愛の葛藤

小泉霞

透明な時間

 空気はいつも当たり前のように私たちを取り巻き、生かしてくれているが、目には見えないし、ましてや掴むことなど決してできない。

 彼を、空気のようだと思っていた。いつしか当たり前のように私の人生に居てくれるようになっていたが、私にとって、実体を持たず宙を彷徨う空気のような、無色透明で永遠に掴むことができない、そんな存在だった。


***


 雨降りの夕方の国道三号線は、二人の束の間の逢瀬をどうにかして引き留めようと躍起になっていた。電光掲示板には、「二キロ渋滞」と示されている。カーナビの画面の隅に控えめに掲げられた時間表示は、空しくその数を増やしてゆく。交差点に差し掛かる前に幾度となく黄色に変わり、赤に変わりを繰り返している。

 彼に貰った腕時計は、身長のわりには華奢すぎる私の腕には少し大きかった。それでも時計屋に持っていってベルトを調節してもらうのはなぜだか気が引けて、少しくらい緩くても、と、そのままにして身につけていた。

 約束していた和食店に着く頃には、職場を出てから一時間が経っていた。車を見つけて隣に停めると、こちらに気づいた彼がこちらを見てすっと手を挙げた。

「仕事が長引いた?」車から降りてきた彼は頭の後ろに手を当てながら言った。

「ううん。いつもより渋滞がひどかった。何でだろう、金曜日でもないのに」

 小康状態になった雨が、傘を差さずに外に出た二人の体に等しく露を纏わせていく。

「まあ、こうして無事会えたんだからよかった。行こうか」

 彼は、こちらに向かって手を差し出した。掴んだ彼の右手と私の左手は、いつもよりしっとりと水分を多く含んで、手を繋いでいるという感覚をいつもより確かにしていた。

 左手首につけた時計が私の腕からするりと抜けて彼の右手に当たった。

「美知の腕には少し大きかったね」彼は頭の後ろに手を当ててバツが悪そうな顔をしながら言った。頭の後ろに手をやるのは彼の癖だ。

「時計屋さんに持っていって、調節してもらおうと思ったんだけど、何となく気が進まなかったからやめたんだよね」

「そうだったのか」

 なぜ気が進まなかったのか、自分でもよくわかっていなかった。彼から貰った時計を誰かに触ってほしくなかったのか、時計のベルトが減ってしまうことが時計を傷つけてしまうようで気が引けたのか……

「理由は訊かないのね」

「自分でもよくわからないんだろう?」

 彼は、すぐにそう答えた。

「さすが交渉人川上将生だね。あたり」

「俺、何年交渉やってると思ってるの」

 彼の仕事はクライアントとの交渉役だ。顧客の考えていることを瞬時に読み取って優位かつ顧客の信頼を得ながら交渉を進めることができる彼の交渉術は、会社でも一目置かれていた。

「嘘つけないなあ」

「嘘とか、相手の動揺もわかりやすいものだよね」

「やっぱりそうなんだ」

 とりとめもないことを話しながら私たちは和食店の暖簾をくぐった。


 私たちは同じ企業に雇われているが、部署が違う。私は人事部で中途採用の担当をしているし、彼は営業部の交渉役で外勤が多い。今日も、彼は出先から直接待ち合わせにやってきていた。

「予約していた川上です」

「川上様ですね。本日はお足元の悪い中、ありがとうございます。お待ちしておりました。さ、こちらへどうぞ」

 着物の上に割烹着を羽織った女将さんが私たち二人の顔をそれぞれに見て会釈をし、こぢんまりとした座敷へと案内してくれた。

「うちには初めてお越し下さったのですよね。ありがとうございます。お飲み物が決まられましたら呼び鈴でお呼びくださいませ。では、ごゆっくり」

 私たちが座敷に上がって、一息ついたことを確認すると、女将さんはそう言って襖を閉めてその場を後にした。

「こういう店に来るの初めてで緊張する」

「そうなのか。俺もそうそう来ないんだけどさ、同僚がおいしかったよって教えてくれてさ」

「川上さんは外勤とかも多いから、お客さんとかとこういう店によく来るのかと思ってた」

「そんなことないよ。お客さんとは夜の店が多いかなぁ」

 彼はそこまで言って、ははは、と笑った。

「やだ」

 私はそう言って、口を隠しながら笑った。

 彼と目が合って、一瞬だけ、沈黙があった。その沈黙は、今まで二人で過ごした静謐な時間を掻き消してしまうほどに居心地の悪いものだった。

「どうしたの?」

 私は条件反射のように口を開いた。

「いや、別に」

 彼は何か言いたげだったが、口を閉ざした。

「失礼いたします」

 その時、女将さんの声が、襖の向こう側から響いた。助かった、と、胸を撫で下ろした自分がいた。その居心地の悪い沈黙に、私は耐えられなかった。

 その後、次々と運ばれてきた料理はとても美味しかった。居心地の悪い沈黙などなかったかのように、彼と言葉を交わしながら、一口、また一口と食べ進めた。


 彼との時間は楽しかった。たしかに楽しかったのだが、いつも不確かだった。日の当たる場所で手を繋ぐこともできない。友人にすらお互いの存在を知らせることはできない。

私たちの関係は、私たち以外の誰の中にも存在しない。誰にも見せることはできない透明な関係。そして、今二人の間に流れているのは、透明な時間。

「私は、今ここしか生きていないと思ってるんだけどね。いきなり変な話になってしまうけどさ」

「うん」

「いつか、確かな未来が欲しくなるのかな。今ここに、目の前にある時間なんて置き去りにしてでも、守りたいと思えるくらいの未来」

「未知は若いから、白黒つけたがるんだろうね。人生は常にグラデーションだよ」

「若いとか、若くないとか関係あるの」

 人類を二つに分けるような、彼のそういう口ぶりは好きではなかった。

「それは、この関係を肯定してるの?」

「そうだね。さっき言いかけたけど……俺たちは会社で出会って、俺は結婚しているし、未知はまだ将来のことを決めていかないといけないし、いい関係だとは言えないかもしれないけど、いつか未知の言う『確かな未来』が欲しくなった時、お互いから離れたとしても、今の時間を温かく思い出せるんじゃないかと思うんだよ」

 いつか、そういう時が来ることは、この関係を知った時から承知している。

 だから、私たちは友人以上になることを選ばなかった。

「そっか、それならしばらくあなたの言う人生のグラデーションの中で生きることにしてみる」

 私は、そう言って口角を少しだけ上げて見せた。彼は、満足そうに頷いた。

 運ばれていた料理も最後の一品になった。一口を噛みしめるごとに、この透明な時間が胃袋へ消えていく。

 私たちはそれぞれの家に帰り、それぞれに与えられた役割を果たさなければならない。社会の要請によって名前のつけられた、さまざまな色を纏った役割だ。

 いつからか、窮屈で、馬鹿馬鹿しいと思っていたそれすらも、この透明な時間を甘受するようになってからは、案外悪くないかもしれないと思えるようになっていた。

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愛の葛藤 小泉霞 @koizumikasumi

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