第4話 少女の決意と魔女の想い

 幻灯書庫の朝は、魔女の目覚めと共に始まる。

 天幕付きの小さな寝台と飾り棚代わりの小卓が置かれただけの小さな部屋が、彼女の世界だった。

 まどろんだ身体をゆっくりと時間をかけて伸ばし、彼女は身を起こす。

 小卓に置かれたアロマポットから仄かに漂ってくる花の香りが残った睡魔を払い、彼女の姿を叡智宿る大人の姿へと変えていく。

 唯一この時にしか見られない外見相応の少女としての顔を目にしたことがある者は、彼女自身以外では彼女に仕えている二人の司書だけだ。


「……ふぁ……」


 彼女は生欠伸をしながら、天幕を寛げて寝台から降りる。

 彼女は、裸だった。

 就寝時、彼女は下着を含めて衣類を何ひとつ身に着けない。三千年もの間変わることなく続いてきた、彼女の習慣である。

 彼女は身に纏う衣服を求めて、堂々とした足取りで部屋の外へと出て行く。

 扉を開き、すぐ目の前に現れた別の扉からその向こう側へと足を踏み入れる。

 その部屋は、姿見やクローゼット等の着替えに必要な家具が集められた場所だった。

 彼女は、あまり多くの服を持っていない。

 必要最低限の数の下着と、似たようなデザインの法衣ローブ、後は服装に関係なく常に身に着けている宝飾品アクセサリー、それだけだ。


「……さて、今日は何にするかのう……」


 彼女はまずクローゼットの下部にある引き出しを開いて、下着を選ぶ。

 今日の彼女の目に適ったのは、小さな花の刺繍が施された白いレースの下着だった。

 それに足を通してから、次に法衣ローブを選ぶ。

 裾の辺りに星と三日月の飾り刺繍が施された藍色の法衣ローブを大して時間もかけずに選び取ると、さっと身に纏っていく。

 胸元と腰を結い紐でしっかりと留めて、首に金鎖のゴルゲットを掛ける。更に大粒のアレキサンドライトを抱いた護符アミュレットをその上から掛け、群青色の宝石が雫のように幾つも散りばめられた飾りベルトを締める。

 滅多に使用することはないが、彼女が愛用している太陽の書を収めるためのブックホルダーをベルトに取り付けることも忘れない。

 髪に愛用の髪飾りを着けてから、耳にカフ付きのピアスを着け、左右の人差し指にそれぞれ異なる色の宝石が誂えられた指輪を填める。

 最後に姿見に映した全身を確認しながら、髪を整える。

 化粧は、しない。そういう類の品が此処にないことが最大の理由だが、そもそも彼女は己を飾ることにはてんで無頓着な上に、実年齢はともかく外見は十歳そこらの少女であるため、化粧など必要ないだろうと考えているためである。

 因みに、宝飾品アクセサリーは彼女が体内に秘めている魔力の流れを安定し増幅させるための品であって、着飾るために身に着けているものではない。力の制御に杖一本で事足りるならば、今頃彼女は宝飾品アクセサリーすら身に着けていなかったであろう。

 彼女にとって服飾とは、その程度の存在なのである。

 着替えが終わると、彼女は一旦自室に戻る。

 小卓に置いてあった愛用の杖を手に取り、腰に差す。

 これで、彼女の朝の身支度は完了だ。

 部屋を出て扉を閉め、施錠し、仕事場──書庫の中心部であるいつもの場所へと足を運ぶ。

 夜の屋敷のように暗く、しかし丁寧に掃除され整えられた廊下をまっすぐに歩いて行く。

 果てに現れた扉から外に出ると、そこには普段と変わらぬ多くの書に囲まれた空間があった。




「おはようございます」


 姿を見せたアルシャを、ソルは普段通りの挨拶で迎える。


「本日は、林檎をベースに少々シナモンを入れました」


 彼が口にしているのは、紅茶の話だ。

 アルシャがいつも座る席に、彼女が現れる頃合いを見計らって朝の一杯を淹れる。それが、彼の一日の仕事の始まりだった。


「ほう。良い香りじゃ」


 アルシャは、基本的に食事らしい食事を摂らない。

 紅茶だけで全てを賄っているのではないかと疑ってしまうほどに、とにかく彼女は紅茶以外のものを口にする姿を見せなかった。それでいて空腹を訴えることがないのだから驚きだ。

 ソルが淹れた一杯は、アルシャがいつも座る席に角砂糖を二個沿えて置かれている。

 ふんわりと湯気を立てるそれの前に座り、アルシャは礼を述べてから角砂糖に指を伸ばした。


「──そういえば」


 小さな口にぱくんと角砂糖を丸ごと含んで、しゃりしゃりと音を立てて溶かしながら、彼女は問う。


「昨日頼んでいたものはどうなっておるかの」

「準備は全て整っております」

「そうか」


 紅茶を口に含み、香りを纏った息を鼻からゆっくりと吐き出して、美味いと呟く。


「もっとも、実際に使うことになるかどうかは分からぬ。それは儂が決めることではないからの……さて、茶が済んだらいつも通りに掃除から始めるとしようかね」




 アルシャは、魔女である。

 比喩でも称号でもない。服装が示す通り、彼女は不思議な力を幾つも操る特別な存在なのだ。

 この書庫も、その力を用いて建てられた。

 此処が世界と世界の狭間に存在しているのも、時間に関する概念が曖昧なのも、そのためだ。

 彼女が紅茶以外のものを口にしないのは……魔女であることとは関係ない、単なる彼女の嗜好によるものだが。

 ──閑話休題。

 そんな偉大な存在であるが、彼女は本当に必要な時以外は力を用いようとはしなかった。

 例えば、今彼女がはたきを片手に行っている書庫の掃除もそのひとつである。

 彼女が魔法で幾つもの掃除道具を一気に操れば、一瞬で作業は終わるだろう。

 そうすれば事は容易いことを、司書ソルは無論のこと、彼女当人もよく理解している。

 だが、曰く。

 自分の体を使ってできることは極力魔法には頼らず自分の手足を使ってこなすべきだというのが、彼女の考えだった。

 こうして小道具を片手に、少しずつ場所を移動しながら本棚の埃を落としていく。

 この調子でいくと後何年かければ終わるのか、皆目検討もつかない。そもそもそんなに時間がかかるのでは、一周終わった時点で最初の場所には既に新しい埃が積もってしまっているに違いない。

 しかし、一見無駄にも思えるこの時間が、楽しい。

 実際に棚や書を目にすることで、装丁の傷みや棚の歪みを発見することがあるかもしれない。そう考えると、こうしてひとつの作業に時間をかけることも無駄なことではないのではなかろうか。

 時間を有効的に使うのは言わずもがな大事である。

 しかし、それを理由に何でもかんでも魔法に頼ってしまったら、いざ危機に陥った時に何もできない体になってしまう──本当に魔法を必要とする場面で力が残っていなかったらどうするのか? 彼女は常に、そう懸念しているのだ。


「前に此処を掃除したのは、何年前じゃったかのう……」


 呟きながら、一段上がってはたきを振り、また一段上がってはたきを振り、を繰り返す。

 窓もないのに、一体何処からこれだけの埃が沸いてくるのか。そんなささやかな疑問に思考を巡らせつつ。

 ぱさぱさと埃を落とされ、綺麗になった箇所からふわりと漂ってくる古びた書の香りが心地良い。

 彼女は、この匂いが好きだった。

 熟成された知識の芳香、とでも言うのだろうか。掃除を欠かしていたら、この空間がこの香りで満たされることもなかっただろう。


「アルシャ様」


 梯子の頂まで上がったところで、足下の方からソルの声がする。

 何の気なしにそちらをゆるりと振り返ると、見覚えのある顔がそこに佇んでいるのに気が付いた。


「お……おはようございますっ」


 ぺこっ、と勢い良く上半身を折り畳むシオンに、アルシャはふっと笑って一旦背を向けた。

 梯子を下り、はたきを持ったまま両手を後ろに組みながら相手の正面に立って、その顔をじっと見上げる。


「答は出たのかね」


 シオンはこくりと頷いた。


「はい……言われた通りに、よく考えてきました」


 今日の彼女は、チョコレート色のレース生地に淡いピンクの薔薇が描かれたトップスと、薄いデニム地のショートパンツを身に着けていた。先日よりも若干快活そうな印象を受けるが、やはり元々の清楚な雰囲気は変わらない。


「私の夢は……捨てられません。それがなくなってしまったら、私が私でなくなってしまうような気がしたんです。でも……此処で働くことも、どうしても諦め切れません。私が本当に心の底から求めているものが此処にあるのに、それを諦めるなんてできないって、思ったんです!」


 力説してから、シオンはアルシャとの距離を一歩分詰めた。


「虫がいい話だって、自分でも分かっています……だけど、どうかお願いです! 私を此処で使って下さい! お仕事に必要なことは何でも覚えますし、どんな雑用だって嫌がらずにやりますから!」

「……儂は、御主に夢を諦めろとも此処に来るなとも言ってはおらんよ。自分でよく考えて自分の答を見つけろとは言ったがの」

「どうか…… ……え?」


 アルシャからの返答に、熱気が篭っていたシオンの顔から一気に力が抜けた。

 そんな彼女の様子を、アルシャはふっふっと肩を揺らしながら見つめている。

 唇が、半月の形を作った。


「御主の『答』は聞かせてもらった。今度は儂が御主に『答』を聞かせる番じゃ」


 シオンに空いている席を勧め、自らも自分の席に座り、正面のテーブルに太陽の書とはたきを置く。


「これから……御主にひとつの試験テストを出す。それの結果如何で、御主が此処に身を置くための素質があるか否かを見極めさせてもらうからの」

「テスト……ですか?」


 シオンは、これを採用試験の一種か何かとして捉えているようだ。

 ある意味ではその通りであり、ある意味では違う。だが、その辺りを説明する気はアルシャにはないようだった。


「以前、御主が此処に来る際に持ってきた、御主が書いたという小説……あれをちょいと使わせてもらった。御主が創り出した物語ならば、幾分かはやりやすかろうと思っての。──ソル」

「……いつでも、御随意に」


 ソルの返答を合図に、アルシャは相槌を打って太陽の書を開いた。

 細かな手書きの文字がびっしりと書き連ねられているページを目の前に出し、そこに右手を翳す。


試験テストの監督はソルに一任しておる。詳細は奴に問えば良い。──儂は此処で、結果が出るのを楽しみに待っておるぞ」


 翳した手で書面の字を浚うような動きを見せた後、一旦口を閉じ、静かな声で、紡ぎ始めた。



「我、太陽の書に命ず。此処に紡がれし露世つゆのよを描き、まことを詠う言の葉と成せ」



 ──彼女の言葉を受けた太陽の書が、紙面の文字を眩い黄金に光り輝かせる。

 世界そのものを塗り潰すかの如く、黄金の光は、目の前にいるアルシャを、シオンを、周囲にある書庫の風景を中心から飲み込み、広がっていく。

 そして──

 光が収まり、元の穏やかな雰囲気に戻った書庫の場景の中から、シオンの姿だけが消えていた。

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