第2話
「いらっしゃいませ」
カランと心地よい鈴の音を鳴らしながら扉を開いた先はカウンター席が三つしかない小さな喫茶店のようだった。微かに漂うコーヒーの香りが花をくすぐる。
二十代後半だろうか。
爽やかな笑みを浮かべて、不思議そうに店内を見回す慎吾に会釈する店主の男。
「どうぞ。お掛けになって下さい」
カウンターには先客がいた。
白に近い派手な金髪で、耳にいくつものピアスを付けた青年がタバコを咥えている。そんな現代の不良めいた若者に恐れを抱き、慎吾は一席空けてカウンターに着いた。
座ると卓上にメニューのような用紙が置かれていることに気付く。隣からシュボッというライターで火を付ける音が聞こえた。
「いつも言っているでしょう。店内は禁煙ですよ」
「あー、わかったよ。相変わらず厳しいな」
常連なのか青年はうんざりしたような口調で、けれど薄く笑みを浮かべながら店の外へと出て行った。
「申し訳ございません。お客様は初めてのご来店ですよね?」
店主は朗らかな笑みを浮かべて慎吾の方を向いた。
「あ、はい。ここって、どういう……」
用紙を手に取りながら、戸惑う様子の慎吾。
そこに記されていたのは喫茶店のメニューではなかった。
『自分自身の不遇に迷い、辿り着いたお客様へ。
リアルドリームでは、貴方様の望む名声と地位を適正且つ良心的な価格でご提供いたします。
お望みの夢を何なりとお申し付けくださいませ。
店主
「ふふっ。ここに初めて来られた方は皆様が同じような反応をされます。ですが怪しい勧誘や詐欺ではないので、安心して願望をご注文ください」
「は、はぁ……」
胡散臭さを感じつつも慎吾は二度、用紙に綴られた文言を読み返す。
あまりにも非現実的な内容に戸惑い、顔を上げた。
「あなたが店主の九条さん?」
「えぇ、名乗るのが遅くなってしまい申し訳ございません。私が店主の九条博兎です」
執事を彷彿とさせる佇まいで慎吾に笑みを見せる九条。それに対し、慎吾は訝しげな目で、
「もし、ここに書いてあるように夢を叶えてくれるなら凄いと思うけど、俺には夢なんてないですよ……もう諦めたから」
言い返す事もなく、九条はカウンター内のアンティーク調な棚から、ガラスのサーバーと小洒落た銀色のドリッパーを取り出して重ねた。
小瓶に詰められた焦茶色の豆を、手動のミルで挽いてゆく。
芳醇な珈琲の良い香りが店内に広がる。
「ここに辿り着くのは夢を諦め、それでも心の奥底では諦めきれない人たちなんです。きっと貴方もまだ夢を諦めきれていないのではありませんか?」
慎吾には思い当たる節があった。
小説家への夢を諦めてから一年間。フリーターを辞め、世間で言うところの真っ当な社会人として生活をしてきたが、やはり今でも夢見てしまうことがあった。
だから他人の小説が話題になっただけでも、嫉妬の感情を抱いてしまうのだろう。
そんなことを考えながら俯いていると、目の前にいかにも高そうな純白のカップが置かれた。
「実は私、珈琲を淹れるのが趣味でして、ここに来られた方にお出しさせて頂いているんですよ」
先ほど挽いた豆をドリッパーに載せてから先の細い銅のポットでお湯を注いでいく。湯気を靡かせ、ポタポタとサーバーに溜まっていく黒い液体。
ある程度溜まったところで、九条は慎吾の目の前に置かれたカップへと注いだ。
「どうぞ。お召し上がりください」
奥深い豆の香りに慎吾は思わず喉を鳴らす。
揺らめくコーヒーの水面に吸い込まれてしまうような感覚に浸りながら、慎吾はカップを手に取った。
ゆっくりと、まだ熱いコーヒーを少し口に含む。
「……美味しい」
不意に出た安直な言葉。けれど慎吾はこれまでに飲んできたコーヒーの中で一番美味しいと感じた。
九条はそんな反応を見て満足げに微笑む。
「お口に合ったようで何よりです。よろしければ珈琲のついでだと思って教えてください。貴方の夢を」
店内の心地よい雰囲気と程よい苦味を感じながら、慎吾はどこか悲しげな目をして語る。
「小説家に……なりたかったんです。昔から本を読むのが好きだったんですけど、一番好きな物語がどうしても見つからなくて、それで自分で書こうと思うようになって……気が付いたら、それが夢になっていたんです」
「ほう。物語が書けるなんて凄いじゃないですか」
「別に凄くなんてないですよ。結局諦めてしまったんですから」
吐き出すように言ってから慎吾は視線を下に向ける。
「もう嫌になっちゃったんです。ちょっと有名な芸能人とかが書いた本が売れたり、ちょっとネットで騒がれた物語が書籍化されたり、俺の方が面白いのに、名声さえあれば世間に受け入れてもらえるのにって思うようになっていって……逃げ出したんです」
九条は小さく頷くと、先ほどの紙を慎吾の目の前に置いた。
「ここはそんな想いを叶えて差しあげるところです。ですので、なんなりとお申し付けください」
慎吾はもう一度、書かれた文字を読み返す。
次第に疑うのも馬鹿らしく思えてきて、呆れたように笑った。
「ははっ。本当に夢が叶うのなら、叶えてくれよ。新人賞で入賞して、めちゃくちゃ売れて、有名になる。俺が諦めた夢を叶えられるなら金なんていくらでも払ってやるさ」
夢を諦める時、慎吾は何度も悩み、そうしてようやく決意した。
けれどその夢を、いとも簡単に叶えられると言われ、怒りすらも覚えていた。
九条は慎吾の乱暴な口調に臆することもなくニヤリと笑う。
「いくらでも、ですか?」
「あ、いや、いくらでもは流石に言いすぎたというか……」
言いながら銀行の預金残高を思い出す。
小説を書くこと以外に大した趣味もなかった慎吾は、真っ当な社会人として一年間生活した末に、今では百万円と少しの貯金を築き上げていた。
すると九条が深く頷き、
「なるほど。でしたら百万円で如何でしょう?」
背筋が凍る。九条は何か確信めいた表情で金額を提示したのだ。
慎吾は不気味さを肌で感じながら、頷いた。
「あぁ、本当に叶えられるなら安いもんだ」
「それでは契約成立ということで」
「でもどうやって……」
慎吾が言いきるより前に、九条は指を鳴らした。
同時に強い眠気が慎吾を襲う。抗いようのない睡魔に溺れながら慎吾は眠りについた。
「それでは、夢が現実になった世界へ行ってらっしゃいませ」
*
視界に映ったのは見慣れた天井だった。
「いつの間に帰ってきたんだ?」
一人暮らしをしているアパートの一室。ベッドで慎吾は目を覚ました。
窓の外からは夏の終わり感じさせる穏やかな朝陽が差し込み、僅かに開いたカーテンの隙間からは色鮮やかな青空が見える。それからゆっくりと視線を部屋に戻していく途中で慎吾は気付いた。
「あれ、いま何時だ?」
記憶が正しければ今日は平日の木曜日。会社に行かなければならないのだ。
慌てながらスマホを探す。枕の隣に放り投げられているのを見つけ、時刻を確認した瞬間、首元を冷や汗が濡らした。
「十時……完全に遅刻だ」
慎吾の会社の出勤時刻は午前九時。
まずは連絡しなければと、スマホに入っている連絡帳のアプリを開く。
「あれ……ない」
いつもは登録されているはずの会社の情報がない。
不思議に思いながらも、ネットから番号を調べて電話を掛ける。
数回コールが鳴り、電話が繋がると聞き慣れた上司の声が聞こえてきた。
『はい。お電話ありがとうございます。こちら……』
そのまま続けようとする上司に対し、慎吾は食い気味に、
「あ、倉野です。申し訳ございません。寝坊してしまいまして、今から向かおうかと……」
上司から見えることはないが、深々と頭を下げながら謝罪する慎吾。
けれど、返ってきたのは思ってもみない言葉だった。
『申し訳ございません。どちら様でしょうか?』
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