第3話


 上司との通話が切れた直後、慎吾のスマホが振動する。

 着信だったようで画面を確認するが、表示されていたのは見たことのない番号だった。

「……もしもし?」

 迷った末、現状の手掛かりになるかもしれないと電話を取る。

『お疲れさまです。私です。安藤です』

「えーっと、安藤さん?」

 聞き覚えのない名前だった。

『どうしたんですか?あ、まだ午前中ですもんね。起こしちゃいました?』

 やけに親しげな口調の女性。声からして慎吾と同じくらいの年齢のようだった。

「すいません。もしかしたら電話番号間違ってると思うんですけど」

『え、ちょっと確認しますね』

 数秒無言になってから、安藤と名乗る女性は軽い口調で、


『間違ってないじゃないですか。さてはまだ原稿が進んでなくて誤魔化そうとしたんですね、暗ヶ崎シンゴ先生?』


 暗ヶ崎シンゴ。

 それは慎吾が使っていたペンネームだった。

「それってどういう……」

『大丈夫ですか?ちょっといつもと雰囲気が違うような。とりあえず今日は来週締め切りの原稿の進捗を確認したかっただけなので。無理はしないでくださいね』

 それだけ言い残して電話が切られてしまった。


「これってもしかして」

 昨日の記憶。慎吾はスマホで銀行口座のアプリを起動させ、パスワードを入力する。すると残高が表示される画面へと切り替わった。

 表示された金額は三万二千円。

「ちょうど百万円減ってる」


 全てが繋がった。


 クローゼットに仕舞われたスーツは新品のようにシワ一つなく、会社用で使っていたはずの鞄は見当たらない。

 よく見ると慎吾の部屋は、記憶にあるものと少しずつ違っていた。

 それを裏付けるように机の上には執筆で使っていたノートパソコンと、一冊の本、そして一枚の名刺が置かれていた。

「あぁ、本当に……」

 文庫サイズの小説。

 表紙には幻想的に輝く夏の夜の花火。そして廃れた駅に停まる列車のイラスト。帯には新人賞大賞と大きく書かれていた。


『走馬灯夢列車』


 このタイトルを慎吾は知っていた。

 小説家を諦める直前、最後に投稿した作品だ。

 現実に嫌気が差して線路に身を投げた社会人の青年が、奇妙な列車に揺られながら自身の走馬灯を巡る物語。

 慎吾としては一番の自信作だと感じていたが、結局受賞には至らなかった物語。

 それから本の隣に置かれていた名刺を手に取る。

『編集者 安藤莉子』

 さっきの電話の人の物だとすぐに気付いた。

 名刺を机に置いてから、ノートパソコンを起動させる。

 スリープモードになっていたようで、すぐに画面が点き、表示されたのは小説の設計図、プロットだった。

『走馬灯夢列車 二巻 プロット』

 それに記されていたのは慎吾が当時、受賞できたらこう続けたいと構想していた内容を同じものだった。

 けれどパソコン内のどこを探しても原稿のデータが見つからない。

「あと一週間って言ってたっけ」

 会社に行く必要もない。執筆に全てを注げる環境。

 慎吾は闘志に満ちた眼で、机に向かった。



 それから一週間後の夜。

 寝る間も惜しんでキーボードを叩き続けた。あまり速筆ではない慎吾にとって短期間で原稿を仕上げるのは容易ではなかったが、自分の書いた物語が本になったという高揚感と、締め切りに追われるという憧れからか、なんとか書き切ることができたのだ。

「これをメールで送って終わりか。流石に疲れたな」

 安藤宛のメールを送信し、慎吾は書き終えた達成感を味わいながらベッドに横になった。

 一日あたり三時間程度の睡眠しか取っていなかった慎吾。

 柔らかい布団に包まれながら、瞬く間に眠りについた。


 次に目が覚めたのは翌日の昼過ぎ。

 今にも雨が降り出しそうな曇り空が窓から見える。

「ん、あぁ。よく寝た気がする。もう昼過ぎか」

 寝癖のついた頭を掻きながら、慎吾は起き上がる。

 曇り空のせいか今が何時頃なのか分からない。机の上に置いていたスマホを起動させる。

「あれ、安藤さんから電話きてたのか」

 不在着信とメールの通知が一件ずつ。今の時刻は午後二時だった。

安藤からの着信は午前十時過ぎ。先にメールを確認すると、


『お疲れ様です。安藤です。

 昨日送って頂いた原稿の確認致しました。一点確認させて頂きたいことがあり、お電話したのですが不在でしたので、このメールを確認されましたら折り返しして下さい。

 ご確認の程、よろしくお願い致します。』


先週の電話での口調とは異なった、事務的な文体。不思議と嫌な予感がする。慎吾は恐る恐る安藤に電話をかけた。

 コール音が五回ほど鳴ってから安藤の声が聞こえる。

『はい。安藤です』

「お疲れ様です。倉野です。メール確認したんですけど、何か問題でもありました?」

 数秒の沈黙。それから安藤は少し困惑したような口調で、

『あの、昨日の原稿。本当に暗ヶ崎先生が書きました?』

 慎吾は質問の意図が理解できなかった。

「えっと、紛れもなく俺が書いたものですけど、何か問題ありました?」

『いえ、問題もなにも、前作と比べて同じ人が書いたとは思えない出来でして……』

 言葉の雰囲気からそれは悪い意味の方なのだろうと慎吾は察する。言葉が出なかった。

『あ、すいません。先週の電話でもちょっと様子が変でしたし、疲れてます?〆切はどうにかしておくので、ゆっくり休んで下さいね』

 慎吾は何も言えないまま電話が切られてしまった。


 呆然と座ったまま何分が過ぎたのだろう。

 今回のは、小説家として全力を尽くしたつもりだった。


 ふと、机の端に置かれた小説が目に映る。

「これと比べて……」

 暗ヶ崎シンゴの大賞作品。


 慎吾はそれを手に取り、ゆっくりとページを開いた。


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