第9話 ここは天国?

 目が覚めた瞬間に嗅ぐ匂いはとても重要だと思う。


 朝からハンバーグの匂いが漂ってくればテンションが上がるし、薬品のツンとした香りが鼻を突けば不快な目覚めになる。


 では、薬品の臭いとちょっと汗の混じった柑橘系の香りならどうか。

 正解は……。


「うわっ!」


 取り乱すだ。その原因は匂いだけじゃない。目を開けたら天井ではなく布に覆われた謎の斜面があったらそりゃ驚くでしょ。


「あ、よかった。起きた」


 斜面に遮られて顔は見えないけど声は付き合いたての僕の彼女のものだった。

 でも、何かが違う。


 僕が本当に求めていたものというか、いつまでも一緒にいたいと思える雰囲気というか、斜面を覆う布が剣道の道着であることとか……。


仁奈にな……さん?」


「さすがに道着だとバレバレだよね。うん。わたしだよ」


「え、これはどういう……」


 枕とは違うむにっとした柔らかさに頭が包まれている。

 道着をまとっているということは下半身は袴のはずなのに、ふと視線を横に向けるとなぜか肌色が広がっていた。


「まだ動いちゃダメ。純浦すみうらくん何度も寝返りうちそうになるから、こうやってわたしの足で固定したの」


「そ、それはどうも」


 だからって袴をたくし上げて生太ももを晒す必要はある? ないよね? 袴の上からでも十分に今と同じように固定できるよね?


 勢いよく仁奈になさんを問い詰めたい感情と、このまま幸せな時間を味わっていたい感情が脳内で決闘を繰り広げた結果、後者が圧勝した。


「お姉ちゃんがわたしの道着を借りて、わたしのふりをしてるってパターンは考えなかったの?」


「実はちょっと脳裏をよぎった。里奈りなさんならやりかねないなって。でも」


「でも……」


 言葉は頭の中に浮かんでいるのにそれをうまく口に出せない。

 僕は今、里奈りなさんの彼氏なのに、これを言ったらまるで仁奈になさんを口説いているみたいだ。


 それは里奈りなさんの望む結果に繋がるとわかっていても、やっぱり寝取り寝取られという関係は一般的にはよくない。


 里奈りなさんみたいに突き抜けられない凡人は言葉に詰まってしまう。


「気になるから教えて。お姉ちゃんの好きなものとか教えてあげるからさ」


 仁奈になさんは何の躊躇いもなく、その見返りが僕にとってとても有益なものだと信じ切ったような明るい声で条件を提示した。


 お姉ちゃんの彼氏。それが仁奈になさんの瞳に映る僕なんだと実感させられる。


「り、里奈りなさんなら膝枕じゃなくておっぱい枕かなって」


「ぷっ」


「いや、仁奈になさんならわかるでしょ。お姉さんならそういうことしそうだって」


「あははははは。ごめん。あまりにもお姉ちゃんのことをわかってて、それがおかしくて。ふふふふふ」


 大きな声で笑うことでその振動が太ももから頭に伝わる。

 さっきは勢いで起き上がりそうになったけど、こうして揺られるとそれはまだ早いと自覚した。


「そっか。純浦すみうらくんはおっぱい枕の方が良かったんだね」


「違うよ? それはお姉さんがやりそうってだけの話だよ?」


 双海姉妹の太ももとおっぱい。どちらも甲乙つけがたいどころか最強の矛と最強の剣なんだからぶつかり合ったら世界が滅びる。


 思えば僕は里奈りなさんのおっぱいと仁奈になさんの太ももを顔や頭で味わってるんだよな。あれ? つまり僕は滅びるの?


「すごいよねお姉ちゃんって。彼氏の純浦すみうらくんにみんな嫉妬して。わたしじゃこんな社会現象は起こせないよ」


「いやいや、仁奈になさんが全員の告白を断ってるから戦争が起きてないんだからね。今日の恋愛解禁宣言はだいぶ衝撃が走ったよ」


「それって、純浦すみうらくんも?」


「…………」


 正直に答えればイエスだ。でも、里奈りなさんの彼氏という立場上、肯定することはできない。


「あー、すぐに否定しないってことは……お姉ちゃんに言っちゃおうかな」


「ごめん。本当にやめてくださいお願いします」


 妹に彼氏を寝取られたい里奈りなさんにとってはありがたい展開だ。怒るどころか喜ぶ顔が目に浮かぶ。

 そんな話を仁奈になさん本人にするのはイヤだし、悪い冗談として笑って流されてしまうだろう。

 どうして双子の姉妹でこうも差が出てしまったのか。


「ねえ純浦すみうらくん」


「うん?」


「もしも、もしもだよ? わたしが今告白したら純浦すみうらくんはどうする?」


「っ!?」


 突然のことに言葉を失ってしまった。

 仁奈になさんが僕に告白する。つまり、お姉さんから彼氏を奪うということだ。


 まだお互いに本気で好きなわけではないから里奈りなさんが思い描く寝取りとは違うだろうけど、方向性としては完全に望み通りだ。


「このまま太ももとおっぱいで挟んだら、男子ならみんなわたしを好きになってくれるのかな」


 仁奈になさんが背中を丸めるとおっぱいが顔に近付いた。

 その辺の女子ならここまでの圧迫感を与えられないだろう。


 しかし、仁奈になさんのおっぱいなら迫りくる隕石のような存在感を示すことができる。


 このままいけばもはや授乳。僕は仁奈になさんの赤ちゃんになってしまう。


「なーんちゃって。うそうそ。ちょっとお姉ちゃんのマネをしてみただけ。お姉ちゃんってこういう悪ふざけするでしょ? 彼氏さんは大変だ」


「あー……ははは。まだ付き合って間もないけど里奈りなさんっぽくってビックリしちゃった。頭の痛みも吹き飛ぶくらい」


「わたし達双子ですから。成績とかは似てないけど、ちょっと本気を出せば大胆なこともできちゃうんだよ?」


「あんまりやると勘違いされるから気を付けた方がいいよ」


「わかってます。あのお姉ちゃんの大変さをわかってくれるの、彼氏である純浦すみうらくんくらいだと思ってさ……なんだかお姉ちゃんから彼氏を寝取るみたいでダメだったね。反省反省」


 あなたのお姉さんはその寝取りを望んでるんですよ! なんて口が裂けても言えない。それは里奈りなさんとの約束でもあり、仁奈になさんに正常な判断で僕を好きになってもらいたいという想いがあった。


「本当に頭の痛みが引いてきたみたいだ。ゆっくり起き上がっていいかな?」


「ちょっと待って。……はい。どうぞ」


「っ!?」


 仁奈になさんは自分の胸をギュッと両手で押さえると赤くなった顔がチラリと見えた。

 むにゅっと押し潰されたおっぱいはその形状変化具合からも弾力と大きさが伝わってくる。


 うん。さすがに真っすぐ起き上がったらおっぱいに直撃するから斜めに起き上がるつもりだったよ?

  

 それを仁奈になさんが勝手に勘違いしておっぱい変化芸を見せてくれちゃった。

 目の前に絶景が広がったせいで別のところが起き上がってしまって体を起こすのが辛い。


「大丈夫? もう少し休む?」


「ううん。全然稽古もできてないし、今日中に部長の怒りを発散させておかないと明日が恐いし」


「ふふ。純浦すみうらくんもなかなかの負けず嫌いだね」


 そりゃあ好きな人が負けず嫌いなら自分だって負けず嫌いになりますよ。

 一緒に努力する口実にもなるしね!


 ちくしょう。なんでフラれてお姉さんと付き合ってから良い雰囲気になってるんだよ。

 でも里奈りなさんが僕と付き合わなければ仁奈になさんも恋愛を解禁しなかったわけで……うぅ、どう転んでも素直にハッピールートに入れない。


純浦すみうらくん、膝枕のことはお姉ちゃんには内緒ね。あくまでも保健室に連れていっただけ」


「ああ、うん。里奈りなさんなら笑って許してくれそうだけど」


「そうなんだけどね。なんだかわたしが純浦すみうらくんを寝取ったみたいでイヤだから。……わたし、先に戻るね。無理そうだったらちゃんと休むように」


「うん。ありがとう」


 身なりを正してスッと一呼吸してから仁奈になさんは駆け足で保健室を出て行った。

 さっきまでのちょっとイタズラでエッチな雰囲気から一転、剣道で自分を磨こうとする凛々しい横顔は彼女持ちになった今でも美しいと感じた。


 この頭の痛みは部長の打ち込みとボールが当たったからじゃない。


 雑念が頭と心をぐるぐると巡っていく。

 このモヤモヤを晴らすためにみんなからボコボコにされるのもいいんじゃないかと思い浮かぶあたり、僕はマゾなんだと思った。

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