第5話

 これまでの人生を振り返ったとき、愛美は存外夢見がちな少女だった。小学生の頃、周りの児童が、“お花屋さん”や“飛行機のパイロット”などを夢に掲げている中で、愛美は“お姫様”と謳っていたと記憶している。当時の担任教師は「なれるといいね」と言っていたが、本心で言っていたかどうかは定かではない。しかし、当時の愛美は純真無垢であった。だから、それを真に受けるのも無理はない。

 道ゆく人を止めては、「パンが無ければ、お菓子を食べればいいじゃない」と言い回っていたことは、門外不出である。そんな愛美であっても、両親は愛をもって育ててくれた。煌びやかなドレスを強請った時も、最終的には買ってくれるそんな両親である。それが嬉しくて愛美は5W1H、いつでも着ていた。それを見た近隣住民たちが、「愛美ちゃん、また同じ服着てる。服があれしかないのよ」と困窮していると疑われていたのは、過ぎた話だ。今となっては、全ていい思い出と言えるが、愛美には一つ疑問点があった。

「いつから……」愛美はぼそりと呟く。

 こんなに地に足がつくようになったのか? 当の本人にも、皆目見当がつかなかった。

 愛美は、依然として工藤の話が尾を引いている。先ほど部長に呼ばれ、対面しているが話は全く頭に入ってこないでいた。だから、怒号が飛ぶのは当然のことである。しかし、愛美の方にも、言い分はあった。呼ばれる段階で、不遜な態度を取られると、聞く気も削がれるというものだ。

「聞いてんのかよ、お前」田辺は怒りに任せ、手にある資料をデスクに叩きつけた。

「はい、聞いてます。すみません」愛美は斜め45度の角度で、頭を下げる。誠意よりも、事実が大事だった。

「ったく、二年目のお前がそんなだから、新入りが飛ぶんだろうが」

「はあ」状況が分からず、曖昧な返事をする愛美。

「はあ、じゃねえよ。下っ端のミスは、一つ上のお前が責任をとるんだよ」

「えっ」思わず出た声に、田辺が睨みを効かす。

「何か文句でも、あるのかよ」

「……、新規の案件もあるんですが」

「じゃあよ」

 それは言うなれば、噴火寸前の火山のようである。徐々に貧乏揺すりが激しくなり、田辺の頭に血が昇るのが傍から見ても分かった。そして、田辺が立ち上がろうとしたので、愛美は強く拳を握った。

「お前が連れ戻してこいよ、あの役立たずをよ」

 平気な顔で、他人を役立たずと言える。

 自分に言われたわけではないが、聞いていて心地良いものではない。一刻も早く眼前のこの男から距離を取りたかった愛美は、田辺を見据える。その瞳には田辺が写り込んでいるものの、認識としてはモノでしかなかった。

「分かりました」と告げ、一切表情を変えることなく愛美は体を翻した。

 前方には工藤が見える。ひと段落付いたのか、手には魔法瓶を持っていた。それを一回、二回と口に運んだところで、丁度、工藤とすれ違った。

  

 ――コン。

 

 途端の音に意識がいった。左後方からのものなので、それは工藤の魔法瓶を置く音に違いない。なおも、気にせず歩を進めている愛美。すると、出入り付近に差し掛かったところで、右ポケット辺りにブルルと振動を感じた。スマホのバイブレーションである。

 オフィスを後にした愛美は、脇に逸れスマホを確認する。バナーには、メールのアイコンと共に、工藤寧々の表記があった。


『営業部がそんな顔してちゃ、決まるものも、決まらないわよ。

 とりあえず下の連絡先に電話してみなさい。


人事部 佐藤怜 ○○○–○○○○–○○○○』


 やはり持つべきは、戦友である。意図が分かった愛美は、華麗なタップでメールを返信した。


『ありがとう、寧々ちゃん。愛してる。結婚しよう』


 その返信に、工藤は一言。


『バカ!?』

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