第2話
進学を機に上京して彼此10年。時間も大分流れ、暗闇の中にも関わらず、電気のスイッチが何処にあるかは把握している。玄関に入り、肩と同じ高さで右手を少し前に出した位置。そこだった。
カチッ。無音の空間に、その音だけがこだまする。
律儀に帰宅報告をするも返答があるわけもなく、乱暴にパンプスを脱ぎ捨てた。階下の住人に配慮することなく、ドスドスと廊下を行く。その先に、10畳のリビングダイニングキッチンがあった。
ドアを開けると、ふわりとアロマの香りが鼻腔をくすぐる。鎮静効果を狙って芳香剤を置いてみたが、効果は全く期待できなかった。絶賛ストレスは蓄積中だ。
入って直ぐのキッチンで手洗いとうがいを済ませ、中央に位置するテーブルにカバンを投げ捨てる。そして、ソファへと崩れるように倒れ込んだ。
「はあ~。疲れた」その声に遠慮は含まれていない。今日発した言葉の中で、一番大きな声だった。
「それにしても――」モゾモゾと体勢を変え、天上を仰ぎ見る。
あの上司。どうしてあんなにも突っ掛かってくるんだろう。営業成績だって同僚の中では上位の方だし、勤務態度だって取り立てて悪いわけでもない。
だったら、どうして……。よもや幼少期によくある、好きな子には意地悪しがちという心理でもあるまいし。
「ぐぬぬ」抱いたクッションを力一杯抱える。
思い返すだけでもはらわたが煮えくり返りそうだ。
「……あっ、そうだった。忘れてた」
疲労を感じさせない勢いで飛び起き、キッチンへと一目散に行く。冷蔵庫を開けると、そこに目的の物はあった。シャトーマルゴーの年代物。奮発して買ったはいいものの、日々の忙しさで飲むのを先送りにしてしまっていた。今日は疲れてはいるが、それよりも羽目を外したい。そんな気分だった。
ワインと共に、冷蔵庫からスモークチーズを取り出し、食器棚からワイングラスを選ぶ。そそくさとソファに戻り、宴の開始だ。
そんな矢先のことである。スマホの着信音が鳴ったのは。
「もー。誰?」愚痴が零れるのも、着信音から上司でないことが分かったからだ。
スマホの画面を見ると、蔵之介の名が表示されている。
ん? お兄ちゃん。
躊躇うことなく応答をタップした。
「もしもし、お兄ちゃん。どうしたの?」
「あっ、愛美。ゴメンよ、こんな遅くに。もしかして、寝てた?」
「まだだけど」
「そっか。それはよかった。それでさ。この前言ってたワインのことだけど、何て言ったっけ?」
「シャトーマルゴーだけど。でも何で? お兄ちゃん、お酒飲まないでしょ」
「僕じゃなくて、茜さんがね。知りたかったみたいなんだ」
「そうなんだ」
「まあ、助かったよ。ありがとう」
そう言って蔵之介が通話を切ろうした瞬間、不意に蔵之介の後ろから声がした。
「あー、私がトイレ行ってる間に、内緒で誰と話してのよ、蔵ー」
危うい呂律の声音は、明らかに酔っ払っている。聞き覚えのある声だが、愛美もこんな状態の彼女は初めてだった。
「愛美だよ。茜さん」
「えっ、嘘。愛美ちゃん。ちょっと待って……」
突然、途切れる通話。そして、再び鳴り出すスマホ。ビデオ通話だった。
愛美は応答をタップし、手近にあったティッシュケースに立て掛ける。
「見えてる愛美ちゃーん」茜のアップの映像が画面に表示された。
「……見えているので、もっと離れてください、茜さん」
「そっかそっか。よかったよかった」
安心した茜はスマホをちょうどいい位置に置き、姿勢を正した。
「改めて今晩は、愛美ちゃん。元気にしてる?」
「ええ、まあ」怪訝な表情の愛美。それを透かさず察する茜。
「どうしたの? なんか変?」
「いえ、そんなことは……。でも、どうして畏まったのかなと思って。お酒飲んでたんじゃ無いんですか?」
「あれっ、分かっちゃった」
「バレバレですよ。さっきの会話聞こえてたし」
「そうだったの。恥ずかしー」くねくねと謎のダンスを披露する茜。
きりりとした面の茜には随分と不相応な動きに、思わず愛美は吹き出してしまった。
「茜さんって酔ってるとそんな感じなんですね」
「まあねー」
「楽しそうで何よりです」
「蔵がお酒飲めたら、もっと楽しいんだけどね」
「勘弁してよ。茜さんの相手なんて……」蔵之介も会話に割って入るも、茜の言葉に遮られる。普段は奥ゆかしい茜だがタガが外れると強引になるようだ。
「愛美ちゃんはお酒飲めるんだよね」
「まあ嗜む程度ですが。ちょうど飲もうと思ってたんですよ」
「そうなの。言ってよ。ならオンライン飲み会しようよ」
「いいですよ」
「やった。じゃあ――」
コホンとひとつ咳払いをし、コップを口元に添える。マイクに見立てているのだろう。
「ただ今より、オンライン飲み会を開催したいと思います。皆さん、コップのご用意はよろしいでしょうか? では、……あっ」コップの中を見てポカンとする茜。
「蔵ー、お酒がない」駄々っ子さながらのムーブで、茜は言う。
グイッと出されたコップを「はいはい」と蔵之介は受け取り、席を外した。足音が遠退く最中、蔵之介が言った。
「何が良いの?」
「ハイボール」
本当に、純真無垢な子供のようである。それに対して、至って穏やかに「了解」と返す蔵之介であった。
画面の向こうから冷蔵庫を開ける音、グラスが鳴る音が聞こえた。着々とハイボールは製造されている音だ。
その間に愛美は、コルク栓を抜き、グラスへとワインを注ぐ。
トッ、トッ、トッ、トッ――。
実に甘美な響きだ。
愛美はゆっくりとボトルを置き、グラスを光源へとかざした。
これが七万か。感慨深いというよりも、後悔の念のほうが強い。いくらルビー色に輝いているとしても、それ相応の価値があるとは思えなかった。開栓してしまえば、換金することも出来ないし……。飲むほかなかった。
覚悟を決めた愛美はグラスを置いた。その音に引かれたのか、茜は間を繋ぐように言う。
「愛美ちゃんは、それ、何飲んでるの?」
「えっ、ワインです」
「あっ、そうだ。それが聞きたかったんだ」嬉々として言う茜。そして、続けた。
「蔵から愛美ちゃんがいいワインを買ったって聞いたんだけどよ。それで、銘柄を聞いといてって言ったのに。一向に聞いてくれないんだよね。なんで、蔵? 照れてるの?」
「いやいや。妹に対して、照れとかないよ。って言うか、ちゃんと聞いたよね、愛美」
「うん。まあ」
有り体に言えばそうだけど、それは急場凌ぎにも程がある。どう考えても誤魔化し切れるはずがない。
「そうだったの。ごめんね。……それでいつ聞かれたの?」至って穏やかに聞く茜。
それに対して言い淀む愛美であったが、嘘を言っても仕方がないというのは本当で、結局、「さっきです」と答えるのだった。案の定、茜は口を尖らせる。
「もう」茜は蔵之介に対して睨みを効かすが、怒気は全く感じられない。
「頼んだの数週間前でしょー」終始、茜の口の端は上がっていた。
「ゴメンって」
そう言いながら蔵之介は、グラスを差し出す。それに手をつける茜であったが、離さない蔵之介に困惑を隠しきれない様子だ。
「楽しくなるのはいいけど、ほどほどにね。介抱するのは僕なんだから」
「分かってるって。感謝してる。チュッ」茜がリップを鳴らした。
「酔ってるなー」愚痴りつつ、自席に戻る蔵之介であった。
茜がひとつ咳払い。
「改めまして皆さん。コップのご用意をお願いしますーー」
愛美はグラスを軽く持ち上げる。
「それでは乾杯」と同時に茜は、勢いよくハイボールを胃にへと流し込んだ。
最早愛美の「乾杯」など聞いている気配はなく、気まずく少量を口に含むのだった。
「あっ」思わず声が漏れる愛美。
飲みやすい。ワイン特有の渋さはあるが、苦にならない程度で、これはもしかするとマズイかも知れない。
―10分経過―
「聞きそびれてた、愛美ちゃん。なんて言うワイン飲んでるの? 高いワインって聞いたけど。もしかして、ロマネ・コンティ?」
「ロマネ・コンティってあれですよね。1本百万ぐらいするって言う」
「そうそう、それ」
「そんなわけないじゃないですか。……」
―30分後―
「お二人は、子供の予定はないんですか?」
「もう」頬を赤らめる茜は、胸元を隠す素振りを見せた。恥じらっているのではなく、単に酔っているだけと言うのは明白だ。
「愛美ちゃんのエッチ。私、下ネタNGなんですけど」そう言い切る茜の呂律は極めて怪しい。
「もう飲み過ぎだよ、茜さん。愛美だって、別に下ネタを振ったわけじゃないよね」
愛美は徐に手を腰にあて、ふんぞり返った。
「そう受け取ってもらっても、一向に構いません」
「酔ってるなー」と蔵之介。茜はテーブルをドンドン叩いて大笑いしていた。
―50分後―
「くたばれクソ上司」
酔いが最高潮に達した愛美。抱えるストレスを全て吐き出すかのように絶叫した。
「おっ、いいね」食い気味の茜。
「悩みあるなら聞くよ。お姉さんに何でも言ってみな」
「煽らない、茜さん」
「まあまあ」手をヒラヒラとして、茜は蔵之介を宥める。そして、続けた。
「OLには専業主夫にない悩みがあるんだって」
「そうだよ、お兄ちゃん」愛美はドンとテーブルを鳴らす。
「こんな時しか言えないんだから。愚痴ぐらい言わせてよ」
「分かった分かった。……酔っ払いが」ボソリと蔵之介が呟いた。
「よしっ、お代官様のお許しも出た。それじゃあ、いってみよう」
「では、お言葉に甘えて……、あのですね、茜さん」
「なんだいなんだい」
「私は一生懸命やってるんです。結果も出してるし、それなのにですよ。『契約1件とって来たぐらいで、調子に乗るな』って。どう思います?」
「そうだなー。部下を持つ私から言わせると、言い方が悪いと思うなー。私は愛美ちゃんの会社を詳しく知らないから、契約1件という指標がどんなものか分からないけど、少なくとも未来ある部下にかける言葉ではないかな」
「やっぱり、そうですよね。最近、そんなことばかりで……、疲れてしまいました」
「それで、仕事に意欲が湧かないと」
「はい。いっそのこと、仕事辞めようかなと思ったぐらいで」
画面の外から蔵之介の言葉にならない声を聞いた愛美。見ると茜が首を横に振り、視線で蔵之介の言葉を制止していた。
「そっかー」空を仰ぎ、茜は思案する。
「そうなんですよ」愛美はダメ押しのワインを一口。すでに視界はぐるぐるだった。
「でも、どれだけ上司がクズだとしても、私は辞めない方がいいと思うな」
「どうしてですか?」
お酒の助けもあって、語気が強くなる愛美。それに対して、茜は柔和な笑みを浮かべていた。
「だって、悔しいじゃない。負けたみたいで」
愛美は返す言葉もなかった。やはり、歴戦を潜り抜けてきたキャリアウーマンは言うことが違う。言葉もさることながら、表情もそれを物語っていた。
「今までも本気だったかも知れない。でも、その上司に口を挟まれる余地があったのも、事実でしょ。だから、隙のない仕事を目指せばいいんだよ。辛いけどね。そっちの方が、今辞めるよりずっと、得るものが大きいはずだから。その結果、また文句を言われるようなら、その時に辞めたらいいんだよ。それで後悔するのは、上司の方なんだから」
「そうですね。やはり大手企業で働く人は言うことが違いますね。あの上司に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですよ」
「そう。じゃあ、送るよ。えーっと、爪切り爪切り。あっ、向こうか」
よろよろと覚束ない所作で、画面からフェードアウトする茜。画面の外からドタドタと茜の足音が聞こえる。そして、バタンと盛大に何かを倒す音ののちに、茜の悲痛な叫びが響き渡った。
「ちょっと、何してるの、茜さん」
「引っ掛けちゃったー」酔いが最高潮なのだろう。茜は大笑いしている。
愛美がしばらく様子を窺っていると、ぬっと蔵之介が顔を出した。
「ごめんよ、愛美。この辺でお開きということでいい? 茜さんがもうベロベロだからさ」
「全然いいよ。私ももう現界だから」
「ハハッ、そうみたいだね。じゃあ、お疲れ様。ゆっくり休んで」
「うん。お疲れー」
愛美が退出するより先に、蔵之介の方が通話を切った。退出をタップしようとした指が彷徨う。突如訪れた静寂に愛美は虚しさを覚え、ボソリと呟いた。
「寝よ。明日も仕事だし」
愛美はよろける足取りで、寝室へと向かった。」
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