第2話 幻灯書庫の魔女
その円形の空間は、所狭しと並べられた本棚の壁によって形成されていた。
本棚に収められているのは、新旧問わず主人の眼鏡に叶って蒐集された数多の書物である。
革張りの分厚い表紙を持つ古めかしい本から、幼子が好んで手に取るような小さい絵本まで。何処かの国の地図や、小難しい言葉ばかりが並ぶ専門書。そのジャンルは実に幅広い。
それら全てが書物特有の芳香を紙面の中に閉じ込めて、選ばれ棚から手に取られる日を心待ちにしている。
此処は、設立当初から今日までその姿を全く変えることなく保っていた。
部屋の中央には、木製の丸テーブルがひとつと椅子が三脚設置されている。
羊皮紙や、羽根ペンなど。一般的な筆記具が定位置に置かれ、火を点したランタンや小さな観葉植物の鉢などで卓上のスペースはそれなりに使用されていた。
更に、金貨やら色水晶製のダイスやら、筆記とは無関係な小物までもが散らばっているが──これは、この部屋の主が片付けるのをさぼっているせいである。
その人物は、本棚のひとつに立て掛けられた梯子の頂に腰掛けて、本を読んでいた。
「……ふむ……」
金の巻き毛が御伽噺に登場する姫君のように可愛らしい、少女だ。
齢は、控え目に見て十を過ぎた辺りだろうか。成熟の兆しが宿りつつある身体を金糸の刺繍が施された
彼女が本のページをひとつ捲る度に、首や腰に下げられた宝飾の石たちが揺れてぶつかり、しゃらりと音を奏でた。
「ソル」
本から目を離さぬまま、魔女は小鳥の囀りを彷彿とさせる甲高い声音で言葉を発する。
「此処の一文、間違ってはおらぬか?」
姿や声からは全く連想できないような、まるで老婆のような語り口調である。
「確認をしてから記載しておりますよ。アルシャ様」
そんな彼女の名を呼びながら問いかけに応じたのは、何処からか聞こえてきた涼やかな雰囲気の男の声だった。
「私の語学力の程度は、他ならぬアルシャ様が最もよく御存知かと。……それでも、件の一文に違和感が感じられるようでしたら──」
ふふ、と彼は微苦笑を零して、言葉を続けた。
「そのように記載するように私に命じた者が、間違った文法を用いていた場合に他なりません」
「そうか」
それが彼からの皮肉であることに、彼女は気付いているのかどうか。
だが、その程度のことなど彼女からしてみれば、実に些細なことなのだろう。興味を示す必要すらない程度に。
アルシャは微笑して、本の表紙を閉じた。
傍らに手を伸ばし、本棚に隠すように置いていた細身の杖を取る。彼女の指先から肘の辺りまでくらいの長さしかない、細かい彫刻が持ち手にびっしりと施された白樫の杖だ。
「さて……書の手入れは一旦終いにして、茶でも淹れるかの」
「私には、ただ読書をなさっているようにしか見えなかったのですがね」
「どうせ一日二日で終わるような仕事でもないしの。急いて進めようと片手間に進めようと変わらぬよ」
胸元に本を抱え、更に杖を携え、何とも重心の偏った体勢のまま彼女は器用に梯子を降りていく。
本はテーブルの上に置き、杖は椅子の背凭れに立て掛けて、彼女は本棚と本棚の間に隠されるように存在していた扉から部屋の外へと出て行った。
戻って来た彼女が手にしていたのは、ティーセットを載せた木のトレーだった。
青い薔薇をモチーフに描いたこれは彼女の愛用品で、ティーカップは三個。しかしよく見ると、同じ青薔薇をモチーフにしてはいるものの、三個あるティーカップのうちひとつだけ微妙にデザインが異なっていることが分かる。
これは、ティーカップだけ別に買い足したからだ。元々ティーカップが二個しかなかったティーセットを、購入当時はティーカップが三個必要だったからとティーカップのみ別で購入して揃えたのである。たまたま同一のデザインのティーカップが見つからなかったため、似ているデザインのティーカップを見繕って間に合わせたために、微妙にちぐはぐなティーセットが出来上がってしまった……単にそれだけの理由だった。
「私がお淹れしましょうか?」
「
ソルの申し出をさらりと受け流し、彼女は慣れた手つきでティーポットに茶葉を入れる。
続けて水を注ぎ、蓋を閉め、そこに指先を添えて何かを小さく呟く。
そのまま、待つことしばし。
ティーポットを傾けると、ふわりとした香り立つ湯気を纏った琥珀色の液体が、ティーカップを満たした。
「ソル」
紅茶が注がれたティーカップはひとつだけ。
それを手に取り、彼女は自分がいつも使用している席に腰を下ろす。
辺りをゆったりと見回すように目線を動かしながら、彼女は、
「最近ルナの姿を見ぬが、御主は何か知っておるか」
「あれは……相変わらずです。書庫を勝手に徘徊しては、悪戯ばかり」
どうやら、彼にとっては結構な悩みのタネらしい。ソルが深々と溜め息をつくのが聞こえてきた。
「私が言っても聞く耳を持とうとしません。全く……あれは本当に、自分の立場を理解していない」
「まあ、構わぬよ。それを承知の上で、あれと御主を司書として傍に置いているのは儂じゃからの」
アルシャは紅茶を一口含み、すぅと深く息を吸って、椅子の背凭れに身を深く預けた。
周囲に聳え立つ本の壁。それを部屋の中心から照らす骨董品の吊りランプ。
それらをのんびりと眺めながら、微笑む。
「幻灯書庫──此処を創ってから、もう三千年にはなるかの。膨大な数の世界書や文化書、それらを全て管理できているのは、御主ら二人がいてこそ為せるもの。儂一人では、知識を無駄に劣化させてしまうだけじゃからな。本当に感謝しておる」
ルナの悪戯さえなければ言うことなしなんだがの、とおまけのように付け足してから、微笑を微苦笑に変えた。
それから一転して真面目な面持ちになり、静かに続ける。
「数多の世界の、数多の歴史。文化。思想。生命。……万一にでも失われてしまうようなことがあれば、それは二度と取り戻すことは叶わぬ」
書を失うということは、その書に保存された『記録』を失うことに他ならない。
誰の目にも触れられない場所に記録が葬られてしまうということは──それは、その記録に記された『存在』が完全に消滅してしまうことと同義なのだ。
「儂はの、ソル。今儂らが身を置いているこの世界も含めて、世の万物は、如何に繊細で脆き存在であるかということを、皆に知り置いてもらいたくてこの書庫を創ったのじゃよ」
「……では、先日此処の『鍵』を解いて『外』の者が出入り可能なようにしたのも?」
「うむ」
ソルの問いかけに、アルシャは頷く。
「扉が開かれれば、新たな風が此処に吹くこともあろう。……儂は、楽しみにしておるよ。どのような新たな風が、此処を潤してくれるのか──」
幻灯書庫。
アルシャ・リィが創設した、数多の世界書や文化書を保管する巨大書庫である。
世界と世界の狭間に在る……とされるこの場所は、創設されてから三千年もの間、外界へと繋がる『扉』を閉ざし続けてきた。
しかし、今日、その『扉』を開放し、書を愛する心ある者ならば誰もが立ち入り可能な書庫となることを、此処に宣言した。
今日という日を境に、数多の世界の到る箇所にこの書庫へと通じる『扉』が開き、外から人が足を踏み入れられるようになったのだ。
願えば、此処への入口をその目に捉えることができるだろう。
窓のない、一見して何の商いのために存在しているのか分からない、謎に溢れた秘密の店として──
己が知らぬ世界の知識を一見するか、己が世界の知識を書庫へと持ち寄るか。
それは──此処に訪れた客人次第。
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