富で名声が買えたなら
歌奇緋色
第1話
「あぁ、今日も疲れたな」
鈴虫の心地よい音が響く真夜中の住宅街。
そんな涼しげな空気を押し潰すかの如く、
星の見えない東京の夜空。等間隔に並ぶ街頭に照らされた夜道を、慎吾は足を引き摺るように進んでいく。
「仕事行って、帰って寝て、また仕事行って。こんな生活が、あと何十年も続くのかな」
誰に、と言うわけでも無く自嘲気味に笑ってから愚痴を溢す。
「こんな筈じゃ、無かったんだけどな」
慎吾は一年前、夢を諦めた。
小説家への夢を捨て、筆を折ったのだ。
高校を卒業し、大学へ進学した頃。幼い頃から小説を読むのが好きだった慎吾は、読むだけでは飽き足らず、自身で物語を創作し始めた。
完成した原稿を友人にみせたところ意外にも好評で、その頃から慎吾は密かに小説家への夢を抱いていた。
それから四年間。本気で小説家を目指そうと大学を中退し、いくつかの新人賞に投稿してみたものの結果が出ることは無かった。
同い年の友人たちは大学を卒業し、次々と就職していく現実を前に慎吾が小説を書くことはなくなっていった。
以来、彼は就活を経て、都内の中小企業でサラリーマンをしていた。
「酒でも買って帰るか」
薄暗い夜の住宅街の一角。眩しいほどに光を放つコンビニの自動扉を潜る。
この時間帯では他に客の姿は無く、レジで大きな欠伸をしながらスマホを弄る若い店員がいるだけだった。
慎吾はドリンクのある奥の方へと進む。
けれど雑誌コーナーの手前で足を止めた。
コミックの単行本が並ぶ棚。その最上段に面陳された小説へと目を向ける。
『星降る夜の奇跡 著者:雨宮翡翠』
満天の星空に流れる一筋の線と、それを見上げる少年のイラストが表紙に描かれ、帯には『この夏、実写映画化』と大きく書かれている。
「大した内容でもないくせに……俺の書く物語の方が面白いに決まってる」
憎しみと嫉妬が入り交じった目で、嫌に目立つ位置に置かれた小説を睨んだ。
数分ほど、立ち尽くしていたせいかレジにいた青年が訝しげに慎吾を見ていた。
その事に気付いた慎吾は当初の目的を忘れ、そそくさとコンビニから逃げるように出ていった。
「俺だって名声があったらすぐに売れるのに」
さっきの『星降る夜の奇跡』の作者、雨宮翡翠は元々ネット小説の界隈では名の知れた者だった。三年ほど前に投稿を初め、最初の頃は拙い文章ばかりだったが、次第にこなれた文体へと成長し、件の小説が反響を呼び出版されたのだった。
彼がまだ投稿を始めたばかりだった頃、慎吾は先輩風を吹かせながらサイトのコメント欄にアドバイスを書いたりもした。
しかし今となっては遠い遙か彼方まで先へ行ってしまったのだ。
「そういえば結局酒買い忘れたな」
ようやく気付いたが、もう一度コンビニに入る気にもなれず、溜め息を吐いてから帰路に着いた。
入り組んだ住宅街の角を二回曲がったところで慎吾は、ふと違和感を覚えた。
「あれ、こんなところに店なんてあったっけ」
それは古びたアパートの隣にあるこぢんまりとした二階建ての一軒家。一階の部分が喫茶店のような造りになっていて、西洋風な木の扉が僅かに開いている。
その隣に付けられたくすんだ窓からは温かい明かりが見える。
扉の前に置かれた看板には、丸い文字で『リアルドリーム』と書かれていた。
その下に記された注釈を見て、慎吾は足を止めた。
『あなたの望む名声を、良心的な価格で』
胡散臭い言葉だと思いつつも、慎吾は興味を持ってしまう。
止めた足を奇妙な店へと向けて一歩踏み出した。
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