第15話

 

 時間は過ぎ、日没を迎えた。複数の案件を抱える愛美にとって残業は避けられず、自宅に着いたのは22時を過ぎた頃だった。夕食は帰路で済ませたので、あとは寝るだけなのだが時間もまだ浅い。コーヒーブレイクには打って付けだった。

 日頃、自宅でコーヒーを飲むときは、専らインスタントを嗜んでいる愛美だが、今日に限っては違う。本格的な味が楽しめると、少しばかり期待を寄せていた。

 愛美は台所に向かい、カップ2杯分をポットに入れ、IHコンロに置く。ハンドドリップにおける熱湯の適正温度は95度前後らしく、火加減に憂慮せず、設定は強。

 完全に沸騰するまでに、暫し時間が掛かる。

水の沸点が100度というのは小学校の理科で履修済みの愛美。しかし、それを95度前後にするとなると、首を傾げてしまう。料理を趣味としない独身女性の家庭に専用の温度計があるはずもなく、方法はないものかと検索すると、水が沸騰してから冷めるまでの推移を見つけた。グラフによると、数分冷ませば95度前後になるとのことだ。

 愛美は脚の長い椅子をダイニングから台所へ移動させ、腰を据える。

 正面には鏡面状のポット。そこには酷く血色の悪い自分が写っていた。

「疲れてるなー」

 くたびれた表情筋を両手でしっかりと愛美は捏ねる。すると、赤みをおびて、全快とまではいかないものの多少の生気は取り戻した。

 気を紛らわそうとコーヒーメイクに拘ろうと思ったが、どうしても脳裏を掠めてしまう。今、直面している窮地が。

 仮にこちらに非がるならば、真摯に受け止め謝罪をしなければならない。相手方に非がるなら、糾弾するほかない。しかし、今回の件に関して、どこに非があるのか。愛美にも、皆目見当がつかなかった。

 ことをうまく運ぶのに一番手っ取り早いは暴露を取り下げてもらうことだが、あの文面からは、どうあっても曲げないという意思を感じる。いっそのこと、事実無根として触れないという選択肢もあるが、インフルエンサー同士ということもあって、不自然さが際立ってしかたがない。やはり、反論するほかないのか……。案外、当人も交えて、誠実に説明責任を果たせば、納得してもらえるかもしれない。愛美はそう思うしかなかった。

 万人が納得する落としどころはどこかと、愛美の思考は堂々巡りしていく。脳内にいる2人の愛美が激論を繰り広げているが、水掛け論の域を出ない。

 ああでもないこうでもない。生産性のない議論は続き、ゴポゴポと沸く音で愛美は現実に戻る。慌ててコンロの電源をOFFにする愛美は、次いでポットの蓋を取った。湧き上がる泡は瞬く間に消え、湯気が上がるのみ。数分のクールダウンさせる間、次の工程の準備を始めた。

 サーバーなる小洒落たものがあるはずもなく、計量カップで代用。うえにドリッパーとフィルターをセットし、おおよそ20gのコーヒーを用いるわけだが、そこで愛美は、はたと気付く。計量スプーンの表記がccであることに。

 猶予は数分。その間に、gをccに変換する公式を検索する必要があった。しかし、お目当てに叶うサイトは見つからない。

「これは——」

 愛美はいくつかめのサイトを、駄目もとでタップ。スクロールするなか、見つけた。

「公式あるじゃん」意気揚々と思案する。


 体積(cc)×密度(g/㎤)=重さ(g)


「……」生粋の文系である愛美は、静かにブラウザバックした。

 決して方程式自体が分からなかったわけではない。ccをxと置き、数値を入れれば中学生でも解ける方程式だが、密度をもとめるのに、ccと同じ体積を表す単位の㎤があることに理解が及ばず挫折した。

 なおもスクロールする愛美であるが、どうにも似たり寄ったりで期待が持てない。もう駄目なのかと匙を投げようとした、その時。着信にスマホが震える。発信者は蔵之介だった。

「もしもし、お兄ちゃん。なに?」

『あれっ、なんだか言葉がぞんざいだけど。もしかして、忙しかった?』

「まあね。コーヒー作ってたの」

『コーヒーを作るのに、そんな時間かからないと思うけど』

「作り方に拘ってるからね」

『そうなんだ。まあいいけど。今週末からお盆だけど、帰るんだよね』

「いやー、どうかな。今週忙しいし」

『去年もそう言って、帰らなかったじゃん』

「そんなこと言われたって、本当に忙しいんだもん」

『父さん、寂しそうにしてたよ。愛美に会えなくて。忙しい忙しい言ってないで、都合付けてさ。帰ってあげなよ』

「無理だよ。仕事も大詰めだし」

『一番手軽な親孝行だと思うけどね』

「だから、無理なんだって」

 終始、能天気な蔵之介の声に、愛美も思わず語気が強くなる。

『無理ってことはないでしょ。有給取れる会社なんだから』

思うところがあるようで、蔵之介は交戦態勢。

「もう——」そんな蔵之介に、堪忍袋の緒が切れた愛美。

「無理だって言ってんじゃん」

 積もり積もったストレスを吐き出すかように、愛美は絶叫した。轟く怒号。普段滅多に激昂しない愛美であるから、声が裏返ってしまう。しかし、そんなことに気を回せる程、愛美に余裕はなく、ただひたすらに見えない相手を睨みつけるだけだった。

 当初、落ち着くためにコーヒーを作ろうとした側面もあるが、この分では役不足になりそうだ。

 そのくらい愛美は、感情が高ぶっていた。

「お兄ちゃんは、働いていないから時間がいっぱいあるかもしれないけど、私は違うの。仕事が立て込んでいるときは、早朝から終電まで仕事してるし、最近は休日返上で働いてるんだから。好き勝手言わないでよ」

 思いの丈を全て吐露する愛美の瞳は、少しばかり潤んでいた。癇癪を起こして泣きべそをかく子供のようで、情けない限りだが、誰も見ていないのだから見栄を張っても仕方がないという側面もある。だから、愛美は嗚咽だけに注意を払い、終始黙っている蔵之介に言い放った。

「何とか言ってよ」

「んー。何とかって言われても……」スマホの向こう側で、考え込む蔵之介。怯んでいる様子はない。

「ありがとうって言うことぐらいじゃないかな」

「ありがとう?」予期せぬ返答に、思考が鈍る愛美。負けじと応戦するが、その言葉には先ほどまでの勢いはなく、言い返すのがやっとだった。

「罵られて感謝するなんて、見ない間にMにでも目覚めたの?」

「僕は、別に罵られたなんて思ってないよ––––」愛美の誹りは、虚しく撃沈。

「昔から愛美は、嫌なことがあっても人前では笑顔を絶やさなかったじゃん。でも、今回は違う。本当にしんどくて、どうしようもなくて……。でも、誰にも言えなくて。だから、俺にぶつけざるを得なかったんでしょ? 文句の吐口にすらしてくれなかった愛美が、歪だけど俺を頼ってくれた。それは兄として嬉しいことだから、ありがとうって」

「何それ……」愛美の頬を、一筋の涙が伝う。

「やっぱりMじゃん」

「ん? そうかな?」

「そうだよ。でも、ありがとう。少し気持ちの整理がついたから」

「それはよかった。サンドバッグになる用意はあるから、いつでも頼ってよ」

「お兄ちゃんがMなことは分かったから、もういいって」

 笑みを浮かべ、愛美は言う。

「全然、そんなつもりは無いんだけどなー」

「冗談だって。とりあえず物理的に今週末に帰省するのは無理だから、実家の方には電話でも入れとくよ」

「そうしてあげて。父さんも母さんも喜ぶと思うから」

「うん。分かった。じゃあ、またね」

「うん。また……」

 通話を切ろうと耳から話した瞬間、蔵之介が何かを話していたが、こと既に遅し。愛美は勢い余って、終了のボタンをタップしてしまった。世話になった手前、罪悪感が芽生えてしまう愛美は、かけ直そうと蔵之介の連絡先を探している最中、けたたましいSNSの通知音に腰を浮かす。

 差出人は蔵之介。バナーには添付ファイル有りの表記がされていた。開くと、そこにはおちゃらける蔵之介と、後ろにはおそらく要領を得ない茜が赤らめた顔でサムズアップしていた。

 そして、間を置かずして、スポッという抜けた音とともにコメントが表示される。

『がんばれ、愛美‼』と。

 いつの間にかポットから立ち込めていた湯気も息を潜め、冷めてしまっていた。再び温め直そうかとも思ったが、今となってはその必要はない。愛美はSNSから今井を探すのだった。

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