帳とボールペンだった。


「アンタ……それを見つけるために五分もリュック漁ってたの……?」


呆れながら尋ねるが、カラスはさっさとメモ帳にペンを走らせていた。

何だ? 口では言いづらいから文字でってこと?

こんな目の前にいるのに、何がそんなに言いにくいのか。


――……まさかね。


一瞬、淡い青春の炎が燃えたが、すぐに鎮火した。

ラブレターだの告白だの、そんな甘ったるい雰囲気ではない。それよりももっと恐ろしい事なのだろう。


――もしかして、盗聴器がしかけられているとか?


だからこんなにも警戒しているのだろうか。

突拍子もない事を想像した紅だが、改めて考える。いや、もしかしたら、最悪あり得るかもしれない。

ただの根暗な高校二年生男子の黒川カラスに、盗聴器をつけなければならない事態は、起こりうる。


『今日は部活休み?』

「世間話かよ! ふざけんな! さっさとしゃべれや!」


散々待たされた挙句、ミミズのような汚い文字で中身のない会話を始められた紅は、思い切り胸倉を掴んで揺すった。鬼のような形相で迫りくる紅に、カラスはがくがくと揺さぶられながらもメモに文字を書きこんでいく。


『どどぅろ~したの~ーー~カバンの中でバナナでもつぶれた?』

「それお前だろ! つかこの匂いやっぱお前か! 急に芳醇な南国の甘い匂いしてきたと思ったら!」

『~Love fairy~』

「揺れを利用して筆記体でアニメのタイトルを書くな! このっ、いいかげんしゃべらんかい!」


ふてぶてしいメモの汚い文字の羅列は、黒川カラスの人間性が全て写されていた。この男、学校では引っ込み思案で言葉も発さず、根暗で腫れもの扱いなのだが、幼馴染でガサツで男勝りな紅に対しては、簡単に雑なコミュニケーションをとる。

ならばこちらも実力行使と行こうじゃないかと、カラスの口を掴み、頬を掴み、唇を摘まみ上げ開かせる。

途端に、カラスは目を見開いて暴れだした。両手をばたつかせ、紅を殴ったりはしてこないが、全身で「やめてくれ」と表現している。


「手旗信号で会話しようとするな!」


よく見ると『ヤ・メ・テ』と繰り返されていた。

まさか友達の八坂が片思い中の先輩に告白できないから、手旗信号で好きな気持ちを伝える練習をしていた事が役に立つとは。

ちなみに先輩は海上自衛隊を目指していたようで、グラウンドから手旗信号で告白の返事を貰っていた。二人は晴れて付き合う事になったのだが今はどうでもいい。


「さっさと口を開けろ、こんの……!」


いい加減にしろと、上唇と下唇に指を引っ掻け、思い切り上下に開けた。

真っ白な歯が最後の防御壁となっているが、構わず歯にも指を引っ掻け開けた。


「は?」


そこには人の口内という未知の領域が広がっていた。

確かに、人間毎日歯を磨いたり、会話をする中で人の口は良く見る。白い歯、爆笑した八坂が仰け反って笑った時には虫歯を確認する事が出来た。それを指摘すると慌てて歯医者に行って、ゴリゴリに削られ逆に恨まれたのだが、今はどうでもいい。

他人の口の中なんて良くは見ないけれど、それにしたって、これはどうなのだろう。

舌の長さ、厚みは人それぞれだ。

短い人もいるし長い人もいる。

だが、全員舌は赤いはずだ。


「い、刺青……?」


いや、そんな馬鹿な。舌に刺青なんて聞いたことがない。というか、カラスが何故そこに刺青を掘るのか分からない。

さらに言えば、その刺青の模様も変だ。何故こんな不思議なものを掘ろうとしたのか。

カラスの舌の表面に、真っ黒な縦長の六角形のような縁取りをした黒い模様が張り付いていた。その縁からは黒い線が、舌の側面に縦に刻まれている。

なぜ、なぜと思う紅の目の前で異変は起きた。

その模様は厚みがあった。舌の側面に刻まれた細く黒い線が蠢いた。


「これ、何……なんか……ゲ、ゲジゲジみたいな……」

「んむー!」


口を開けさせたまま覗き込んでいると、そのゲジゲジのようなものの背中に、一つの瞳が現れた。

ゆっくりと瞼を開き、ぎょろりと眼球がこちらを向いた。


「ヒッ」


ぞぞっ、と腕に鳥肌が立った。

ただでさえゲジゲジなんて気持ちの悪い物に見えると言うのに、それに一つ目が現れて紅を見ている。

思わず息を飲むと、何処に口があるのか分からないが


「地球の為に戦うんだにゃんっ」


と、紅でもカラスでもない第三者の声が響いた。

年齢はとても低く、声は高い。


「……カラスのスマホ?」


手旗信号で『チ・ガ・ウ』と答えた。

もぞもぞとゲジゲジが動く。カラスの舌に、コアラが母親の背に抱き付くように、しっかり大量の足で抱き付いている。


「ま、まさか……」

「にゅ~~」

「ハッ、や、やっぱり……!」


カラスの口に耳を傾けると、そこからかわいい声が聞こえる。明らかにカラスが発していないのは分かる。人と会話しなさ過ぎて、声が枯れているのだから。

ゲジゲジが発しているこの声、どこかで聞いたことがある。

紅が眉を顰めていると、カラスがメモ帳をめくって紅の目の前に見せつけた。

『~Love fairy~』


「ラ、ラブフェアリー……」

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