第6話

 これまでの人生、いつの頃も新生活というのはワクワクするものであった。

 成長を見越してのセーラー服、となり町までの電車通学、そして、念願だった広告業界への就職。見えるものすべてキラキラと輝いて、向かうまでの道中でさえも心が躍って仕方がなかった。しかしながら、そんな時間が続くはずもなく、その見通しの甘さから変なあだ名を付けられたり、痴漢紛いなことをされたり、そして上司から高圧的な態度を取られたりと散々なめに会っている。

 おそらく、あの子もその局面に立たされているのに違いない。

 愛美はあの子が入社してきたときのことをよく覚えている。

「本日よりこちらの部署に配属になりました、青葉渚と申します。何事にも前のめりで頑張りますので、よろしくお願い致します」

期待に満ちた眼差しで、フレッシュな笑みを浮かべた彼女の表情を、今でも思い返せる。

入社当初は勝手がわからず誰でもできるような雑用を任されていたが、それでも彼女は笑顔で対応をしていた。だから、社内の叔父様たちからの評判も高く、輪に馴染むのにそう時間はかからなかった。それが明白に変わり始めたのが、愛美と同じチームになってからだ。

清涼感のあった笑みは瞬く間に消え、社内にいてもビクビクと何かに怯えている印象が強くなった。話しかけても第一声が「すみません」になったとき、流石の愛美も危機感を覚えた。心配になった愛美は「大丈夫」と声を掛けるも決まって、浮かない表情で「大丈夫です」と返されるものだから、そこから踏み込めず今日に至る。


——コツ、コツ、コツ。

 

 愛美の履くヒールの音が、閑静な住宅街にこだましていた。

 スマホのナビに視線を落とすと、目的地は画面内に収まっている。

 人事部の佐藤によるとこの辺のはずなのだが、果たしてこんなところにアパートな どあるのだろうか? 

 もうそろそろ道中のスーパーで買い込んだ、あれやこれやが腕の負担になりつつあった。時間経過とともにめり込んだスーパーの袋を左手に持ち替えて、そして痛くなったらまた右手に持ち替える。ついに根気が切れそうになったとき、不意にナビが鳴った

『右折です』愛美はスーパーの袋を持ち直して、右に曲がる。

 曲がると、そこには数百メートルほどの直進になっており、そこで再びナビが鳴った。

「直進、目的地は左側です。お疲れ様でした」

 その音声に、愛美も思わず息が漏れた。

 それはおおよそ1時間弱の小旅行。コンクリートジャングルを抜け、風景が緑色に変わっていく様を見て、愛美のささくれた心も浄化されていく、そんな気がした。これで、青葉にも落ち着いて話ができる。アパートを前にして、愛美は思った。

 だからと言って、青葉を無理矢理会社に戻そうとは愛美も思っていない。田辺はその意向のようだが、従う気はさらさらなかった。なによりも、青葉が優先されるべきである。

「よしっ、行こ」

 愛美は頭を整理し、一歩踏み出す。青葉の部屋は203号室だった。


 そのアパートは景観を損ねてはいない。それが意味するところは、お世辞にも綺麗とは言い難いということであった。鉄製の階段は所々錆が目立ち、部屋の前に洗濯機があるタイプのアパートである。これは狭い見識によるものなのだが、青葉は一週間納豆ご飯だったり、もやし炒めだったりを主食にする生活を送っているのだと推察する。

 大学生時代、奨学金受給者であった愛美もそうであった。だから、今日は美味しいものと思い、スーパーで売っている一番値がはるお肉を買ってきている。勤務中ということで愛美は飲めないが、青葉には大いに飲んでもらい、大いにストレスを発散してもらいたかった。

 この際、職場から飛んだとか、社会人としてどうなんだとか、そんなことは犬にでも食わせておけばいい。青葉が前を向き、明日を待ち焦がれるようになることに注力したかった。

「201——、202——、203、ここか」

 隣の部屋と変わらない少し色の剥げた無機質な鉄製の扉。あの青葉からは、全く想像がつかない。

 ピンポン——。

 そのけたたましい音が、愛美の耳にまで届く。ゆえに中にいる人間が聞こえないわけがなく、反応がないということは居留守を講じているか、本当に出掛けているか。

そのとき、愛美は初めて遺伝子というものを実感した。

 生鮮食品だからドアノブに掛けて置くわけにもいかず、四苦八苦する愛美。思い切って青葉に電話でもしようかと思った途端、右方から声がした。

「あっ」

 愛美は声の方に視線を向ける。そこに立っていたのは件の人だった。

「お、お疲れ、青葉ちゃん」

 聞くや否や、体を翻す青葉。その背中に、愛美は話しかけた。

「帰ってくるまで、私ここにいるから」

 愛美の言葉に足を止める青葉。そして、ゆっくりと体を向ける。

「連れ戻しに来たんですか?」見覚えのある笑顔はそこにはなく、不信感に満ちた表情だ。

「違うよ」スーパーの袋を掲げ、愛美は続けた。

「ご飯でも食べながら、お話でもしようかなって」ぎこちない笑みを浮かべながら、愛美は言った。

「そうですか」抑揚なく答える青葉。あの青葉とは思えない態度に、愛美も呆気に取られる。しかし、腹を括っている愛美は食い下がり、尚もぎこちない笑みを浮かべていた。

 青葉が観念したと言わんばかりに小さく息を吐く。そして、歩を進めた青葉はドアの施錠を解き、ガチャリとドアノブを回した。

 あらわになる室内。気流が変わり、室内の匂いが愛美の鼻孔をくすぐる。

 青葉が漂わせているシトラスの香りではない。嗅ぎ馴染みのある花の匂い。それはラベンダーの匂いだった。

「入らないんですか?」

「あっ、ゴメンゴメン」

 促されて、敷居を跨ぐ愛美。決して広くはない玄関である。愛美は後が支えないよう、「お邪魔します」とだけ告げ、そそくさと靴を脱ぐのだった。

 広がる3畳ほどの台所。祖母の家でも見たことがある金属製の天板の作業台はお洒落とは程遠く、そこにあるはずのガスコンロはなかった。あるのは簡易的な冷蔵庫と炊飯器だけだ。

「もしかして、入居したてとか?」

「どうしてですか?」

「いやっ、だってコンロないし」そこには何の他意もなかった。

「あー、ガスコンロ込みだと家賃が1,000円上がるんですよ」

「へー、そうなんだ」

 何食わぬ顔で話す青葉。一方の愛美は気が気でなかった。

「食事とかって、どうしてるの?」

「基本的にはご飯と納豆と青汁で、たまにもやし炒めとかですね」

「……」予想はしていたものの、言葉を失う愛美。学生時代の自分を見ているようで、瞳が潤む。

「でも、コンロないじゃん。もやし炒めはどうやって作っているの?」

「お古ですがホットプレートがあるんで」

「そうなんだ。ならよかった」一先ず安堵の愛美。

「何がですか?」

「言ったじゃん。ご飯食べよって」愛美は手にある袋を開けて、なかを示す。

 青葉が恐る恐る袋のなかを覗く。内容物を確認し、「へー」と呟く青葉の口許が、心なしか緩んでいるように見えた。青葉が視線を上げ、愛美の視線とぶつかる。

「黒毛和牛ですか。こんなお肉が、家に来たのは初めてです。本当にいいんですか?」

「もちろん」

「ありがとうございます。じゃあ、ちょっと用意しますね」

 急ぎ足で流し台に向かう青葉は、併設されている棚からホットプレートを取り出した。

「すみません。この戸開けてもらえますか?」

「あー、はいはい」

 愛美は流し台とは反対に位置する戸を開ける。趣きある音を響かせながら開く戸。その向こう側は、居間であった。井草の香りが、幼少期訪れた祖母の家をより鮮明に想起させる。

 しかしながら、一歩足を踏み入れるとそこはやはり今どきの女の子の部屋で、質素ではあるもののお洒落な小物や映えるポスターが目に付いた。10畳ほどの空間の中央部に、長方形の小さなテーブル、左奥にはベッド、右側には押入があり、近くにハンガーラックがある。

「どうぞ、座ってください」

 愛美にテーブルの一画を勧める青葉は、ホットプレートを置くと日々のルーティンに入ってしまった。「う、うん。ありがとう」と言う愛美をそっちのけで。

 座っても尚、借りてきた猫のように恐縮してしまう愛美。手持ち無沙汰から青葉を眺めていた。ハンガーラックに上着を掛け、そして、ワイシャツを脱ぐ。キャミソールを豪快に脱いだ青葉は、上半身布一枚。その後ろ姿に愛美は一言。

「青葉ちゃん、スタイルいいよね」

「えっ」青葉は自身の体を確かめる。

「あー、まあ学生時代スポーツをやっていたんで、その名残です。これでも当時はもっと絞れていたんですよ」青葉は横腹を摘んでみせた。

「容姿も容姿だし。それだと男子がほっとかなかったんじゃない?」

「私、中学校から大学まで女子校だったんですよ」

「そうなんだ」だからか、愛美の中で合点がいく。同性の前で着替えるという習慣があったから、ためらわず愛美の前でも堂々と脱げたのだ。

「でも、私なんかより、先輩の方が男性にはモテそうですけどね」ラックに掛けてあったロングTシャツに腕を通す最中、青葉は言った。

「どうして?」

「だって、美人だし、なによりもこうやって他人を気遣える。そういう所、ポイント高いと思いますけど」

「ありがとう。素直にうれしいよ。でもね、女性からの評価と男性からの評価が必ずしも一緒とは限らないのよ」

「それよく言いますけど、本当なんですか? にわかに信じ難い」

青葉はスカートからスエットに履き替える最中だった。

「別に私も主観で言っているわけではないです。あくまでも先輩を客観的にみて、どうかって言ってるんです」

「でも私言われたよ、学生の時好きだった先輩に。『三枝は何でもできるから、俺なんかよりいい奴、他にいるだろ』って」

「ありゃま」

 着替えの工程が終わった青葉は、次の工程に入った。居間を飛び出し、台所に向かう。

「そういうことなんだって」愛美は、台所に向かう青葉の背中に投げかけた。

「男性も頼られた方が、気分がいいに決まってるんだから」

「そう言うものですか」

 第2工程目の手指の洗浄を終え、残った水分を飛ばしながら青葉は言う。

「そうそう」緊張も解れ、愛美は痺れた足を崩した。

「うんしょっと」青葉が愛美の正面に座る。

 それが宴会の開始だった。

 青葉が慣れた手つきでホットプレートの準備をし始める。プラグを解き、片方をプレートに、もう片方を手近にあった延長コードのひとつに刺した。ダイヤルを回し、火を調節。これでプレートが温まれば、いつでも焼ける状況の完成だ。

「あっ、油……」

 そう言って立ち上がろうとする青葉を、愛美は制止する。

「大丈夫。牛脂があるから。それより、ちょっとホットプレート持ち上げてくれる?」

 訳も分からず、言われた通りにする青葉。不思議そうに眺める青葉をよそに、愛美はスーパーから貰ってきた新聞紙を引いた。

「用意がいいですね、先輩」

「そりゃね。図々しく押し掛けてるわけだから、このくらいの配慮はするよ。あと手袋もあるから遠慮なく言って」

「よっ、配慮の鬼。そんな先輩がモテないわけがない」

「もういいって、その話は」からかう青葉を、愛美は一蹴する。

 段々と場の雰囲気も和んできた。これで気兼ねなく積もる話もできるというものだ。

「何から行く。一応、一通り買ってはいるけど——」スーパー袋を漁りながら、愛美は聞いた。

「あと、これもあるよ」

 愛美は冷えた缶を、青葉の前に差し出す。アルコール度数3%の酎ハイだった。

 青葉は手に取り、缶を訝しげに眺める。

「本当にいいんですか?」

「何が?」

「こんなことして」

「……こんなことって言うのは、社会人として相手に無理矢理アルコールを飲ませようとしてることについて言ってる?」

「違いますよ。3%のなんか、アルコールを飲んだうちに入りませんよ。そうじゃなくて。会社を飛び出して、お酒を飲むなんて。それこそ、社会人としてどうなんだって話です」

「社会人としてか」

 社会人経験6年というまだまだ経験としては小僧であるが、言えることはあった。

「そうだなあ——」言葉を選ぼうとする愛美。しかし、瞬時に諦めた。

「上がりを決め込んだオッサン達は、許さないんじゃないかな」

 聞くなり、吹き出す青葉。

「オッサンって」

「何か可笑しかった?」

「いやっ、すみません。先輩からそんな言葉が出てくるのが意外だったので、思わず」

「もしかして、イメージ崩しちゃったかな?」

「大丈夫です。いい意味で崩れたので」

「そう。ならよかった」

 不意に気温の上昇を感じた愛美。徐にホットプレートに手をやると、もう頃合いだった。愛美は牛脂の包装を破き、割り箸で器用に掴むと、勢いよく投下。それが失敗である。バチバチと跳ねる油。それに容赦はなく、問答無用でスーツを汚した。条件反射のごとく後ろに避ける愛美であったが、こと既に遅し。スーツのあちらこちらに、油のシミが見受けられた。

「やっちゃった」

「すみません、気が回りませんでした。着替え貸しますよ」

「そう。お願いできる?」

「いいですよ。そこのラックにあるのは洗濯済みなので、好きなのを着て下さい」

「ごめんね」

 愛美は、割り箸とスーパー袋を青葉に託し、立ち上がる。青葉と同じ手順でスーツを脱ぐと、半歩先のラックへと手を伸ばした。スポーツブランドのロングTシャツとスエットをチョイス。不思議と着心地が良かった。

「プレートも十分温まりましたし、焼き始めてもいいですか?」

「えっ、うん。お願い」

 愛美は急いで身支度し、座に着いた。

「えーっと、何があるんだろう」愛美に言うわけでもなく、青葉は呟く。

「サーロイン、タン、ミノにセンマイ。えっ、シャトーブリアンもあるじゃないですか。ヤバ過ぎ」感激のあまり、語彙力が低下する青葉。愛美はそれを微笑みながら眺めていた。

「どれから焼きますか?」そう問いかける青葉の瞳は、輝きを放っている。いつぞや見た青葉のそれだった。

「無難に行くなら、タンじゃない」

「分かりました。タンから行きましょう」気が急いているのか、ラッピングを半ば強引に外す青葉。

 当然ながらそのラップを捨てなければいけないわけだが、青葉は立ち上がるのが億劫だったらしい。少し離れた位置にあるゴミ箱へと体を限界まで伸ばし、ようやく手が届いたのである。

「じゃあ、行きますよ」意気込み、青葉は揚々とタンを2枚連投する。

 ジュッ、ジュッと言う音の後、立ち込める煙。その煙を吸い込んだ途端、愛美は一層腹の減りを感じた。それは青葉も例外ではない。焼き始めてから、待ち遠しそうにタンを凝視している。

 これで失敗なぞ有り得まい。

 肉の管理は奉行に任せ、愛美は周辺の用意を進めた。スーパー袋の中から、紙皿2枚、割り箸2膳を取り出し、互いの正面に置く。

「ありがとうございます」と青葉は言うが、興味は専らタンにあった。

 なおも音を立てて、プレートの上で焼かれるタン。そう様相は投入時とは変わり、明らかに縮んでいる。腹に収まるのも、時間の問題だった。

「ここっ」掛け声と共に、青葉がひっくり返す。

 期待が大きい分、愛美が焼け具合に目を光らせるのも無理はない。

表面の照りに加え、絶妙な焦げ目。決してご意見番というわけでないが、クオリティに申し分はなかった。

 愛美が用意したのは、薄切りのタンだ。故にひっくり返してからは早かった。

「はい。焼けました。どうぞ」素早く愛美の皿に盛る青葉。空かさず自分の皿にも盛った。

「食べましょう」

「うん」

「「いただきます」」

 空腹のあまり何も付けず、口に頬張る二人。口から蒸気が漏れる。

「あっつ、あっつ」

 強欲の代償は大きく、愛美の口内には悲惨な火傷が刻まれた。一方の青葉は、ほくそ笑んでいる。

「青葉ちゃんは何ともなかったの? 結構な熱さだったけど」

「熱かったですが、言うほどですよ。――さては先輩、猫舌ですね?」

 図星を突かれ、言い淀む愛美。

「そうだけど」愛美は青葉を睨む。

「怖いですよ、先輩。冗談じゃないですか」

 そこで愛美はフッと、息を漏らす。

「私も冗談」愛美は笑みを浮かべた。

「勘弁してくださいよ」青葉も笑い、プシュっと缶を開けた。

「てっきり先輩って、もっと堅い人だと思ってました」

「何でよ」

「だってプロジェクトメンバーともちゃんと意思疎通してるし、あの部長とだって……」

 一気に表情が曇る青葉。核心に触れようと、愛美は聞いてみた。

「青葉ちゃんって部長のこと、にが……」

「嫌いです」愛美が言い終わるより先にピシャリと言い放つ青葉は、酎ハイを呷る。そして、付け加えた。「あんな人」と。

 青葉は怒りに任せ、缶を置く。勢いで水滴が飛ぶが、青葉はまったく気にしていない。それだけ感情的になっているということだ。憤怒とは程遠い青葉がここまで怒りを露わにするのだから、田辺は相当なことをやらかしたに違いない。愛美も田辺に関しては一家言があるので、あくまでも責任を田辺側に置く。だから、愛美は同意した。

「だよね。私も職場の上司じゃなかったら、絶対に関わりたくないもん」

「それでも、我慢をして先輩は関わり続けてる。社会人だったら、そのくらい我慢しなきゃいけなかったんですよ」

「んー」愛美は唸り、頭を捻る。

 青葉が度々口にする“社会人として”という言葉。彼女はその言葉に囚われ過ぎているのかもしれない。

「青葉ちゃんにとって、社会人ってどんなイメージ?」

「働いてお金を稼いでる人、でしょうか」

「そうだね。私もそれは思う。でもね。それだと、あの部長も社会人ってことになるけど、それに関してはどう思う?」

 変わらぬ表情の青葉。

「納得行きません」

「だよね。だけど、本人はちゃんとした社会人だと思っているはずよ」

「そんなことって……」

 顔をしかめ、必死に訴えようとする青葉。しかし、今回のことで世の中の不条理を身に染みたのか、それ以上抗議することはなかった。

「往々にしてあるよ、そういうこと。だからさ、青葉ちゃんももっとワガママになってもいいんじゃないかな。真面目なことは美徳だけど、真面目過ぎるのも考え物だよ」

「んー」代わって、青葉が頭を抱える。

「まあ無理にとは言わないけどさ」愛美は言う。

 卓上で、バチバチと音を立てるホットプレート。それはあたかも早く肉を焼けと言わんばかりで、煩わしく思った青葉は火を弱める。無秩序に飛び散った油を、ティッシュで拭き取りつつ、青葉は言った。

「別に私、無理をしているわけじゃないですよ」

「そうなの?」

「はい。私は至って素なんですよ」

「そうなんだ。じゃあ、あの上司も惜しいことしたよね。こんな良い子を追い込むなんて」

「そう言ってくれるのは、先輩ぐらいですよ。最近はずっと部長と一緒だったから、『あれやれ』『これやれ』『それまだ終わってないのか』『遅いんだよ、早くしろ』だの、散々言われてどうにかなりそうでした」

「ホントあの人口悪いよね」

「そうなんですよ。それでいて仕事できるのかなと思ったら、大して仕事してないし」

「あの人、昔からそうよ。上の者には媚び諂い、下の者へは高圧的に振る舞う。我が物顔で他人の功績を役員に報告するんだから、質が悪い。でも、もう先はないんじゃないかな。あの人の後輩がどんどん出世してるし、内心ヒヤヒヤだと思うよ」

「そういうことか——」愛美に言うわけでもなく、青葉は呟く。

「どうしたの?」

「合点が行ったんですよ。どうして、あんな仕打ちを受けなければいけなかったのか。先輩の話を聞いて分かりました」

「それが分かっているのと、分かっていないのとでは心の持ちようが違うよね。力になれたのなら良かった。それで、具体的に何があったの? 私知らないんだけど」

「そうでしたね。確か先輩が飛び出していった後のことでしたか」

 見られていたのか。恥ずかしさのあまり、青葉より顔を赤くする愛美。それを誤魔化すために、愛美は咳払いをする。

「頼りない先輩だよね。ホントにごめん」

「そんなことないですよ。言うなれば、先輩と私は同志です。場所は違えど、心は一つ。あの悪しき輩に、正義の鉄槌を下してください」

 青葉は一瞬たりとも視線を外すことなく、真っすぐ愛美を見つめていた。

 その勢いに押され、愛美は拳で胸を打つ。

「……あい分かった」人情劇さながら、愛美は宣言した。

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 深々と頭を下げる青葉に、愛美は思う。これまで、どのくらいの苦渋を飲まされてきたのかと。惜しげなく首を垂れる青葉であるから、それは相当なものだったに違いない。後輩がここまでしているのだから、年長者として一肌脱ぐほかあるまい。

「しんみりし過ぎ、青葉ちゃん。この集いは青葉ちゃんを笑顔にするためのものなんだから、顔上げてよ」

「……はい」ゆっくりと顔を上げる青葉は、伏し目がちだ。

「ほら、どんどん焼いて食べようよ——」愛美はホットプレートのダイヤルを回し、弱から強に設定する。まったく熱せられてないことにも構わず、トレイにあるタンをすべて並べた。

「その缶、空でしょ。まだお酒あるから」愛美はビニール袋の中をかき分け、次々とアルコールをテーブルの上に置いていく。

「これと、これと、これもあるけど置けないから下に置いとくね。あとワインもあるから。……よしっ、大いに食べて、大いに騒ごう」

 そう嬉々として言う愛美であったが、はたと気付く。自分の部屋でないことを。

「ゴメン。声大きかった?」

 フッと声を漏らす青葉。一方の愛美の脳裏には、はてなマークが浮かんでいた。

「同じ仕打ちを受けているはずなのに、どうしてそんな元気なんですか。これじゃあ、私が落ち込めないじゃないですか」

文句とも取れる物言いであるが、青葉の口元には笑みが浮かべられている。

「何言ってるのよ。あんな人間に落ち込まされてはダメ。道理が通ってないんだから」

「そうは言っても、今回のことに関しては私にも非があるので……」

「そうなの? じゃあ、尚更落ち込んでいる場合じゃないよ。引きずらないように切り替えなきゃ」

「そうなんですけどね」落胆ではなく、悔しさからくる表情を見た愛美。

 自身の失敗で会社を飛び出したのなら、それは単なるワガママ。しかしながら、青葉の表情から、隠れた事情がありそうだ。

「どうしても、許せなかったんですよ。あの人がやったことが」

「暴言だけじゃないの?」

「ええ。さっき先輩も言ってたじゃないですか。あの人、私がやっていたことを全部自分がやってたものとして取引先に報告してたんですよ。それで、評価貰ってたんです。でも、いざミスが発生したら、責任を私に押し付けて謝れとか言うんですよ」徐々にヒートアップしていく青葉。

「まあまあ百歩譲って、謝るのは分かりますよ。だって、私がミスしたことには変わりないんですから。でも、2段階チェックであなたも確認してるわけだから、私に全責任を負わすのは違うでしょって」頬を紅潮させる青葉であるが、原因はアルコールではない。

「そうだねそうだね。乗ってきたじゃない。もっと吐き出せ」

 愛美は肉の世話をしつつ、青葉の調子をとる。

「ちょっと、これもらっていいですか?」そう言って青葉は、度数9%の酎ハイを手に取る。

「いいよいいよ。そのために買ってきたんだから」

「では遠慮なく」 

 青葉は器用に片手だけでプルタブを開けると、グビッと一飲み。今度は飛沫が飛ばないよう優しく置くと、口火を切った。

「男なら男らしく、部下基、女の失敗を被るくらいの気概でいなさいよ」

 肉が焼ける音に加え、パンパンパンと手を打つ音が響く。それはスタンディングオベーションであった。

「よく言ってくれた、青葉ちゃん。私も同意。ホントに卑怯なのよ、あの人。あー、もう。私もお酒飲みたくなってきた」

 叫ぶ愛美は、腕時計に視線を落とす。針が差していたのは、5時前。淀みない動作で鞄からスマホを取り出した。「ちょっと、電話いい?」と断りを入れるも、返答がある頃には既に、電話帳から『工藤』をタップしていた。

 

プルルルル——、プルルルル——、プッ。

 

 二回呼び出し音がなったところで、工藤は出た。

『もしもし』あからさまに気怠そうな声だ。

「寧々ちゃんさ、取引先の人でもそんな対応なの?」

『そんなわけないでしょ』

「じゃあ、もっと声のトーン上げてよ。じゃないと、私まで暗い気持ちになるじゃん」

『ハー』工藤は大きく息を吐く。

『どうしてあなた相手にそんな気を遣わなきゃいけないのよ。そんなの取引先と上司だけで十分だわ』

 皮肉とも取れる、その言葉。

 気を遣わず、フレンドリーに接せると思えば悪い気はしない。故に、愛美は追求を保留にした。

「それで寧々ちゃん、お願いがあるんだけどさ」

『なに?』

「このまま家に帰るからさ。直帰扱いにしといてくれない?」

『ああ、そのことね。それなら大丈夫。あなたが出て行った段階で、部長がどうせ居ても居なくてもいいだろって、半休扱いにしてたわよ』

「どういうこと、それ?」

『どういうこともなにも、そういう事よ』

「それ聞いて寧々ちゃんは、止めてくれなかったの?」

『嫌よ、そんなこと。私だってできる限り部長と関わりたくないもの』

「それは分かるけど、その分だけ私の給料減るんだよ」

『減るって言っても、半日分でしょ。私の事情と天秤に掛けても、断然私の事情を優先するわ。あっ、もう切るわ。部長に見られてる』


 ブツッ、ツー、ツー、ツー。


 返答を待たず、通話が切れる。感情を置き去りにされた愛美は、しばらくスマホの画面を眺めた。折り合いのつかない感情を必死で抑えようとする愛美であるが、落とし所が見つからない。心中察した青葉が「どうぞ」と缶酎ハイを勧めてくる。

「ありがとう」感情を殺してはいるものの、プルタブを開けるのには勢い過多だ。

 ゆっくりと缶を持ち上げ、口元で大きく傾ける。小気味良い喉の音を鳴らしながら、どんどん飲み進めていく。

 そして、3分の1程度呑んだ所で、青葉宜しく缶を置いた。飛沫を構わず。

「良い飲みっぷりですね」青葉は言うが、愛美の耳には届いていない。

「青葉ちゃん」

「は、はい」勢いに気圧される青葉。

「退職するのは辞めよう」

「えっ」訳が分からず青葉は声を漏らす。

「退職せずに、休職にしよう」

「どうしてですか。私、戻るつもりありませんよ」

 そこで愛美は青葉の肩をガシッと掴んだ。

「安心して、私が青葉ちゃんが生き生きと働ける環境を作ってみせるから」

 愛美は立ち上がり、缶酎ハイを天に掲げる。


「私三枝愛美は、憎き田辺部長を引きずり下ろすことをここに宣言します。……だからさ、待っててよ、青葉ちゃん」


 愛美は爽やかな笑顔で、至って真面目に言ったつもりだが、そんな愛美を青葉は生暖かい目で見ていた。

「ホントだよ」堪らずフォローを入れる愛美。

「分かってますよ。先輩って、本当にお人好しですね」

 貶したわけでもなく、青葉は只々微笑んでいた。

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