第9話

前略

 酷暑到来の候、ますますご健勝にお過ごしのことと存じます。

 実は昨日、後藤次長と工藤さんと私で、『ねおん』という居酒屋に行ってきました。居酒屋と言っても、いつも行くような所ではありません。調度品や内装が豪華絢爛で、万華鏡の中にいるようでした。それでいて、出される料理は家庭的な物ばかり。まさに新感覚。

 私が食べた、旬野菜のチョレギサラダ、鶏軟骨のチリソース和えと醤油ラーメンは、どれも美味で、思わず舌鼓を打ってしまうほどです。もし宜しければ、後日一緒に食べに行きましょう。

                                    草々

 七月二十八日

                                  三枝愛美

青葉渚様



追伸 ミッション遂行中。任せて♡


「これを写真に撮ってと、青葉ちゃんに送信」

 慣れた手つきで愛美はスマホを操作する。そして、意気揚々と送信ボタンをタップするのだった。

「これでよしっ」さながらキーボードのエンターキーを押した気分である。

「あなた、朝から何をそんなに必死に書いているの?」

通常運転の工藤。その声音からは、おおよそ昨日の人物とは思えない。

「ちょっとね」愛美ははぐらかすも、工藤はまったく動じない。

「そう。別に構わないけど、もう始業時間よ。トイレには行ったのかしら? またどやされるわよ」

「抜かりなし。今日は大事な日だからね。さっき行っといた」愛美はピースサインとともに答える。

「なら良かった。連日、部長の怒鳴り声なんて聞きたくないもの」

「だね。でも、その言い方だと、原因がいつも私にあるように聞こえるけど」

「いつもとは言わないけど、大抵あなたではある。きっと部長、あなたのこと好きなんじゃない。ほら、言うでしょ。好きな子には意地悪したくなるって」

「それは冗談でも止めて」不本意極まりなかった。愛美は目の前まで詰め寄り、抗議する。

 仰け反る工藤。呆気に取られて、目をぱちぱちさせていた。

「わ、分かったわよ。だから、離れなさいよ」

無理矢理引き離された愛美は、勢いよく椅子に座ると、腕を組み険しい表情で工藤を見る。

「ごめんなさい。そんなに怒るとは思わなかったの。今度、スイーツ奢るから、勘弁してちょうだい」

「良かろう。許す」待ってましたと言わんばかりに、打てば響く受け答えをする愛美。

「まったく、現金な同僚なんだから」

 始業10分前。愛美、工藤ともに、昼食後の一息を吐いている最中のことであった。それが愛美にとって、いつも通り。平時を過ごしているつもりだが、今日に限っては心中穏やかでなかった。原因は午後からの打ち合わせにある。青葉の代打に立たされた案件。青葉の顔に泥を塗らないようにというプレッシャーもさることながら、部長付きというのが、何よりも愛美の胃を痛めた。

 通常であるならば、青葉のような新人でない限り1人に数件の案件というのが定石である。だから、イレギュラーとは言え、そうなると思っていた。しかし、蓋を開けてみると進行表には田辺の名前はそのままに、青葉の名前だけが消されていた。

 それを知ったのが、今朝のことである。ショックのあまり愛美は、膝から崩れ落ちてしまった。今や膝小僧も、かつての愛くるしさは無くなり、無残にも変色している。

 愛美の健康状態は、戦場に赴く前から芳しくなかった。

 それでも、愛美にはやらねばならぬことがあった。いくら膝が痛くとも、いくら田辺に嫌悪感を抱いているとしても、目の前で後輩に泣かれてしまったら手を差し伸べずにはいられない。それが工藤に言わせてみれば、優しすぎるとのことだが性分故に、それこそどうすることもできなった。

「腹は括れているのかしら?」

 不意に呟く工藤。咄嗟のことで愛美は聞き逃してしまう。

「えっ」

「午後から決戦でしょ。腹積りの方は如何かしら?」それでも至ってマイペースな工藤。

「うん。それはもう」鼻を鳴らし、粋がる愛美。

「何その顔? 引き攣ってるわよ」

「嘘っ?」愛美は、むにむにと頬を解す。

「気負いすぎ。大将がそんなでどうするの?」

「大将だなんて、やめてよ。プレッシャーになるじゃん」一層眉を顰める愛美。方や、工藤はフフッと上品に笑う。

「冗談だから、気にしないで。それに次長もいることだし。きっと大丈夫よ」

「ホントかな」

 その根拠の所在を知りたいところではあるが、確かに言い知れぬ雰囲気はあった。愛美の中でデスクにいないで有名な後藤が、ランチタイムになっても在席しているではないか。それは社内全体の共通認識だったようで、口々に囁いていた。

「次長どうしたんだろう? 午前中からいるけど」

「今日は嵐の予感」

「季節外れの雪とか」

「いやっ。槍が降るね」

 酷い言われようであった。しかし、それを否定する者など一人もいない。なぜなら、紛れもない事実であったから。評価していると思われる工藤でさえも、肩を竦めるしかなかったようだ。

 では、何故工藤はそこまで後藤を評価するのか。愛美の知らない、否、社員全体も知らない後藤の意外な一面があるのかもしれない。

 今一度、愛美は後藤へと視線を送る。出入口から反対の位置。一番奥に、後藤は田辺と並んで鎮座していた。田辺は何やら机に噛り付いているようだが、仕事をしているというわけではなさそうだ。一方の後藤はと言うと、踏ん反り返って文庫本を読んでいる。呑気なものだ。

 数秒間、後藤を観察していた愛美。いくら鈍感な人間だとしても、視線に気付くのには十分な時間だ。

 両者の視線がぶつかり、後藤が不敵な笑みを浮かべ、愛美もそれに釣られてしまう。悪巧みをする少年のようなその表情からは、何かをしようとしていることは読み取れた。それが本当に場をかき乱そうとしているのか、それとも要所で助け舟を出してくれるのか。どちらにせよ、戦において場を混乱させるというのはよく使われる戦法であり、それが事前にわかっているのなら、それはアドバンテージ以外の何物でもない。

 愛美は不安という暗雲のなかでも、一筋の光を見た気がした。

「……」だとしても、完全に払拭されたわけではない。

時は始業間近。刻一刻と長針が頂きを目指すのと比例して、愛美の心拍数も上昇していった。そして、その時が来る。

 休憩時間も残り数分となると、駆け込んでくる社員も少なくない。頻りにドアを開けたり閉めたりする音がする中で、愛美は聞き覚えのある声を聞く。

「失礼します––––」

愛美が声の主に視線を向けると、そこには社員ではない者が2人、紛れ込んでいた。ネイビーのスーツに身を包んだ男性と、これまたスーツが映える女性。いつか見た間藤と、同伴していた女性だった。

「田辺部長と三枝さんという方はおられますか?」間藤の声が響く。

 愛美は条件反射のごとく腰を上げるが、それよりも先に、田辺の第一声が放たれた。

「お待ちしておりました。間藤さん、佐倉さん。外、暑かったでしょ」

いつもより高揚した声、気遣う言葉。愛美が入社して以来、どちらも田辺の口から聞くのは初めてだ。人によって態度を変えることは稀にあることだが、ここまであからさまに変えられると返って清々しい。

呆れて口を閉ざす愛美。その背後を、慌ただしく田辺が駆けて行く。「会議室、準備しとけ」という言葉を添えて。

「まあまあ、こちらで涼んでから始めましょう」

この、人の変わりようだ。後藤の声を背後に、腸煮えくりかえるのを愛美は必死に抑え、110坪ほどあるオフィスを横切る。営業兼企画部の隣にマーケテイング部、そして、制作部を抜けた先に会議室はあった。

「今から打ち合わせだぞ」不意の声にも関わらず、愛美はピクリとも反応しない。

「分かってますよ。何ですか、後藤さん」

 気にしないようにしていた愛美であったが、その呑気な声に思わずぶっきらぼうになる。

「何ですかって、先輩からのアドバイス。打ち合わせにそんな顔で挑むなよ。印象悪くなるぞ」

「分かりました——」そう言って愛美は、振り返る。

「これでいいですか?」

「怖っ」

 愛美は口角を上げて見せるも、後藤には不評だった。

「大きなお世話ですよ。って言うか、後藤さん。今日朝から社内にいるじゃないですか? どうしたんですか?」

「どうしたんですかって、なんだよ」

「だって、いつもいないじゃないですか? ご存知ないかもしれませんが、次長、噂になってますよ。サボってるって」

 かく言う愛美もその一人であるが、決しておくびには出さない。

「みんなにそう思われてたんだ、俺。悲しいな」

 後藤の声に抑揚はない。本当にそう思っているのか。愛美が視線を向けると、そこにはいつもの後藤がいた。

「それ、本当に思ってるんですか?」

「いやっ。思ってない」

 その潔さに感服する愛美。しかし、思惑が交差する現代では、生きずらかろう。若輩者ながら、愛美は助言をした。

「そんなんじゃ、孤立しますよ」

「別にいいよ––––」

 変わらぬトーンで呟く後藤。虚勢を張っているわけでもない。はたまた、諦めているわけでもない。それは確固たる考えのもとに、放たれた言葉だった。

「急に黙るのはやめてくれよ」

「すみません。寝耳に水だったもので。……後藤さんは、一人になるのが怖くないんですか?」

「少なくとも、ここで一人になったとしても、大して怖くはないな」

「それは、強靭なメンタルですね。私なんか、周りの目が気になって仕方がありませんよ、嫌われたくないばかりに」

「三枝——」多少感情の籠った声。それは呆れか……。

構えず振り向いた愛美は、少し呆けた表情になっていたかもしれない。そんな愛美を気にする素振りも見せず、後藤は言った。


「お前の全てって、ここだけなのかよ」


 愛美は、防具なしで顔面を殴られた気分だった。それも躊躇なく。

防御もしていないので、カウンターも出来ない。できるのはただ一つ。取り繕うように、虚勢を張ることぐらいだった。

「そんなことないですよ」

「なら別に、嫌われたっていいじゃねえか。

本来、会社は、仕事をするところだ。やることやってりゃ、文句言われねえよ。現に俺だって、他の連中に蔑まれているが、やることやってるからクビにはなってないだろ」

その正論パンチに、愛美は再び眩む。返す言葉もなかった。

愛美は口を閉ざし、後藤も持論を展開し終わると押し黙る。眼前には会議室。間を繋ぐ会話としては、カロリー高めだった。これから打ち合わせだと思うと、愛美の気もそぞろ。一層、表情に陰を落とした。

会議室の扉まで数メートル。あの扉に入ってしまえば、問答無用でやらねばならない。しかしながら、その数メートルという距離が、果てしなく遠い。

いっそ、このまま着かなければいい。愛美はそう思った。

「痛っ」

唐突に肩を叩かれた愛美は、思わず眉間に皺を寄せる。犯人は当然、後藤。

多少の憎しみを込めた眼差しを向けようとする愛美であるが、そんな視線に目もくれず、後藤は素通りする。深層心理が行動として表れていたことは否めない。だとしても、叩くことはないだろう。愛美は文句の一つでも言おうと、口を開くも、後藤に遮られて間抜けな表情になってしまった。

「まあ俺の生き方を、強要するつもりはねえよ——」

前に出た後藤は、滑らか所作で会議室の扉を開ける。そして、中へとエスコート。「人間は、桜梅桃李だ」と後藤はしたり顔だった。

「そうですね」後藤のフォローも空しく、愛美は辛辣な言葉を投げかける。

「えっ、それだけ」

「はい。それだけです。……あっつ」

終始真顔であった愛美だが、会議室に入った途端、纏わりつくような熱気に襲われ、思わず顔を顰めた。思考するより先に、手が伸びる。乱雑に付けられた明かりは一部しか点灯しておらず、何よりも冷房を効かすことに余念がなかった。

 ピッという起動音の後、天井に設置されているエアコンのファンが回り始める。

完全に冷房が効くまでに、しばらくの猶予があった。田辺もそれを見越しての四方山話のはずだろう。

愛美は欲求に抗えず、エアコンの下を陣取ると、優雅に資料で扇ぐのだった。後藤の、「さきにモニター点けろよな」という言葉に目もくれず。

「はあ」首筋から腹に至るまで、一陣の風が通る。大きく息を吐く愛美は、恍惚の表情だった。

 そんな表情を例外を除けば同じ会社、同じ部署の人間という極めて限定された者以外に、見られたくはなかった。あまつさえ、取引先である間藤一行に見られるとは、痛恨の極みだった。

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