第8話

 都内某所。そのお店は、賑わう通りから少し外れた場所に、ひっそりと佇んでいた。

 オフィスの最寄駅から、2つ目の駅。徒歩5分のところ。

木目調の柱に漆喰の壁。外装からはどのような店なのかは判別がつかず、分かるのは店名だけ。暖簾に『ねおん』とあった。

『ねおん』と言えば、米国のダイナーや歌舞伎町の門など、煌びやかに発光するネオン管を思い浮かべるが、それとは正反対の印象である。

「もう始まってるかな」視線を腕時計に落とすと、針は19時46分を指している。待ち合わせ時間は7時半。すでに16分の遅刻だ。

 愛美は上下する肩を必死に抑え、一歩踏み出す。暖簾を掻き分け、愛美はドアの前に立った。ガラス張りということもあって、店内の様子が窺える。丁度ホールの女性が、カウンター席の食器を片付けている最中だった。

 そこまで、数秒。ついに店員が愛美に気付き、笑顔で会釈されるも、ドアは一向に開かない。

「……あっ、引くのか——」ガタつくドア。

 しかし、開かない。今一度試みるが、ガタつくだけでやはり開かない。そこまでドアを開けるのに紛糾している人間が、客でないはずがない。店員は、そう思ったのであろう。表情を変えることなくドアに近付く。すると、軽々と開けた。pullだった。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

 顔を赤くしている愛美に対しても、あくまで店員は事務的だ。しかし、それが返って愛美の救いになっていた。

「待ち合わせなんですが……」と愛美は体裁を整える。

「ああ、三枝様ですね。承っております。こちらへどうぞ」

 表情そのままに店員は、足先を店の奥へと向けた。連なり、愛美も奥へと進む。

 外からでは窺えなかったが、カウンター席の正面には2人掛けのテーブルが3卓あり、すでに残り1卓となっている。その中に、後藤の姿はない。2組とも男女のペアで、出で立ちから会社員ということが分かった。そんな彼ら彼女らが口々に呟く。

「これ美味しい」、「これも美味しい」と。

 頻りに囁かれる美味しいという言葉で、俄然、魅力を感じてきた愛美。期待に胸を膨らませ、通り際、目の端でテーブルに並ぶ各々の料理を盗み見た。

 唐揚げ、枝豆、チヂミに、ポテトサラダ、如何にも居酒屋のメニューである。外装、内装ともに落ち着いた雰囲気の店であるから、てっきりフレンチを想像していた愛美。虚は突かれたものの、美味しいのであれば何も文句はなかった。

 入口からだと死角になっていた奥への通路。正面にはTOILETと墨痕で書かれた暖簾があり、左右には4つの個室が並んでいた。左方に白虎の間と玄武の間、そして右方には朱雀の間と青龍の間。それぞれにプレートが掲げられていた。

 愛美が通されたのは、玄武の間。近付かなければ分からなかったが、全ての部屋の戸にトイレの暖簾と同じ筆致で、名前があしらわれていた。

 

 コンコン––––。


「失礼致します。三枝様がお越しになられました」

「どうぞー」室内から聞こえてきたのは、まごう事なく後藤の声。しかし、語尾が怪しい。

「失礼致します」店員は再度、断りを入れゆっくりと引き戸を開けた。

 最初に目についたのは後藤。危惧していた通り、口元は緩み目はとろけていた。愛美は、その姿を見て思う。仮にお酒が弱いとしても、開始15分でこうはならないだろう。さては開始前から飲んでいたな。一体、何時からスタンバイしていたのやら。

「おう、三枝。遅いよ」口を開けば悪態をつく後藤。人柄なのか、不思議と嫌味はない。

「仕方ないじゃないですか、残業してたんだから」負けじと愛美も反撃する。

「別に、急ぎじゃないんだろ? 明日でいいじゃん。気を遣って、お酒が美味しく飲めなかっただろが」そのわりに十分酔いは回っているように見えるが、愛美は咎めなかった。

「申し訳ございません。仕事ができなくて——。あっ、もう大丈夫です。ありがとうございました」

 愛美は軽く会釈をし、店員に別れを告げる。店員もそれに倣って頭を下げるが、最後まで事務的だった。彼女の背中を見送り、入室する愛美。そこいた予想だにしていなかった人物を見て、思わず目を丸くした。

「お疲れさま」声の主は工藤である。

「う、うん。お疲れ様。なんで?」

「何でって、ご挨拶じゃない。居ちゃ悪かったかしら?」

「そんな事ないけど……」

「次長を説得するんでしょ。人員は必要じゃない?」

 ここまで話を大きくしてしまった手前、後戻りは出来ない愛美。強行突破するしかなかった。

「うん、そんだね。寧々ちゃんがいてくれるなら心強いかな」

口が達者な工藤でもあるし、何より抗議するのに一人でも多くの意見があった方が説得力も増す。無下にする理由はなかった。

「そうでしょそうでしょ」上機嫌な工藤。稀に見る彼女の様子に、怪訝な面持ちを向けざるを得ない愛美。

「もしかして寧々ちゃん、酔ってる?」

「もしかしなくても酔ってるわよ」グラスを傾けつつ、工藤は言った。

 そんな彼女の右隣、後藤で言うところの正面。愛美は腰掛ける。

 頬の紅潮は見受けられない。しかし、言葉の端々に、いつもはない余計な感情が込められている。信頼性が著しく損なわれた。

「心配だなあ」

 愛美は着席するや否や、用意されていたおしぼりで手を拭き、早速メニューを開いた。隣で工藤が「心配なさい。私どれだけ飲んでも、記憶だけは飛ばし事ないから」と弁明しているが話半分である。

「このお店、何が美味しいんですか?」

二人の傍らで、舌鼓を打つ後藤へと話を振った。

「何だろうな。いまテーブルの上にあるのは、全部美味しかったけど」

「えっ、ここ行きつけの店じゃなかったんですか?」

「うん。美味しさが約束された店に行っても面白くないだろ」

「そうは言っても——」愛美は口元に手を当て、声を潜める。

「ハズレっていう場合もあるじゃないですか」

 それを聞くなり、大笑いする後藤。

「だとしたら、それは口に合ってないだけだろ。店側もお金を貰おうとしてやってるんだから、根性の腐った者じゃない限り不味い料理は出さないと思うけど」

「確かに」ご尤もな意見である。

 話しながらも、メニューには目を通していた愛美。名称に魅力を感じていたものの、保留にしていた料理がいくつかあった。後藤は、おそらくチャレンジ精神を問いたいに違いない。愛美は意を決して、呼出ブザーを鳴らした。

 音は聞こえない。しかし、間もなく戸がノックされた。

「失礼致します。ご注文がお決まりでしょうか?」

 店員は相変わらず事務的である。

「はい。えーっと、鶏軟骨のチリソース和えと、チョレギサラダ、あと醤油ラーメン。それとレモンサワーをお願いします」

「かしこまりました。お出しする順番などに、ご要望はありますか?」

 出す順番? そんなこと、コース料理を食べたとき以来、聞かれたことがなかった愛美である。況してや、居酒屋で聞かれるとは、思いもよらなかった。

「そう、ですね。……チョレギサラダ、鶏軟骨のチリソース和え、醤油ラーメンの順番でお願いします」

「承知しました。レモンサワーはチョレギサラダと同じタイミングで宜しいですか?」

「はい。それで」

「直ぐにお持ちしますので、少々お待ち下さい」先程と同じ角度でお辞儀をする店員は、部屋を後にした。

途端に静寂が訪れる。

 工藤は、何食わぬ顔で柳葉魚を頬張り、愛美と言えば、高級感漂う内装に見惚れていた。そうなると、手持ち無沙汰になってしまうのが後藤である。チビチビとお酒を啜っていたが、それもどうやら限界に達したようだった。

「それで三枝、相談事って何だよ? 早くしなと、完全に酔いが回るぞ」

「私、到着してまだ10分も経ってないんですが」

「俺たちはすでに1時間経っている」

「正確には、1時間と7分です」工藤が横やりを入れた。

「きっちりしてるな、工藤は。でも、まあどちらにせよ。酔うには十分な時間だろ」

 半ばとろける眼の後藤が言うので、言葉の説得力が大幅に上昇している。

残業の疲労を一杯のアルコールで洗い流したかった愛美であるが、それも許されなかった。

「後藤さん、青葉ちゃんのこと聞いてますか?」

「青葉? あー、部長が何か言ってたな。休職するんだって」後藤は然もありなんと言いたげである。

「それだけ。他に無いんですか? 管理職として」仰天する愛美に対して、後藤は至って冷静だ。

「ないよ、特に。俺は来る者拒まず、去る者追わずの精神だからな」

「はあ」年上ということにも構わず、愛美は声を荒げる。

「もしかして、後藤さんも部長と一緒で、辞職を望んでおられるんですか?」

「そこまでは言わねえよ。でも、休職するんだろ。理由が理由なんだから、復職するのは厳しいと思うけどな」

「それを何とかするために、後藤さんに相談するんじゃないですか」

「えっ」あからさまに嫌そうな顔を見せた後藤は、さらに続けた。

「俺、やりたくねえよ。部長の説得なんか」

 嘆く後藤であるが、それを諭したのは意外にも工藤である。

「言って聞くような人なんですか、あの人?」

「聞くわけねえだろ。素直に他人の言う事を聞くような人間なら、ああはならねえよ」

「ですよね」と工藤、そして、「だから」と繋ぐ訳だが、何やら長方形に丸めたおしぼりを、愛美の口元に向けるのだった。戸惑う愛美に構わず、工藤はマイク仕立てのおしぼりを、置き続ける。

「えーっと、私、三枝愛美は田辺部長を引きずり下ろすことを宣言します」工藤を窺いながらの一幕である。

「はい、よく言えました」一通り場をかき乱した工藤。自分の役目を終えたと、アルコールを一口飲む。

 4畳半という手狭な空間で、不相応と言われる程度に声を張った愛美。ゆえに後藤に聞こえていないわけがなく、反応がないということはすでに夢の国で小人と輪になって踊っているのだろう。

 それにしても変わった入眠の仕方だった。後藤は俯き、肩を小刻みに揺らしている。次第に動作が大きくなったと思いきや、急に後藤は笑い出した。その程度と言えば、あの事務的な店員がノック無しに駆け入るほどである。

 手にはトレイ。チョレギサラダとレモンサワーが載っていた。しかし、配膳するより先に店員は、声掛けをする。

「お客様、他のお客様もおられますので、大声を上げるのはお控えください」

「すみません。つい盛り上がってしまいました。気を付けます」丁寧に謝るも、後藤の口は緩んでいる。

「くれぐれも宜しくお願いします」

 店員は釘を刺し、速やかに配膳を済ませると退出していった。余韻が残る後藤は、再び肩を揺らし始める。声を殺す代わりに、涙を拭っていた。その傍らで、見合う愛美と工藤。後藤の笑いのツボが理解できないでいた。

「スマンスマン。面白過ぎた。やっぱり面白い奴だよ、三枝は」

「それ馬鹿にしてますか」

「んなわけないだろ。会社をより良くしようとする奴を、馬鹿になんかしないよ。俺も賛同する。ほら、グラス掲げろ」

促されるまま愛美は、結露まみれのグラスを掲げた。一方、左隣の工藤は、我関せずと言うふうに、シシャモに手を付けようとしている。それを後藤が許すはずもなく、巻き込むのだった。

「工藤も」

「私もですか?」

「当たり前だろうが——。よしっ、用意はできたな。じゃあ、行くぞ」

 雰囲気に飲まれ、愛美は背筋を伸ばす。

「ワールドスクエアに栄光あれ。乾杯」

「か、乾杯」

控えめな愛美。グラスを掲げるだけの工藤。

協調性が乏しい3人。前途多難であるが、これがのちに言う『ねおん同盟』である。

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