第7話

 場所は京都。本能寺にて、かの織田信長は言い放った。

「これは謀叛か。いかなる者の企てぞ」

「明智の手勢と思われます」顔を伏せ、側近である森蘭丸は叫ぶ。

それを聞いた信長。苦虫を噛み潰したような表情で言った。

「……是非に及ばず」

 昼食の残り香漂うオフィス内。始業5分前というのに駄弁りながら昼食をとっている者、その一方で既に打鍵音を鳴らしている者。各々が用事を済ませている中で、愛美は椅子に浅く座り、胃休めを行なっている最中だった。

「ふーん」スマホに目を落としつつ、愛美は呟く。

 

 憎き田辺部長を引きずり下ろす——


 昨日の青葉とのやり取りを思い返した愛美。ふと『下剋上』というワードが脳裏に過ぎり、休憩中ということもあって検索したという経緯がある。

「それ独り言?」隣でお茶を啜りながら、さも興味なさそうな工藤。

「薄情な寧々ちゃんには教えてあげない」

 男の気を引こうとするあざとい女性宜しく、愛美はそっぽを向く。それは愛美にとって渾身のギャグであり、辛辣ではあるものの工藤なりの最適解を得られるものと信じていた。しかしながら、返ってきたのは素っ気無い態度と言葉で、笑いの『わ』の字もなかった。

「別にいいわよ。大して興味ないから。無視したらしたで、うるさいから聞いてみただけよ」

「もう。そんな言い方ってないよ、寧々ちゃん。冗談じゃん」

 愛美は工藤に縋ろうとするが、彼女の手にはコップ。当然ながら、スルりと交わされた。行き場を失った愛美は空を泳ぎ、無惨にも椅子から崩れ落ち醜態を晒す。

「イタタタッ、……酷いよ、寧々ちゃん」スマホを守ろうと体を捻った愛美は肩を強打。顔を顰めながら、自分の椅子にしがみ付いた。

「酷いって、あなたには言われたくないわ。あのまま揺らされてたら、私がびしょ濡れになるでしょ」

「だってさ……。私どうしたら良いかわからないんだもん」愛美は椅子に項垂れる。

「何の話よ」

「昨日、青葉ちゃんに部長を引きずり下ろすって言っちゃったんだよね」口元に手を 添えつつ、蚊の羽音程度の声量で言う愛美。

 プロジェクトは別とは言え、チームが同じということもあって青葉の状況も多少把握している工藤。珍しく感情の籠った笑みを浮かべていた。

「それは、大それた宣言ね」

「じゃあ、助言の一つでも頂戴よ」

 嘆く愛美の他所で、工藤は空を仰ぎ思案する。

「そうね……、次長にでも相談してみたら?」

「えっ」あからさまに顔を歪める愛美。

「あなたの言いたいことは分かるわよ。でも、人って見た目によらないってこともあるじゃない?」

 言われるも、素直に首を縦に振れない愛美。

 田辺に一家言あるように、次長である後藤にも同じような印象を持っていた。オフィスにいることは稀で、たまに打ち合わせに出席していると思いきや上の空。それを見ていた愛美であるから、彼に対する信頼度も極めて低く、胸にある一物を解消できるとは到底思えなかった。

「ホントかな」

 疑念を抱く愛美に対して、押すことを止めない工藤。

「決めるのはあなただけど、藁にもすがる思いなら話すだけの価値はあるんじゃない。だって、話すだけならタダでしょ」

「そう、だね。仕事に対しての姿勢は兎も角、部長のように暴言吐いたりしないと思うから。うん」ここでようやく愛美は頷いた。

「相談してみるよ」

 となれば、善は急げ。始業まで数分あるが、居ても立ってもいられず愛美は腰を上げる。見たところ、次長の席はやはり空席。喫煙ブースだろうと、歩を進めようとした矢先。工藤が「あっ」と声を上げた。それに後ろ髪引かれた愛美は、思わず視線を向ける。

 言葉を失う愛美。その視線の先には、眉間にくっきりと皺が刻まれた田辺が立っていた。最早、その表情からは怒っているのかそうでないのかを読み解くのは難しく、それぐらい田辺の顰め面は板についていた。

「オイ、三枝」威圧感の籠った声音に、愛美は肩をすくめる。

「もう始業時間だぞ。どこ行くんだよ」

「ちょっと、次長に話があって」

「あいつ、今日、取引先の専務とゴルフだから来ねえよ」

「そうなんですか……」

「それより、お前さあ」田辺は苛立ちを露わにし始める。

「これなんだよ?」

 そう言う田辺の手にはポストイットが一枚。見覚えのある黄色い正方形のタイプのものである。というか、愛美が出社時田辺のパソコンの端に貼り付けていた物だ。角が立たないように謙譲語、丁寧語、尊敬語を織り交ぜながら、流麗な文字で書いたつもりだが、それでも田辺にはお気に召さなかったようだ。

「ポストイットです」答えに困り、捻り出したのがそれだった。

「ンなこと聞いてんじゃねえよ」案の定、檄を飛ばす田辺。

「じゃあ……」

「ったく。こういうことは口頭で言うもんだろうが」

「すみません。でも、午前中は時間取れなくて」

「なら、昼休み中に来いよ」

「はあ、すみません」

 落胆したと言いたげに、田辺は大きく息を吐いた。

「使えねえ部下を持つ俺の身にもなってくれねえかなあ」

 問いかけではない。威圧である。

「なんで休職なんだよ。話を付けに行ったんじゃねえのかよ。仕事を途中で投げ出すような奴、いらねえんだよ」

 ひたすらに追い込む田辺。それに対して、愛美は押し黙るしか出来なかった。

「何とか言えよ」

「すみません」

 愛美は俯き肩を震わすだけで、反抗はしなかった。そんなだから、田辺の怒りをさらに買い、オフィス中に聞こえんばかりの盛大な舌打ちを繰り出した。

「それしか言えねえのかよ。ったく」

 田辺はそう吐き捨てて、自分の席へと帰って行った。そんな姿を愛美が目で追うはずもなく、ゆっくりと席に着く。デスクの上に置かれた拳は尚も固く握り締められ、愛美は一点を見つめたまま動けなくなってしまった。

「大丈夫?」

 心配した工藤が声を掛けるが、そこまで気が回らない愛美は、ぎこちなく首を縦に振るだけであった。

 視界には捕らえないが、否応なく田辺の足音だけくっきりと捕らえていた愛美。その足音が、そのキャスターを引く音が、その大きな溜息が。彼の一挙手一投足が一々癇に障って、神経を苛立たせた。今なら分かるかもしれない。むしゃくしゃして犯行に及ぶ若者の気持ちが。

 しかしながら、当然のごとくそんなことが出来るはずもなく、精々出来たとしてもデスクにあるペン立てを投げ付ける。そのくらいだ。だから、愛美はペン立てを握るが、なけなしの理性が邪魔をしてどうしても持ち上げることができない。情けない限りだ。それも愛美にとって、苛立ちの要因となっていた。

「ねえ、ホントに大丈夫」

 ノルアドレナリンの大量分泌により、我を忘れていた愛美。肩を揺すられた刺激で感覚を取り戻した。

「うん。大丈夫」

 肯定するも、工藤は納得していない様子だ。

「……もう。どこが大丈夫なのよ。行くわよ」

 工藤の思わぬ行動に、愛美は「えっ」と声を漏らした。手を引かれ、席を後にする二人。そんな二人を田辺が見逃すはずがない。間もなく、呼び止められた。

「どこ行くんだよ、お前ら」

「お花摘みです」工藤が答える。

「始業すぐじゃねえか。昼休み中に行っとけよ」

「すみませーん」その言葉に、一握りの感情さえ込められていなかった。

「三枝、お前のパソコンに資料を送信しておいたから、目通しておけよ。後輩の尻拭いは先輩の仕事なんだからな」

「はーい」

「お前には言ってねえよ、工藤」

「すみませーん」

 田辺の悪態にもめげない工藤。歩みを止めることなく、スタスタと出口の方へと向かった。

「どこ行くの?」

「給湯室」

「トイレじゃないの?」

「いいから。その手じゃ、仕事できないでしょ」

「えー、私、そんな汚い手してないよ」

 釈然としない愛美。掌を表に向けると、見知らぬ赤黒い液胞があるではないか。それが何だろうと意識し始めた途端、両手がジンジンと鈍い痛みを訴えかけてきた。言うまでもなく、血である。

「な、何じゃこりゃ」

 迫真さに欠けるものの、いつか見た刑事ドラマで言っていたセリフを、そのまま呟く愛美。工藤と世代は、そう変わらないものと認識している。だから、この緊迫した状況を緩和できる、粋な一言があるものと愛美は信じて止まない。

 それは世紀の瞬間だった。

「ジーパンに履き替えてから出直してきなさい」

 正直、半信半疑であった愛美。いついかなる時でも隙を狙っては、工藤に話を振っていたが、冷めた目であしらわれてきたという過去がある。てっきり今回もそうなるものと高を括っていたが、状況が状況である。こと今回に関しては、バフがかかっていたのかもしれない。

「ほら、くだらない事言ってないで早く行くわよ」

 矢継ぎ早に言う工藤。照れ隠しにも見えた。

「はーい。ありがとね、寧々ちゃん」柔和に笑い、愛美は言った。

「ホント。世話が焼けるんだから」

 当然、表情は見えない。しかし、その声音は明らかにはいつもと違うことは分かる。

 ピンと張った緊張が解れて安堵したようなそれを聞いて、愛美の頬も綻び、バフがかかっていることを確信した。


「どれだけ強く握りしめたら、こんな血が出るのよ」

 給湯室に着いた愛美と工藤。開口一番の言葉がそれだった。

「だって、必死だったんだもん」文句を垂れる愛美に対して、工藤は至って機敏。せっせと処置を始めた。

 水道の化粧バルブを軽く捻り、一筋の水が垂れる。シンクからの跳ね返りがない程度だ。有無を問うことなく、愛美の手を取る。そして、問答無用で水に晒した。

 痛みに顔を歪める愛美。思わず手を引くが、すかさず掴まれた。

「じっとして」

「沁みるって」

「我慢しなさい。感情的になった人間の報いよ」

「名誉の負傷って言ってよ」

 フッと鼻で笑う工藤。これがいつもの彼女である。

「何が名誉の負傷よ。あなたがやったことと言えば、自分の不甲斐なさに血を流しただけじゃない」軟なメンタルでは卒倒しそうな言われようであるが、真実であるのも事実で、ぐうの音も出なかった。

「ひどいよ」捻り出した反論を口にするも、それは見切り発車で放たれた言葉である。威力があるはずもなく、難なく躱され、追撃を許した。

「だったら、もっと強かになりなさい。優しさ一辺倒じゃ、心が幾つあっても足りないわよ」

 ここまで言われて黙っているようじゃ、三枝愛美の名が廃る。そう思って、どこか非はないものかと、愛美は工藤を足先から頂点まで5秒程度ざっと見るが、特筆すべき点は見当たらなかった。強いて言うなら、視力が弱いという点だが彼女に限ってはそれすらもプラスに働いている。まさに非の打ち所がないという言葉は、工藤のためにできたと言っても過言ではない。

 容姿端麗、口も立つし、それと同様に腕も立つ彼女でもある。

 愛美を諭す中でも、着々と処置を進めていた。一頻り洗い流した両手を常備してあるキッチンペーパーで優しく拭き、さらに2枚千切る。鶴を折る要領でペーパーを四つ折りにすると、愛美に差し出した。

「これ持ってて」言われるがまま、受け取る愛美。

 すると、工藤は自身のポケットから綿のハンカチを取り出し、盛大に破った。本意を全う出来なかったハンカチに罪悪感を覚える愛美。しかし、その行為で工藤が何をしようとしているか理解が及んだ。

「ごめんね、寧々ちゃん。折角、綺麗なハンカチなのに」

「別に良いわよ。安物だし」

「いやっ、よくない。絶対弁償するから」

「だからいいって」

 両手にペーパーを乗せ、布切れと化したハンカチでキュッと縛る。これで処置の終了だ。愛美は処置の名残りを感じつつ、聞いた。

「寧々ちゃんって、看護の心得でもあるの?」

「どうして?」

「だって、滅多にできないよ、こんなこと」

「そんな大したことじゃないわよ。傷口を清潔にして、保護しただけ。誰にでもできるわ」キッチンペーパーでシンクに微かに残る血を拭き取りながら、工藤は言う。

「そんなことないって。少なくとも、私にはできないもん。やっぱり、寧々ちゃんはスゴいよ」

 愛美のその嘘偽りのない眼差しに、言われたことがないのか工藤は目を丸くする。

「私に言わせれば、あなたの方が凄いと思うけど」

「どうしてよ」

「だって、私、他人のためにあれほど怒れないもの。それは本当に凄いと思うわよ」

 工藤に手放しで褒められたことなどこれまでなかった愛美であるから、口元が緩むのも当然の帰結と言えよう。愛美は右手を頭に乗せ、分かりやすく照れた。

 それを見た工藤は一言。調子に乗るなという意なのだろう。

「それで自分が怪我をしたら元も子もないないけど」

「はい。すみません、気を付けます」

 素直に頭を下げる愛美であった。

「よろしい。じゃあ、戻りたくないとは思うけど、戻るわよ」

「そうだね。いくら私が稼いでいるとは言え、2日連続半休は、さすがに懐に大打撃だしね」

 先に歩を進めたのは愛美である。数秒遅れて、工藤が連なった。濡れた手をキッチンペーパーで拭き、所定の場所に戻す差である。

 給湯室を後にし、オフィスに向かう二人。お互い話す素振りを全く見せない。さながら戦場に向かう兵士である。闘気すら漂っているかもしれない。工藤はともかく、愛美はそのくらいの気概だった。

 呼び止められるまでは——。

「三枝、工藤じゃん。何してんの?」

 見なくても分かる。軽薄な声掛け、始業直後と言うのにこの辺りを彷徨いている。そんな人物、愛美は一人しか知らない。

「お疲れ様です、後藤次長。今日はお休みって聞きましたよ」

 笑みを浮かべている愛美であるが、その言葉には幾らかの皮肉が込められていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る