第3話
後悔先に立たずとはよく言ったもので、愛美は今朝起床した段階で昨日の飲酒を後悔していた。それに追い打ちを掛けるかの如く、上司の叱責。今はその最中だった。
「あのさー。お前さー。なんで朝っぱらから、そんな疲れた顔してんだよ」
ゴンッ。チェアがガタつき、キーボードを打つ焦点が狂う。
「すみません」
「すみませんじゃねーよ。気が滅入るんだよ。朝からそんな顔されたら」
「すみません」
「だから、すみませんじゃねー」
ゴンッ。
「ったくよー」
タンタンタン――。靴を鳴らし、苛立ちを見せる上司。
「それで、一昨日言った資料できたのか?」
「今やってるところです」
「ハッ。ふざけんな」
いっそう強い衝撃に、愛美はデスクにつんのめる。
「す、すみません。でも……」
「でもじゃねえ。徹夜で仕上げたから、そんな顔してじゃねーのかよ」
「そういうわけでは……」
チッ。盛大な舌打ちに、愛美はさらに萎縮する。
「使えねーな」
ハァ。上司は大きく息を吐く。当然深呼吸ではない。上司の落胆しきった顔が容易に想像できた。
「お前、ちょっと外回り行ってこい」
「でも、資料作成の途中で……」
そこで初めて愛美は、本日上司の顔を拝む。相変わらずの不機嫌そうな表情であったが、今は一層眉が歪んでいた。
「目障りだって言ってんだよ。早く行ってこい」
オフィスに怒号が響いた。
「は、はい」
言葉が先か、行動が先か。愛美は手当たり次第、デスクの上の物をバッグへと放り込む。そして、駆け出すのだった。それはもう脱兎の如く。
慢性的な運動不足の愛美。ゆえに長距離を走ることは出来ない。
今はオフィスを出て直ぐの所に設置されている自販機の横で、息を整えている。それも愛美のために用意されたような絶妙な隙間で。もはや整えているのか、潜めているのかも分からない。自然とこの場所に行き着いてしまったのだ。
こんなトコを上司に見られたらまたどやされる。早々に腰を上げねば。
左手で鞄を胸に押しつけ、右手で身体を持ち上げる。すると……。
「大丈夫ですか?」思わぬ声に愛美は肩を揺らす。
視線を上げると、そこには二人のスーツ姿の男女が立っていた。女の方はクラッチバッグを手に無表情で見下げており、男の方は愛美へと手を差し伸べている。
虚をつかれ、思わず手を取る愛美。その手を優しく包み込むと、男は軽々と持ち上げた。
「ありがとうございます」お尻を払いつつ、愛美は言った。
「いえいえ。これも男子の嗜みですよ。でも、発声もしっかりしてるし、大丈夫そうだ」
「お陰様で。少し息を整えてただけなんですよ」
「そうだったんですか。余計なことしちゃったかな」
「全然、そんなことは……。本当にありがとうございました」
「うん。じゃあ」男は軽く手を上げ、去っていった。ともすれば、すぐに踵を返す。 そして、ばつが悪そうに言った。
「ワールドスクエアってこの階で合ってるよね?」
「はい。合ってます。奥のドアです」
「だよね。ありがとう」男は柔和に微笑みを浮かべて、歩を戻す。それ以降、彼らが振り向くことはなかった。連なって歩を進める二人。どちらも高身長にスーツと言うこともあって、じつに映えている。
そんな二人が向かおうしているワールドスクエアは、中堅の広告代理店だ。一昔前、某飲料メーカーのCMが当たり、一世を風靡していたが今やどこを吹く風である。当時あった勢いも形を顰め、残ったのは栄光にしがみ付く上層部の醜態だけだった。それが顕著に見られるのが愛美の直属の上司である。
うわっ――。咄嗟の出来事に、愛美は思わず声を漏らす。
尚もしげしげと二人を観察していた愛美。突如として二人の行く先のドアが開いた。そのドアから徐に顔を出したのは、愛美が今一番会いたくない人物だった。そう上司だ。隠れたもののコンマ数秒遅れ、目があってしまう。その表情の変化が、脳裏に焼き付いた。
額に嫌な汗が一筋垂れる。呼吸を整え、恐る恐る再見すると、幸いなことに上司の姿はなかった。ただ一人、男だけがこちらの様子を伺っていた。
「……」間が悪いことこの上ない。
隠れるわけにもいかず、愛美は口角を無理矢理にでも上げて笑って見せた。それはどれだけ鈍感な人間でさえも、作り笑顔と判別できるものだ。だから、男も社会人特有の間に合わせの笑みを浮かべてやり過ごすと思っていた。
それが彼なりの作り笑顔なのかも知れない。しかし、それにしても愛美には、自然な笑みに思えた。これは経験則ゆえに統計を取った訳ではないので、ソースはと問われれば顔を伏せるしかないが、愛美がこれまでに接してきた社会人という人種は、八割が口元は笑っているが、目は笑っていない、それで一割がそもそも笑わない、そして、最後の一割が彼のように爽やかな笑みを浮かべていたのだった。
不覚にも、見惚れてしまう愛美。「間藤くん」という声で男が去った後も、愛美はその残影を見つめていた。こんな感情、学生の頃バスケ部の先輩に抱いて以来である。社会の荒波に揉まれ、愛美の荒んだ心にも一縷の乙女心が残っていたことに驚きだった。
「間藤さんって言うんだ」愛美は小さく溢す。
愛美も、女子にしては身長はある方だ。そんな愛美よりも十数センチは高いから、間藤の背丈はおおよそ一八〇後半といったところであろう。その身長に、ベージュのスーツをパリッと着こなしている。ファッション雑誌のモデルと言っても遜色がないくらいに、最大限の相乗効果を生み出していた。それに加えて、整った面である。世の女性が彼を放って置かないはずがない。
私なんかが思いを寄せるなんて、分不相応にも程がある。学生時代を想起し、思い人との恋愛が成就しないというトラウマからそう思う愛美であった。
大きく息を吐く愛美。
「外回り行こ」
愛美はエレベーターへと歩を進める。コツコツという音がフロアに響いた。ボタンを押し、待たずして到着するエレベーター。乗り込む愛美はフロアを正面に見据えた。そして、『閉』のボタンを押し、扉が閉まる最中、愛美は正面に見えるドアから上司の怒号を聞いた。
愛美は条件反射で目を丸くするも、当事者ではないので少しは気が楽だった。
察するに、間藤が持ち込んだ案件を別チームの誰かが失態を犯したのだろう。くわばら、くらばら。どうか、私に避雷しませんように。
愛美は、全身全霊の祈りを込めて合掌するのであった。
「ホッホッホッ――」
ご老人の陽気な声が周囲にこだまする。
愛美の現在位置はオフィスの最寄りの公園だ。あの後、愛美が抱える取引先にアポを取るも、何所も担当者が捕まらず行き着いた先がここだった。
道中、自販機で缶コーヒーを買い暖を取っていると、見覚えのあるご老人と席を共にすることになった。最早、日常に溶け込んでいるご老人。隣に徐に座るも、不快感が全くない。軽い挨拶の後、ここに行き着いた顛末を話すと、ご老人は年甲斐もなく軽快に大笑いをした。
「まだそんな高圧的な上司がいるとは、これは当分労基の仕事がなくなることはなさそうじゃな」
そう言うと、ご老人は再び笑い出し、愛美もそれにつられるように乾いた笑みを溢した。
「私もそんな風に冗談めかせればいいんですが……。どうにも上手く消化できなくて。ストレスが溜まりっぱなしなんですよ」
「それは大変じゃの」
終始笑顔のご老人が一瞬視線を逸らす。
「ほれっ、そこに白髪」
「えっ、ウソッ」
愛美はバッグを漁り、化粧ポーチを取り出した。その中にある手鏡を手に、確認すると確かに一本輝く毛があった。
「うわっ、ホントだ。毎朝鏡見てるのに、全然気付かなかった」
「ホッホッホッ。うら若き乙女に気にするなとは言えんが、頑張っておる証拠じゃしな。そこまで悲観せんでもええと思うぞ」
「でも一本だけって言うのが……。一応、営業職なんで身だしなみの観点からどうかなと思うんですよ」
「そうじゃったか。しかし、抜いたとしてもそれが根本的な解決にはなっておらんし、染めるにしても、それだけのために染料を買うのも馬鹿馬鹿しい」
「なら、どうすれば」
「そうじゃなの~」
口髭を撫でるご老人。
「ストレスを無くすというのが最善なんじゃが、それは一朝一夕で解決できることではないしの~」
ご老人は尚も口髭を撫でている。
「察するにお嬢さんのストレスは、その上司にあるとみた。其奴との接し方を変えてみるのはどうじゃ?」
「接し方ですか?」
愛美には今一ピンときていない。
「お嬢さんは仮に、其奴に叱責を受けているときどういう反応をするんじゃ?」
「それはもう――」
思う出したくもない。その時の上司の顔、声音。どれをとっても萎縮の対象であった。だから、愛美はペコペコと平謝りするしか出来なかった。
「ガラケーのごとく、頭を下げるだけです」
「そうじゃろうな。大抵の人間は目上の人間に高圧的な態度を取られれば、謝るしかなくなる。でもこれは、信頼してほしい事実なんじゃが――」
ご老人は少し、考える素振りを見せる。そして、続けた。
「決して、年長者だからといって敬う必要は無いんじゃよ。その論理だと、犯罪者さえも敬わなければならないからの。だから、目上の人間でも意見を言っていいんじゃよ。それで自分の立場が危うくなるのなら、そこまでの場所だったということじゃ」
愛美は「でも……」と反論した。
「まあ、不安もあるじゃろう。しかしじゃな。会社には多数の人間が存在するわけじゃから、他にも不満を持っている人間だっておるはずじゃ」
そう言われれば、愛美にも思い当たる節はある。先ほどの怒号もあるし、上司に睨みを利かしている社員だっているはずだ。
その好機に満ちたという表情をご老人は見逃さない。
「その顔、思い当たる節がありそうじゃな」
ご老人はニヤリと口角を上げ、笑った。
「ホッホッホッ。若人よ、思う存分苦悩することじゃ。その時はしんどいかもしれん。でもな。今後絶対糧になるはずじゃ」
最後の言葉。“絶対”を強調するご老人であった。
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