第14話
昨晩、就寝前に見た天気予報では終日晴れということだった。しかし、夏の天気は移ろい易く、午前中になってシトシトと小降りの雨が地面を濡らし始めた。昼過ぎにもなれば勢いも増し、持ち合わせの折り畳み傘ではとうとう間に合わなくなってしまった。
道中、コンビニで無個性のビニール傘を買ったが、当然それまでの道のりで肩、袖、その他至る所を濡らす羽目になった。
まったく、なんて日だ。愛美は心中、今日と言う日を呪った。
何かの間違いであってほしい。この扉の向こうには、あの日見た無垢な笑顔を浮かべた橘が、手を振って迎えてくれる。愛美はそう思った。
乱れた身形を整え、いざ、扉に手を掛ける。カランコロンと聞き覚えのある音を鳴らしながら開くドアは、数日前と違って重たい。
相も変わらず店内には、心地良いジャズが響いていた。レトロを基調とした店内はそう広くはない。お目当ての人物を見つけるのに時間は掛からず、視界に捉えた時には目もくれず一目散。
着席するなり、愛美は言った。
「どういうことなの、今井君?」
「どういうことと言われても……」肩をすくめ、俯く今井。折角の巨体が、今日に限っては一回り小さく見える。
「ごめんなさい。今井君を責めても仕方ないよね。それで、何があったの?」
あくまで冷静に愛美は問うた。
「俺にも何なんだか分からないんです。急にDMが送られてきて、それを見たココがショックを受けてしまって、今回の案件は断るって」
「DMって?」
「それは……」言い渋る今井。そこに核心があった。
「他言無用にするから––––」
食い下がる愛美だが、中々口を割ろうとしない今井。
「私には2人が必要なの。だから教えて。お願いします」勢いのあまり、テーブルに額をぶつける愛美。
音とともに、周囲の視線を浴びるが気にもとめない。それだけの腹は括れていた。
そうなると体裁が悪くなるのが、今井の方だ。固く紡がれた口をようやく開けた。
「分かりましたから、止めて下さい。これじゃあ、俺が何かしてるみたいじゃないですか」
今井は徐にポケットからスマホを取り出すと、慣れた手つきで操作する。そして、「どうぞ」と愛美の前に差し出した。
その画面には、SNS上でなされたやり取りが表示されている。当然、数日前に送った愛美のものもあった。それが3段目。
「1番上をタップしてみてください」言われるがまま、愛美はタップした。
表示されたのは数行ほどの文章。入りはこうだ。
『突然のDM失礼します——』
取り立てて、ショックを受けるものではなかった。愛美はさらに読み進める。
『私はあなた方、とりわけ橘こころさんのやっていることが許せなくて仕方がありません。あなたのような嘘つきが若者の心を掴み、先導していくなどあってはならない。だから、私は世間に暴露します。あの時会っていた彼との関係のことを。
近日動画を公開しようと思いますので、覚悟してください』
終始、傲慢不遜な口ぶりに、愛美も言葉が漏れる。
「何なの、こいつ」
「最近、ネットで暴れている暴露系配信者ですよ」
「えっ」
見ると、確かにアカウント名が、差出人の項目にあった。
「ホントだ——。どうしてまた?」
「それが分からないんです。今まで関わったこともないし、いきなり送られてきたから困惑してしまって」
今井に分からないことが、愛美に分かるはずがない。
「そうなんだ。なら、人気を妬んで嫌がらせをしてきたってこと?」
「一概にそうとも言えません。この人が言っている“彼との関係”っていうのは、おそらくココが先輩と付き合ってることを言っているんです。それを踏まえて、嘘つきだと。でも、これは見当違いなんです。そもそも俺とココは付き合っていません。幼馴染なだけです」
「そうね。たしかに二人の動画を見る限り、付き合っているとは明言してなかった——」
「だったら」柄にもなく声高に訴える今井であるが、そんな彼を愛美はぴしゃりと説き伏せる。
「説得できるって。それは正直、難しいと思うよ。今井君が言いたいのは、『僕と橘さんはお付き合いしていません。だから、橘さんが誰と付き合おうが自由です』ってことでしょ。理屈は通ってるけど、視聴者は穿った目で見ると思うよ。苦しい言い訳だってね」
「俺たちのフォロワーはそんな人達じゃありません」
「信じたい気持ちは分かるけど、同調圧力ってのもあるし。一定数の否定的な意見があれば、どれだけ好きでも人って疑っちゃうからね」
「じゃあ、どうすれば」
「私にも分からない……」力なく愛美は呟く。
代役は立てなかった。2人以外にないと思ったから。
橘の無邪気で罪のない笑顔。それと対比されるのが、今井の大人びた雰囲気である。そんな彼らが、浴衣姿で祭りを練り歩く。まさに青春のそれであった。しかし、今や砂上の楼閣。
「俺、ココのあんな声もう聞きたくないよ」
大人びているとは言え、実年齢はまだまだ若い。年相応に感情を露わにする今井を見て、愛美も気を病む。彼らと愛美は一蓮托生の身であるから、どうにかしなければならない。事実関係を明らかにし、動画投稿された際には、名誉棄損で裁判に持ち込む。
そんな時間がないことは、論を俟たない。万事休すとはこのことだ。
「今井君。私、帰るわ——」脈絡もなく、腰を上げる愛美。
「折角来てもらったのに、何もご馳走できなくてゴメンね」
「いえっ、大丈夫です。こちらこそ、俺たちに期待してもらったのに、こんな最後になるなんて」
「勝手に終わらせないで、と言いたいところだけど、正直私もお手上げ。間藤さんにも相談してみるから、連絡待ってて」
「はい。お願いします」代わって今井が、テーブルに額を付けた。
「うん。じゃあね」
愛美は言い残し、カウンターへと歩を進める。レジの横に据えられていた店オリジナルブレンドの挽きたてコーヒー豆を2袋と、ドリッパー。そして、フィルターを購入し、店を後にした。
いまだ雨は強し。傘立てを見ると、置いたはずのビニール傘がそこにはなかった。
ホント、なんて日よ——
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