第3話 移ろいの風を呼び込む少女

「アルシャ様。648番の世界書ですが──」


 この書庫に、明確な時の概念は存在しない。

 この書庫の主が昼と信じれば昼になり、夜と願えば夜になる。そんな世界である。

 窓がなく、閉じられた奇妙不可思議なこの場所では、この書庫の主たる魔女が望む通りの時間軸を持って時の流れを刻んでいた。

 今は──夕方くらいだろうか。

 彼女が身体的疲労を覚えれば夜になる。そういう一種の理のようなものを根底に置いて、此処で働く者は活動をしていた。

 幻灯書庫での仕事量は、それこそ普通の人間が生涯を賭しても本山の一角を崩せるかどうか……というほどに、果てしなく膨大だ。

 だからこそ彼女が此処の『扉』を開放しようと思い立つのに三千年もかかったというのは別の話だが、それだけの山積した作業を一日の間にどれだけ片付けられるかが、司書たるソルの日々の課題になっていた。



 相方が悪戯にかまけて仕事をしない分、ソルはとにかくよく働いている。

 彼が携わっているのは、主に書庫に保管された書物の内容の管理だ。

 経年の劣化によって欠けたページはないか、事実と比較して相違点や記載漏れ等がないかを一冊ずつ丹念に確認しているのである。

 数万、数十万以上にも及ぶこの書庫に収められた本の内容の全てを、彼は記憶している。一言一句、正確に覚えているのだ。

 だからこそ、彼は微妙な違和感も見逃さない。


「またやられています。二千二百四十ページの下から三行目の記載が、微妙に書き換えられています。……あれの仕業でしょうね」

「ほう」


 ソルからの報告に、アルシャは相槌を打って手元の本を開いた。

 太陽を腕に抱く男神の絵が表紙に描かれたこの書物は、『太陽の書』の名で呼ばれている。彼女が常に手元に置いている品のひとつで、書庫で管理をしている本についての記録が記されているものだった。

 彼女自身には、書庫で保管されている本の全てを管理できるほどの記憶力はない。故にこういう品を駆使しながら、彼女は此処の管理をしているのである。

 彼女は報告された書についての記載があるページを開き、紙面を指でなぞって内容を確認してから、梯子が立て掛けられている方へと歩いていく。

 梯子を上がる前に、目の前の段を軽くこんこんと杖の先で叩く。

 すると──

 まるで植物のように、梯子の上部がするすると伸びていく。

 十段かそこらしかなかった普通の木の梯子は、幾分もしないうちに三十段近くもある長大な梯子へと成長を遂げた。


「……この辺りじゃったかのう」


 アルシャは長い法衣ローブの裾を時折踏んづけながら、梯子を上って頂へと移動した。

 何処だったかと呟きながらも特に迷う様子も見せず、目的の本を多くの書の中から選び出し、目的のページを開く。

 そこに記されている一文をざっと目で追って──苦笑した。


「……確かに、これはルナが改竄した痕跡じゃの」

「ああもう、書庫を管理するための重要な『能力』をこんな悪戯で無駄に使って……何を考えているんだか」


 嘆くソルを傍らに、アルシャは書き換えている一文を指でなぞりながら、応えた。


「じゃが、御主がいるからこそ単なる悪戯の範疇に収まっておる……それはあやつも理解はしておるはずじゃよ。そうでなければ、今頃此処は管理どころか存在自体が危うくなっておる。この書庫が消滅するようなことがあれば、儂らだけじゃない、あやつ自身も己の存在を維持できぬのじゃからな」

「……それはそうですが……」

「──あの、こんにちはー」


 唐突に会話に割って入った声に、二人の対話がぴたりと止んだ。

 アルシャがゆるりと足下に──テーブルの辺りに視線を向けると、若い娘が自分のことを見上げている様子が目に飛び込んできた。

 何かを大事そうに胸元に抱え込み、両の瞳を大きく見開いている。その何かが具体的に何なのかまではアルシャの位置からでは見えなかったが、書の類のように、彼女の双眸には映った。


「……これはこれは、気付かなくて申し訳なかったの」


 言いながら、アルシャはさっさと梯子を降りていく。

 手にした本をテーブルの上にぽんと置いて、娘の真正面に立ち、爪先から順番に撫で上げるようにして相手の全身を観察した。



 ──清楚な雰囲気の娘、というのがアルシャが感じ取った第一の印象だった。

 栗色の髪を淡い空色のリボンで上品に結い上げ、白いシフォンのワンピースを身に着けた様は、上流階級出身の女性といった感がある。

 娘がどのような世界から此処に訪れたのかは分からないので、貴族や平民といった概念が相手に通じるかどうかは甚だ疑問であるが。


「儂が幻灯書庫ここの責任者、アルシャ・リィじゃ。本の閲覧希望者かの?」

「は……えっと……あの……」


 娘はアルシャの姿を見て半ば困惑している様子だ。


「ふむ、儂の姿がこのような小さき者であることに驚いておるのか?」

「い、いえいえっ、そういうつもりではっ!」


 娘は慌てて首を左右にぶんぶかと振るが、半分くらいは図星だったのかもしれない。


「あの……あのっ、此処で、色々な珍しい本を扱っているとお聞きしました。それで、此処で働いている方も、本に関する造詣が深い方ばかりだとお伺いして……」

「……そのような話が言伝に広まっているなど、私は初耳ですが。アルシャ様、『外』で何かなさったのですか?」

「此処は『外』と違って時間の概念が曖昧じゃからのう……この子の世界では、此処の『扉』が開かれたのは相当に昔のことなのかもしれぬな」


 この書庫の中では、時の流れが一定ではない。当然、『外』に存在する時間軸との相互関係も存在しない。

 此処での一分が『外』では一日となったり、あるいはその逆になったりする。その関係性は実に不安定であり、それ故に『外』の『現在の様子』はこの書庫の中からでは分からないのだ。

 アルシャが書庫の『扉』を開放したのはつい先日のことである。しかしそれは、あくまでこの書庫の中での出来事であり、娘の世界では、その出来事は彼女が生まれる遥か昔に起きた出来事である可能性が十分にありえるのだ。


「その……それで……」


 娘は抱えていた紙束をアルシャの前に差し出すと、頭を深く下げた。


「……お願いしますっ、私を、此処で、働かせて下さい!」

「……は?」


 間の抜けた声を漏らすソル。

 アルシャもこれには面食らったようで、ぽかんとした表情で娘のことを見つめるばかりであった。




 娘はユウリ・シオンと名乗った。

 年齢は十九。音楽家の家系に生まれ育ち、幼少の頃から音楽に関わる教育を施されてきた、所謂その道のサラブレッドというやつである。

 楽器の扱いに、歌。両親の才能を色濃く継いだ彼女は、次世代の新星として周囲に大きく期待されていた。その期待は、彼女の容姿が標準以上に整っていたからこそより大きくなったとも言えよう。

 このまま両親や先祖に倣って音楽家としての道を歩めば、人生の成功者として脚光を浴び優雅な暮らしを生涯約束されたも同然であった。

 しかし──彼女には、別の夢があった。


「成程。作家にのう……」


 シオンの話を聞き終えて、アルシャは手元のティーカップに手を伸ばしながら静かに頷く。

 彼女の目の前には、シオンが持ち込んだ彼女直筆の創作小説の原稿がある。

 内容は、可もなく不可もなく。

 それが、最後まで小説を一読したアルシャが出した感想だ。

 文法など、基本的な執筆能力に関しては問題ない。シオンは独学で小説の書き方を試行錯誤しながら習得したと言ったが、独学でよくここまでの技法を身に付けられたものだと感心するほどの能力を、シオンは持っていた。

 だが……何となく、何かが物足りない。

 アルシャは、そのように感じていた。


「ソル。御主はどう感じたかの」


 傍らの太陽の書を開き、白紙のページを出してその紙面を指先でなぞりながら、アルシャはソルへと問いかける。

 シオンの前に一度も姿を見せていないソルは、しばし沈黙した後、やはり何処から場の様子を見ているのかは分からないが比較的二人の近くから聞こえる声で、答えた。


「磨けば光る原石……の可能性があるかもしれない石、といったところでしょうか」

「…………」


 まがりなりにも作家を目指している身である。ソルの言葉の意味は理解できたのだろう。才能の有無についてをずばりと言われて僅かに表情を曇らせるが、主張を撤回する気は全くないようだ。

 シオンは先程から続けている主張をそのままに繰り返した。


「それは、分かっています……でも、私は夢を諦めたくありません。何より、本の世界が好きなんです! 此処でたくさんの本に触れながら、物語のことをもっと勉強すれば、今よりもずっと素敵な作品が書けそうな気がして……小説の書き方を一から教えてほしい、なんて厚かましいことは言いません。普通に、アルバイトでもお手伝いでも何でもいいので、此処で働かせて頂けないでしょうか? 此処にこそ、私にとって必要な何かがある気がしてならないんです……どうか、お願いします!」

「そう言われてものう……」


 紅茶を一口啜り、アルシャは割と困った様子でシオンの目を見た。

 シオンは、本気だ。生半可な決意と覚悟で今の話をしているわけではないことくらいは、眼差しに秘められた炎を見れば分かる。

 だからこそ、頭ごなしに追い返すわけにもいかず、唸っているのだ。


「此処は、御主が知っているような『普通』の図書館とは違う場所での。書を売って金銭を稼いでいるわけではないし、何より、此処を支配している理が御主が生きておる世界とは根本的に違うのじゃ」

「本棚のお掃除も、本のお手入れも、何だったらゴミ捨てだってゴキブリ退治だって、必要なことは何でもしますから!」

「……昆虫なんぞおらんぞ、此処には」

「そういう意味で言っているわけではないのじゃが……」


 ソルは完全に呆れている様子だ。

 そもそも、商売をしているわけではないのだから、雇い賃を工面する当てがない。胸中でそう呟くものの、実際に声にはしなかったようである。


「のう──シオン、と言ったかの」


 太陽の書をぱたりと閉じて、アルシャは真面目な面持ちで切り出した。



「御主は、本の中に永劫閉じ込められる覚悟はあるのかの?」



 予想だにしなかった内容の問いかけに、シオンの表情が呆ける。


「え?」

「この書庫に身を置くとは、そういうことなのじゃよ。老いることもなく、永遠と時の流れが止まった世界で生き続ける──命ある者には、それは永遠の地獄にも等しき苦となろうて」


 アルシャは何処か物寂しげな眼差しで、頭上を見上げた。

 本棚に囲まれた円形の天井と、吊りランプがあるだけの、閉じられた空間の蓋。それが、彼女からの視線を無言で受け止めている。


「儂やソルは、此処で生まれ、此処で育った。だから儂らにとってはそれが当たり前になっておるが……シオン、御主は普通の人間じゃ。今は良くても、いずれきっと耐えられんようになる。百年、千年、万年……御主を知る者が土に還り、誰もおらぬようになっても、生き続けねばならぬ覚悟。捨てられぬ孤独と向き合い続ける覚悟。それが、御主にはあるかね?」



 この書庫が誕生して三千年。

 アルシャは、この書庫を創ってからの時を、此処でずっとすごしてきた。

 書を管理し、整頓し、……そんな生活を、繰り返してきた。

 此処に身を置くようになってから成長が完全に止まってしまった、そんな身体と共に。

 この書庫から身を遠ざければ、止まったままの彼女の『時』は再び動き出すだろう。

 だが、今の今まで止められてきた『時』を動かした際の代償が、何もないとは限らない。

 今まで走ることを止められていた分、遅れを取り戻すかのように、時計の針を一気に回してしまう可能性がないとは言い切れないのだ。

 永遠と呼ぶには短い間ではあるが、それだけの時を生きてきたアルシャには、己の死に対する恐怖は既にないに等しい。

 しかし、自分がいなくなったことによって、この書庫が一体どうなってしまうのか──此処に収められている本たちの行く末がどうなってしまうのか。その結末の形だけが、彼女にとっては恐ろしいものだった。

 ソルだけでは、この書庫を管理し切れない。ルナが戻って来たとしても同様だ。そのことを、彼女はよく分かっている。

 此処には、彼女でなければ管理することができない場所が幾つも存在する。そこを封印したまま、彼らに此処の管理を委ねるなどという未来は、彼女の中には存在していないのだ。



「シオン。御主には、作家になるという大きな夢がある。その夢は、此処にいる限りは叶わぬじゃろうし、追い求めることすら難しいじゃろう。その夢を天秤にかけてまで、此処に身を置きたいとは考えておらんじゃろう? その夢ありきで御主は今こうして此処におるのじゃからな。……その程度の覚悟では、此処には到底身を置いていられんよ」

「……それは……」

「……もしも。それでも此処に身を置きたい、と御主が己の考えを曲げぬ、それほどの覚悟を持っているのなら──」


 アルシャはふっと口角を上げた。



「──よく考えて、なおその想いが変わらぬようならば。御主が選んだ選択を後悔せぬと胸を張って断言できるのならば、明日また此処に来ると良い。その時は、儂も誠意を持って御主の想いに応えよう」



 シオンが帰った後。再度二人きりとなった空間の中心で、ソルはアルシャに尋ねた。


「良いのですか? あのような約束をして」


 ソルからすれば、アルシャが外からの人間を好意的に迎え入れようとしている態度が不思議でならないといったところなのだろう。


「儂も、結構いい歳のばあさんじゃからの」


 アルシャは全然そうは見えない容姿ではにかんで、ティーカップに残った紅茶を口に含んだ。


「懸命に希望を掴もうとしている若者を見ると、ついその背中を押してやりたくなってしまうんじゃよ」

「その心中はお察ししますが」


 ソルは、役目柄故か、こんな時でも至って冷静だ。


「先程アルシャ様も仰っておられたではありませんか。あの娘は、普通の人間です。此処に馴染めるとは、私には到底──」

「じゃが、可能性は無きにしも非ず。そうじゃろう? ソル」


 空になったティーカップをテーブルに置いて、太陽の書の表紙を優しく撫でる。


「可能性の有無は、儂らが見出してやれば良いだけのこと。結論を出すのは、その後でも遅くはなかろうて」

「…………」


 はぁ、と溜め息をつく音がした。


「……分かりました。アルシャ様がそのようにお考えなのでしたら、私にそれを否定するつもりはございません」


 司書は、主の考えに異を唱えない。

 主の手足となり、主の望みを叶えることこそ──彼の役目であり生まれてきた理由だからだ。


「アルシャ様のお望みのままに。それを叶えるためにこの身を捧げるのが、私の役目です故」

「先の『世界』の内容は、把握しておるじゃろうな?」

「無論です」

「ならば、後の準備は御主に一任しよう。儂は、必要な品を揃えておくとするかの」

「御随意に」


 杖を携え席を立った書庫の主は、茶器を持ち出した部屋に続く扉の左隣にある本棚の前まで行くと、杖の先端でその側面を軽く叩いた。

 と、叩かれた本棚が、まるで意思を持つ生き物のようにふわりと垂直に浮き上がり、右へとスライドした。

 先の扉を覆い隠す形で移動した本棚の陰から、同じ形をした別の扉が現れる。

 彼女はその扉を開き、廊下を跨いで続く先の部屋へと姿を消した。

 後の場には、彼女が置いていった太陽の書と、それらを優しく照らす山吹の光と、重々しくも温かな雰囲気を宿した数多の本たちが残されていた。



 ──幻灯書庫に初めて移ろいの風が吹き込んだ、ある一日の何ということはない出来事である。

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